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二匹(1)

第1章 二匹


1‐1.


 一頭の獅子ししが、人間界と自然界の狭間にいた。

 抜きん出た巨体を持ち、威厳あるたてがみを生やしている。一見すれば、野生の主と称しても遜色ないほどだ。

 もっとも、立派なのは外見だけの話である。

 この獅子は、『プライド』と呼ばれる群れを持っていない。なぜなら、弱いからだ。

 自然を生き抜く上で必要なものは、目移りしてしまうような麗しさではなく、ただ純粋な強さだ。それが彼にはなかった。

 獅子は青草の生い茂った大地に横たわり、眠たげな瞳でただ一点を見つめている。その目に映っているのは、細長い吊り橋。人間がこの地にやってきたときに造ったものだ。

 死んだように静かだった獅子は大きな耳を動かすと、のっそりと近くの茂みに身を隠した。獲物を待っているのか、背高な草の隙間から鋭い眼光を覗かせている。

 それからしばらくすると、腹の底を揺らすような低音が辺りに響き始めた。その音は動物たちを威嚇するように橋の先から段々と近づいてくる。

 人間だ。

 ジープに乗った三人組の白人男性が、長さ五十メートルにも及ぶ吊り橋を渡ってくる。

 その中の一人は吸いかけの煙草を谷底へ投げ捨てると、ライフル銃を杖代わりにして立ち上がった。構えた銃のスコープで橋の先を見据え、銃口をゆっくりと左右に動かして前方を確認する。

 獲物はどこだ、と。

 動物の影すら見えなかったのか、男は下品な言葉を吐き捨てて銃を下ろした。

 彼らは一般的に密猟者と呼ばれる人間だ。しかし、この地に彼らを妨げる者はおらず、彼らを縛る法もない。草原を抱える国家ガラグナが、世間には隠して狩猟を容認しているのだ。

 この地は今や、命を踏みにじることによろこびを覚える異常者たちのリゾートなのである。

 荷物を満載した車が、低いエンジン音を響かせながら橋を渡り終えた。

 幅が狭い橋を抜けると、運転手は肩の力を抜き、シガレットケースから取り出した葉巻に火を点ける。まさにそのとき――獅子は茂みの中から飛び出し、車に向かい猛然と走っていった。その距離、およそ五十メートル。

 先手必勝だ。人間が気づく前に到達すれば、確実に一人は殺せる。もし仮に、途中で察知されたとしても、勝負がそこから始まるだけだ。

 谷底から吹き上げる風と車のエンジン音は獅子の味方だった。

 自分たちが狩られることなど想像すらしていない人間は、悠長に談笑しはじめる。誰が多く仕留めるか賭けをしよう、と一人が提案したときには、すでに致命的なまでに両者の距離は詰まっていた。

 獅子は最も脅威となりえる者を的確に選び――武器に手をかけていた男性に狙いを定める。屋根のない車に覆い被さるように飛び乗ると、ターゲットの喉を爪で切り裂いた。

 悲鳴を上げる間すらなく、男は致命傷を負った。肉の裂け目から吹き出した血が、獅子の半身を朱に染め上げていく。

 獅子の重量で軋む車体の音を耳にしながら、残りの二人は選択を迫られる。一人は車から逃げ出し、もう一人は銃に手を伸ばした。

 どちらが正しかったのか。

 とっくに間違えていたのかもしれない。獅子の接近に気づかなかった時点で、命運は尽きていたのだろう。

 彼らが最期に残したものは、絶命を伝える小さな悲鳴と、頼りない銃声のみだった。

 

 獅子は人間の血をすすりながら、本日の大収穫に頬をゆるめていた。

 いつからだろうか、獅子の頭脳が異常なまでに発達しはじめたのは。彼は、人間の言葉を正確に聞き取ることができるし、意味を理解することもできる。

 この地に来たばかりの密猟者を狙うのも、油断に付け入るための知恵だった。さらには、相手が手練れと見るや否や、臨機応変に作戦を切り替える才覚までも持ち合わせている。

 獅子は思う。なぜこんな知能が備わったのだろうか、と。

 しかし、いくら発達した頭脳を持っていても、答えにはたどり着けなかった。

 夜の帳が下り始めた頃、もう人間の来訪はないと覚り、手に入れた食糧を引きずってねぐらに戻っていくのだった。

 

