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巴里の野生児(ジャングルボーイ) バトリング・シキの白昼夢

作者: 滝 城太郎

仏領セネガルのサン・ルイで生を受けた狩猟土民の子が、四半世紀後には気高きパリジェンヌたちを虜にするほどの人気ボクサーになった。「シンデレラマン」ジェームズ・ブラドックの偉業さえ霞んでしまうほどのサクセスストーリーの主人公が、これから紹介する本名ベイ・ファルことバトリング・シキである。

 十代前半に西アフリカのセネガルからはるばる本国フランスに渡ってきたシキの前半生は謎に満ちており、著名になってから紹介されたものは、そのサクセスストーリーをよりドラマティックに演出するために部分的に創作された可能性が高い。

 現役当時流布されたシキの“伝説”によると、セネガルに流れてきたフランスの舞台女優(ジプシーの女占い師という説もある)の寵愛を受けたシキは、いわゆる男妾として本国まで帯同したというものだが、シキがプロボクサーとしてデビューしたのが十五歳だったことを考えると、ローティーンの黒人少年に白人女優を夢中にさせるほどの性的魅力があったかどうかは疑わしい。しかもこの話を裏付けるような証拠は何もないのである。

 一方、アメリカの著名スポーツ評論家ビル・スターンは、フランス船の船長が人手不足を補うために、部下の船員たちに格好の土民を捕らえてくるよう命じたところ、連れ去ろうとしたシキと大乱闘になり、彼が三人の船員を叩きのめすところを偶然目撃したボクシングのマネージャーからスカウトされたとしており、どうもこちらの方が信憑性が高いように思える。

 これらの真偽はともかく、渡仏後のシキはモンマルトルのレストランで皿洗いをしながら近くのボクシングジムでトレーニングに励み、一九一三年にわずか十五歳でリングデビューを果たしている。

 機を伺いながら恐る恐る相手の周囲を旋回し、隙を見せるや素早く飛びかかってゆく彼のボクシングスタイルは、人間に立ち向かう類人猿のようでいかにも野暮ったいが、ある種のキワもの趣味とでもいうのか、パリの観客には意外に受けがよく、「ジャングル・ボーイ」の愛称で親しまれるようになるまでにはさほど時間はかからなかった。もっともテクニックは全くの未熟で、第一次世界大戦が始まって従軍するまでの二年間は八勝六敗(二KO)二引分という二線級の成績しか残せていない。

 この程度の実績でも集客力があったのは、セネガルを支配しているフランス人の立場からすると、占領地の有色人種であるシキが白人ボクサーから派手に殴られている姿は胸のすく場面であったからだと思われる。人種差別が激しい時代のことである。洗練された白人ボクサーに荒削りな喧嘩ファイトをふっかけながら叩き伏せられる有色人種という構図は、大多数の白人が期待するところであって、一介の皿洗いの外国人労働者であればこそ、白人の要望に応えてせいぜい小遣い稼ぎに精を出そうという気になったとしてもおかしくはない。

 シキが見世物的なファイトから卒業して、プロボクサーとしての本領を発揮するのは、第一次世界大戦後の話である。


 フランス陸軍の兵士として数々の勲功を残したシキは、戦場経験を経て精神的にも肉体的にも見違えるほど逞しくなっていた。そのうえアメリカ班に在籍中にボクシングの手ほどきを受けたこともあって、それまでの猪突猛進型からディフェンスの堅いステディなボクシングスタイルへと変貌を遂げていた。

 中でも特徴的なのは接近戦におけるガードポジションである。腰を低く落として右手は顎の前に、左手はピーカブースタイルに近い位置に構えることで、フックとアッパーはほぼ完全にブロックしてしまう一方で、相手のパンチが流れるとそこから素早く左、右、左のコンビネーションを繰り出すことで、パンチの命中率も格段に向上した。

 一九一九年十一月、約五年ぶりにリングに戻ったセネガルの野生児は、そこからわずか一年足らずの間に十六勝一敗(九KO)一引分という好成績を残し、一躍トップボクサーの仲間入りを果たした。

 こうなるともう周囲が放ってはおかない。かつては見世物的なアフリカ少年だったシキも、「並外れたセネガル人」と呼ばれる強豪ボクサーになったことで、各界の名士たちがこぞってパトロンに名乗りをあげ始め、その生活ぶりは一変した。

 未開の地からやってきたジャングル・ボーイにとって、華やかな社交界は麻薬のようなものだったに違いない。パーティーと酒と女に囲まれたシキは毎晩のように遊びにうつつを抜かすようになったのである。また自身も白人女性が好みということもあって、その逞しい黒い肌に群がるパリジェンヌは後を絶たなかった。


