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【菜乃葉】の配信を見るようになってから、依然、仕事の要領は悪いままだが、気分はどこか晴れ渡っている。嫌なことや苦しいことがあっても、【菜乃葉】の配信を見れば一気に吹き飛んでしまうし、そのことが分かっているから、面倒な対応や山積みの仕事が目の前に現れても、心穏やかでいられる。
Vtuberという文化、そして、まだ社会にVtuberがあまり認知されていなかった時代に懸命に戦い抜いたパイオニアたちに、敬意を払う必要がある。配信先に行って投げ銭すべきか。それは、あまりにも浅慮だ。それに、申し訳ないが全員に金を払えるほど僕の収入は高くはない。教師、という職業を侮ってもらっては困る。
彼、彼女たちが創り上げた電脳社会を存分に楽しませてもらい、生きる糧とすることこそ、僕からパイオニア諸君へ向けての敬虔である。
そんなことを【菜乃葉】の配信を見ながら思っていると、ふいに分かった。僕は、彼女に恋をしているわけではないらしい。ガチ恋勢、ではなかった。僕にとって彼女は、頼り甘え、心を浮上させるための綱のような存在だ。異性に対する何かしらのもやもやは、深い所を覗いていると、多少なりの嫉妬心みたいなものは存在しているようだが、だからといって、それが大きなものに繋がることはない。
数学教師のように彼氏面で(実際はしていないが)、【菜乃葉】の話をされれると、「いやいや、俺も彼女のこと知ってますから」と対抗したくはなるけれど、「あいつは俺の嫁ですから」ということにはならない。
その事実に気が付いて、ほっと胸を撫で下ろした。本当に恋してしまっていたならば、泥沼に沈み込んだも同然だ。
先日、【菜乃葉】の雑談配信の中で、彼女が学生だった頃、いじめられていたことを聞いた。高校時代、グループLINEで一人だけ除外され、机の落書きは当然で、四方八方からゴミが飛んでくるのは日常茶飯事。SNSに無許可で写真をアップされ、根も葉もない事実を書き込まれることもあったそうだ。【菜乃葉】自身が口を閉ざし続けていたせいか公にはならず、学校側も視認していながら黙認し、本人は耐える毎日を送っていたらしい。
そして限界を迎える寸前、彼女は自身を守るために登校することを止めた。
いじめ問題はあまりにもシビアで繊細なものだ。不用意に首を突っ込めば事態は悪化し、最悪の結果を招く可能性が多大にある。一人の人間が耐えれば、いずれは卒業して離れ離れになりいじめは消失する。それも百%とは言い切れないかもしれないが、確率で言えば十分に信頼できるパーセンテージだろう。
なれば、公になってしまうきっかけがなければ黙って見ておく。僕たち大人は日和見体質で、知らぬところで雲散霧消してくれるならば、とそれをひたすら願うのだ。
一人の犠牲と多数の犠牲。どっちを選ぶかと言えば、当然、前者だろう。何も、一人を守るために多くが犠牲になる必要はあるまい。どこかの王子さまやお姫様でもあるまいに。
しかしながら、こと当事者となればどうだろう。
いじめられているのが自分だとして、犠牲になるのは自分かそれとも自分を含めたその他大勢か。その他大勢プラス自分になれば、自分に降りかかる悲劇の量は激減することは間違いない。
言わずもがな。だったら、自分一人で耐えようとは思うまい。その他大勢を巻き込んではちゃめちゃにして、苦しさの量をばらまき、自分の量を減らしていきたいと思うのが普通だ。
だからきっと。
【菜乃葉】のように、口を閉ざしながら耐えている人間は、他の人たちに迷惑をかけたくないと望んでいる。自分が心底嫌いで、そんな嫌いな自分が他人を犠牲の内の一人として取り込んでしまうことを許さない。
他人を好きだと思い込んでいる、自分が嫌いな人間だ。
「杉並先生、ちょっとよろしいですか?」
職寝室で次の授業の準備をしていると、教頭先生から声をかけられた。眼鏡の上の眉が困ったように曲がっていて、唇も少し内側に入りこんでいる。
「どうされました?」
「いえ、実はですね。一週間前から学校へ来ていない生徒がいまして。その生徒の家庭訪問をお願いしたいんです」
「えっと、その生徒の担任はどうされたんです? 僕はクラスを受け持っていませんし、正直、お恥ずかしい話ですが、生徒一人一人のことを詳しくは知りません。名前を聞けば顔は出てきますが、それぐらいですよ」
「私にも分からないのですが、その担任の先生が、杉並先生ならなんとかしてくれる、と言うものですから」
「…………」
職員室を見回す。一人の教師が、僕に向けて親指を立てていた。にっこりと笑って出来たえくぼが、憎たらしいほどに窪んでいて、そこに親指を引っかけてやりたい気持ちに駆られた。
面倒事を押し付けて来た文句を言ってやりたいけれど、Vtuberのことを教えてもらった対価だとすれば、致し方なし、と思えてしまう自分もいて、いまいち足が一歩前に進まない。
今日は【菜乃葉】のライブ配信が二十時からあるので、それまでになんとかその生徒の状況を把握して、家に帰り報告書を作成し終えよう。ネグレクトが原因なのだとしたら、児童相談所にさっさと連絡してしまえばよし、学校に連絡している通りに体調が悪い、ということならばそのまま事実を報告すればいい。
厄介なのは、ぐれて手がつけられなくなっている、というパターンだろうか。漫画やドラマのように現実は甘くないわけで、僕なんかが説得して改心してくれる見込みは僕が陽キャになるぐらいない。
とにかく、原因がなんであれ、タイムリミットは帰宅時間も考えて、十九時三十分だ。そこまでになんとしてでも、終わらさなければならない。
「生徒の名前は『明石凜花。二年三組の生徒です」
ああ。その生徒なら、知っていた。
教師の中で、そして二年生の中で彼女のことを知らない人間など、一人もいないだろう。
机の落書きは当然で、四方八方からゴミが飛んでくる。一時期、SNSで卑猥な画像を上げていると騒ぎになったが、それは明石凜花ではない誰かが彼女を装って作った偽アカウントだった。
そう。明石凜花がいじめらていることを、僕を含め、教師も生徒も――知っている。