 

 崖を背にした茂みが獅子の巣だ。

 知能が発達するにつれ、彼の生活は激変していった。この巣もしかり。外敵から身を守る術を試行錯誤していったのだ。

 外敵とはいっても、近辺には大型動物が棲んでいないため、もっぱら人間を指している。

 橋が架けられてから、この草原――ユルゲンド草原の生態系は大きく変わった。動物が橋に寄りつかなくなったのだ。

 草原に出入りするようになった密猟者が、多くの動物を惨殺していった。金のためではなく、快楽のために。

 やがて、人間は強者である、と動物たちは認識するようになった。

 橋付近に縄張りを構えていた動物は奥地へと移り、他者の縄張りを荒らす。追い出された動物が、また他者の縄張りを荒らす。

 悪循環を繰り返し、緑の郷国とまで謳われたユルゲンド草原は狂ってしまった。

 草原が広大であれば、ここまで深刻な事態には陥らなかったのかもしれない。しかし、ユルゲンド草原は雄大に広がる地ではない。閉じられた世界だった。

 この草原は切り立った崖に挟まれており、地平線が見えるのは東と西の方角のみという細長い構造をしている。その形は、さながら緑色の蛇が這っているようでもあった。

 獅子は今、蛇《ヽ》の尻尾にあたる部分に居を構えていた。その尾こそ、人間界と自然界を繋ぐ橋がある場所だ。

 この辺りに動物は棲んでいない――はずだった。

 不意に、背後で砂袋を落としたような重量感のある音がした。獅子は振り返りもせずに慌てて逃げ出し、草むらに飛び込む。

 まさか切り立った崖の上から襲ってくる敵がいようとは考えもしなかったのだ。獅子は自分のミスを悔み、死までも覚悟していた。

 敵に背後から接近されたのだ、腹を括るのも当然だろう。仮に立場が逆であれば、この状況で打ち漏らすことなどあり得ないのだから。

 獅子にとっては致命的、敵にとってはまたとない好機。にもかかわらず、敵が追ってくる気配はない。

 訝しげに思いながらも、獅子は草むらから恐る恐る頭を出した。

 獅子の巣は外から発見されにくく、星明かりの侵入すら拒む。絶好の隠れ家も、中に入られてしまえばただの張りぼてだ。好条件が揃っていたことが仇になり、巣に潜む敵の正体を確認できずにいた。

 そんなとき、警戒心のため動けない獅子に助け舟を出すように、一陣の風が吹き抜けた。木々の葉をざわめかせ、茂みを揺らしていく。

 一瞬のことだったが、闇を見とおす獅子の目は、巣の様子を確認していた。ちらりと見えた侵入者は、小さな体を横たえていたようだ。

 視認とほぼ同時――風に運ばれてきた死のにおいを嗅ぎ取る。

 それは、鼻腔にこびりついてくる新鮮な血の香りだ。

 獅子はさらに警戒を強める。相手が手負いなのか、それとも巣に死体が放り込まれたのか。普通に考えれば、餌を他者にくれてやるような馬鹿はいないはずだ。

 依然、侵入者は沈黙を守っている。

 獅子は、他の敵が潜んでいないか辺りの気配を確かめると、注意して巣に戻ることにした。正面からの戦いになるのなら、受けて立つ覚悟はあるのだ。

 そのまま地に伏した侵入者に近寄ると、全貌を確認できた。

 狼だ。

 見たこともないはずなのに、獅子はその生き物を知っていた。

 灰色の毛に覆われた侵入者は、体中のいたるところから微かに血を流し、息絶え絶えに呼吸を繰り返している。

 この地域に棲んでいない生き物が、なぜここにいるのだろうか。獅子は崖を見上げる。

 狼は、高さ三十メートルにも及ぼうかという崖から落ちてきたのだ。

 なんであれ、予期せぬことで餌が増えた。天から降って湧いた幸運に感謝しない者などいない。獅子も例に漏れず、悪い気はしなかった。

 獅子は味見するように狼の血を舐めながら、ちいさな疑問を抱く。この崖の上はどうなっているのだろう、と。

 

 