 一九二〇年には滞在先のオランダで現地の白人女性と最初の結婚をするが、遊び癖は相変わらずだった。それでいて、ひとたびリングに上がれば獰猛な野獣に変貌し、いかなる相手も叩きのめしてしまうのだから人気が出ないはずはない。ヨーロッパ中の興行師たちから引く手あまたのシキは、パトロンに連れられてオランダ、ベルギー、ドイツ、スペイン、アルジェリアと試合行脚を続けたが、一九二〇年八月の敗戦を最後に、一引分を挟む怒涛の二十八連勝でついに世界タイトルマッチの声が掛かるまでになった。

 ひとえに二十八連勝といっても、人種差別の残るこの時代のヨーロッパでアウェイを転戦しながらの記録であることを考えれば、その価値は数字以上のものがある。ところがそこを読み違えたのがチャンピオンサイドで、強敵というよりも試合を盛り上げられる相手として人気者のシキに白羽の矢を立てたのだった。


 当時の世界ライトヘビー級チャンピオンは「三色旗の誇り」と謳われたフランスの至宝ジョルジュ・カルパンティエである。カルパンティエは前年にジャック・デンプシーとのヘビー級タイトル戦で惨敗を喫したとはいえ、依然として欧州ヘビー級タイトルは保持しており、ヨーロッパでは全階級を通じて最強と見なされていた。しかもファイティングスタイルは荒削りなシキに比べると遥かに洗練されている。デンプシーにはテクニックというより体格差で敗れたようなものだったため、体格差のないシキ相手なら楽勝するだろうというのが大方の見方だった。


 一九二二年九月二十四日、パリ郊外の野外特設リングで行われた世界戦には五万人もの観客が詰めかけた。マイナー階級のライトヘビー級でこれほどの盛況となったのは、カルパンティエ人気もさることながら、白人対黒人、それも容姿端麗な伊達男と褐色の野生児という組み合わせの妙が絶大な宣伝効果を呼んだと言えそうだ。

 序盤は穏やかな立ち上がりだった。というのも、この試合はカルパンティエの実況記録映画として撮影することになっていたため、早く試合が終わらないよう、前半はお互いセーブして本気は出さないという取り決めが出来ていたからだ(一説にはカルパンティエが六ラウンドでKO勝ちする筋書きがあったとも)。

 ところが三ラウンド開始早々、カルパンティエの右でシキが大きくぐらつくと、本能的にスイッチが入ったのか、カルパンティエは一気にラッシュをかけシキからダウンを奪ってしまう。

「打ち合わせと違うじゃないか!」怒り狂ったシキは、これまでと打って変わって闘争本能剥き出しで王者に襲いかかってゆく。

 シキの連打の威力は凄まじく、今度はカルパンティエがダウン。筋書きのあるドラマが、本気の殴り合いになった。格下と見ていたシキにダウンを奪われたことで熱くなったか、四ラウンドのカルパンティエはいつになく強引に力でねじ伏せようと前に出る。シキは堅いガードでこれを凌ぐと、五ラウンドには逆襲に転じ、打ち疲れて動きの鈍ったカルパンティエをグロッギーに追い込んだ。派手なシーソーゲームに観客席は興奮のるつぼ化したが、終わりは唐突に訪れた。

 六ラウンド開始早々、シキのアッパーが炸裂するとカルパンティエはキャンバスに横転し、そのままカウントアウトかと思いきや、倒れる時にシキの足が引っかかっていたことを理由に、レフェリーはシキの反則負けをコール。レフェリーの露骨な王者贔屓に試合場は一時大混乱に陥ったが、数分後に改めてシキの勝利が発表された。ここにアフリカ大陸初の世界チャンピオンが誕生したのである。

 リング上になだれ込んだファンに胴上げされたシキは、そのまま大勢の観客の中で揉みくちゃになりながらパリの街頭パレードに引っ張り出されていったが、これがアメリカだったらここまで黒人の勝利が歓迎されることはなかっただろう。黒人初の世界ヘビー級チャンピオンの誕生ジャック・ジョンソンに憎悪と非難の目を向けたアメリカのファンに比べると、白人アイドルを血まみれのKOに屠った黒人の偉業を称えるヨーロッパのファンの方が、純粋にボクシングを愛する紳士だったと言えるだろう。


 シキは「レ・ザネ・フォル(狂乱の’20年代)」のパリに咲いたエキゾティックな黒薔薇だった。彼がパリの街を出歩けば、大勢の女性ファンに取り囲まれ、その華やかな女性遍歴は新聞や雑誌にゴシップネタを提供した。