 なぜ、こんな馬鹿げたことをしているのか。獅子は不可解でならなかった。

 木々の葉から落ちてくる水滴をその身に受けながら、ひたすら雨が止むのを待っていた。巨体の下では、狼が静かな寝息を立てている。

 知能が発達したからなのか、獅子はこの異邦者と話がしてみたいと思ったのだ。

 好奇心だけなのか自問しつつ、狼が目を覚ますのを心待ちにしていた。助からなければ喰ってしまうだけだ、と考えながらも。

 

     *

 

 数日後、狼は雨が上がる前に意識を取り戻した。

 自分を守るように眠る獅子の姿に仰天したものの、怪我で体を動かせない狼に逃げる術はなかった。巨体に牙を突き立てる力も残っていない。

 なにより、『死んでも構わない』と決心して群れ《パック》を離れたのだから、今さら後悔することもなかった。それなのに――

 これは一体、どういうことなのだろうか。狼は困惑していた。

 目を覚ましたことに気づいた獅子が、食べ物を差し出してきたのだ。おまけに体調を配慮してくれたらしく、置かれた肉は細かくカットされている。

 うろたえる狼の内心を知ってか知らずか、獅子が大きなくしゃみをした。死刑宣告かと勘違いした狼は、ますます萎縮してしまう。

 獅子は呑気に体を横たえ、細い尻尾を揺らしはじめた。先端に毛の房がついた尾が、地面でバウンドしながら緩やかなリズムを刻んでいる。血のにおいさえなければ、小鳥でも寄ってきそうな安穏とした雰囲気だ。

 真意をはかりかねる狼だったが、ついに空腹に耐えられなくなり、血の滴る肉にむしゃぶりついたのだった。

 数日ぶりの食事に舌鼓を打っていると、獅子がなにか言いたそうに口を開いた。突然、不機嫌になったようにも見える。

「ご……う…ぐ……」

 なにやら様子がおかしい獅子を見て、狼は大変なことに気づいた。

 目の前の獅子は、格好の餌を見逃した上、看病までしているのだ。こんな馬鹿げた話があるだろうか。

 子供と勘違いしているわけでもない。なにせ、相手は雄の獅子だ。子育てに関わる生き物ではない。

 この状況を説明できる答えが、狼の中にはひとつだけある。

 ――同類、なのだろうか。

 狼は口内の生肉を慌てて呑み込み、神にもすがる思いで、

「じ、人語が理解できるのか?」

 人間の言葉を発声した。

 

     *

 

 狼と話す手段がないことを思い知った獅子は、考えの浅い自分を罵っていた。

 面倒を見て、狼が目を覚ましたのはいい。だが、話を聞けないのでは意味がない。

 どうする。喰うか、逃がすか――などと考えているとき、狼が言葉を話した。透きとおるように澄んだ、穏やかな女声だった。

 面食らっている獅子を横目に、狼は続ける。

「私も同類だ。知らない間に知能が発達していたのだろう? 声を持たないのなら、首を縦か横に振って答えればいい」

 獅子は深く考えず、言われるままに首を縦に振った。

「やはりそうなのか。その分だとすぐに話せるようになる。不便なら、地面に文字を書いてくれればいい」

 文字――獅子の頭の中で、言葉が英語に変換されていく。

『ああ』

 獅子は無骨な爪を器用に使い、濡れている地面を削った。

「よかった、英語なら分かる」

 狼は残っていた肉を飲み込むように腹に収めると、よろよろと立ち上がり、獅子の前足を甘噛みした。

「感謝を。狼の誇りに誓って、この恩は生涯忘れない」

 四肢を震わせてまで懸命に身を起こす狼の心を受け取り、獅子は地面にはっきりと文字を書いていく。

『寝るか、死ぬか、どっちがいい?』

 その反応に苦笑いをした狼は、

「寝るほうが……いい……」

 崩れ落ちるように体を横たえ、深い眠りについた。なぜか、その目尻には薄っすらと涙が浮かんでいる。

 獅子は狼に身を寄せて心地好い体温を感じながら、先ほど書いた文字を凝視していた。

 人間の声は持っていないが、すでに人間の文字は持っている。もたらされた情報の真偽はさておき、この狼は嘘は吐かない、と根拠のない自信があった。

 その信頼が、孤独感という、心の奥底にある暗い感情からきているとは気づかない。

 頭を働かせることに疲れた獅子は、すべてを受け入れるように静かに目を閉じた。

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