 この頃のシキの一番のお気に入りは、ライオンに皮紐をつけてパリのグランブルヴァールを散歩することだったが、マネージャーの演出があったとはいえアフリカ人のチャンピオンと百獣の王の組み合わせは実に絵になり、絶大な宣伝効果を生んだ。

 それから二年後の一九二五年、パリのレヴューの女王として一世を風靡した黒人ダンサー、ジョセフィン・ベーカーが豹をペットにして話題を呼んだが、黒人と猛獣の組み合わせはシキが先駆だった。

 ところが、名王者カルパンティエをKOしたことで自意識過剰となったシキは初防衛戦で取り返しのつかない失敗をしてしまう。

 一九二三年三月十七日、アイルランドの首都ダブリンで迎えた相手は生粋のアイリッシュ、マイク・ミクティーグだった。前年十二月にアイルランド自由国として自治を認められたばかりのアイルランドでは、英連邦からの完全独立を目指していまだに内戦が続いていた。このような混乱状態の中で世界タイトルマッチを挙行すること自体無謀だったが、試合日もよりによってアイルランドの守護聖人、聖パトリックの日という間の悪さである。民族運動が熱狂的に盛り上がっている最中、アイルランド人にとって最も重要な記念日に地元の英雄と試合を行うということが一体どういうことを意味するか。もちろん答えは一つしかない。


 この試合は、聖パトリックのご加護による番狂わせとして半ば伝説化している。

 伝説を信じるならば、終始攻勢だったシキが不可解な判定で敗れたことになっているが、当日試合観戦した記者の中には、十四ラウンドまではあまり動きがなく、最終二十ラウンドはミクティーグのパンチでシキがかなりのダメージを蒙った、という者もいて真偽のほどはわからない。なにしろ、試合のフィルムは断片的にしか残っておらず、物騒な中での試合ということで時間の制約があり、計量すら省略されているくらいだから、看板こそ世界タイトルマッチであっても実質的には独立運動を盛り上げるためのイベントのようなもので、シキは負けるべくして負けたと言っていいだろう。

 とはいうものの、八百長試合ではないため、万が一、ミクティーグがKOされでもすると暴動が起こっても不思議ではなかった。そういう意味ではミクティーグの方がプレッシャーは大きかったに違いない。


 王座陥落から三ヶ月後の再起戦では二線級のエミール・モレルに反則負け、とツキに見放されたシキは、フランスを離れ一路アメリカに向かった。心機一転、重量級の本場でもう一旗揚げたいという強い思いからだった。

 アメリカでも「カルパンティエをKOした男」として知名度の高いシキは、渡米第一戦がMSGのリングという光栄に預かった。対戦相手のキッド・ノーフォークはサム・ラングフォードやハリー・ウィルス、ハリー・グレブといった伝説的強豪たちともグラブを交えたこともあるベテラン黒人ボクサーである。すでに三十五歳ながら、全盛時にはタイガー・フラワーズ(この翌年、世界ミドル級チャンピオンとなる)をナックアウトしたこともある強打は健在で、現在四連続KO勝ちと好調だった。

 ノーフォークを踏み台にして、再び世界の舞台へ飛躍するつもりだったこの試合、シキは判定で敗れてしまい、大きく評価を下げた。不摂生が祟って、もはやシキのボクシングは「世界」と戦うレベルではなくなっていたが、かつてパリっ児を虜にした猛獣のようなファイトスタイルはアメリカでも人気を呼び、しばらくの間は試合のオファーが相次いだ。

 しかし、試合に勝てずただ物珍しいだけでは客は呼べない。

 都会のネオンと喧騒はシキにとっては蓋が開いたままのパンドラの箱も同然で、酒と女という不治の病に犯された野生児は、翌一九二四年度は六勝七敗(二KO)一引分、一九二五年度は二勝四敗(二KO)と全く精彩を欠き、あっという間に過去の人になっていた。


 最後は哀れだった。クリスマスを控えた十二月十五日、シキは路地裏で射殺体として発見された。

 一説には酔って口論になった相手から背後から撃たれたとも言われるが、真相は闇の中であり、下手人も結局わからずじまいだった。


 シキは一時「黒いカンディード」と呼ばれていたこともあった。大地の揺りかごから人々の醜い欲望が渦巻く大都会に放り出され、二十七年という短い人生の中でめくるめく栄枯盛衰を体験したシキは、ヴォルテールの戯曲の主人公を地でいったと言えるかもしれない。



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