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君が呼ぶのなら

 あの夏の日が、今も焼きついている。


 *


 高校三年生といえば、受験生である。

 そこそこ田舎な地方に住んでいる僕でも、大学進学を目標としているので、受験はするつもりだ。

 でも、正直良い大学に進みたいと思ってはいない。ただ大学生になって、もうちょっと遊んでいたいだけである。

 だから勉強なんて最低限でいい。こんなくそ暑い夏休みに、わざわざ夏期講習なんて。

 制服を着て高校までの道のりを歩きながら、途中で脇道に逸れる。日陰を求めて、山の方へ。

 申し訳程度に整えられた歩道を登っていくと、そこには寂れた神社があった。辿り着いて、僕は大きく深呼吸をした。

 体いっぱいに新鮮な空気が入り込む。さわさわと木々の揺れる音が心地良い。リラックスして、思わず頬が緩む。

 最近見つけた、お気に入りのサボりスポット。

 寂れていると言っても、単に参拝者がほとんど来ないというだけで、人の手は入っているらしい。荒れ放題ということもなく、かといって常駐する神職もいない。

 屋根もあるし、木の板に転がるのは気持ちが良い。僕はさっそく縁側に寝転がり、昼寝でもしようかと目を閉じた。瞬間。


「なぁ、少年」


 澄んだ声に、ばちりと目を開く。飛び込んできたのは、長い黒髪だった。


「そこは私の特等席なんだ。良ければご一緒しても?」


 驚いて体を起こした僕に優雅に微笑んで見せた彼女は、僕とは違う高校の制服を着ていた。

 白いシャツに、赤いリボン、紺のサマーベスト。同じく紺色のスカートは膝まであって、校則を破らないタイプに見えた。

 そんな彼女が、制服で、こんな場所にいる。つまりサボりだろう。人は見かけによらないとはこのことだ。

 そして彼女は僕のことを「少年」と呼んだが、僕は三年生だ。制服姿の彼女が年上ということはない。それなのになんとなく下に見られた気がして、僕はむっとした。


「僕、高三なんだけど。少年なんて呼ばれる筋合いないな」

「それは失礼した。少年の名前を知らないものだから。私は桐生菖蒲(あやめ)、君と同じ高三だ。少年の名前は?」

「……藤宮翔真(しょうま)


 奇妙な喋りをする女だな、と警戒しながら、僕はぶっきらぼうに名前だけを告げた。


「そうか、翔真か。良い名だ。では、改めて。翔真、私もここに居ても?」


 いきなり名前で呼ぶのかよ、と思いながらも、それを指摘するのは意識しているようで恥ずかしい。だから僕もなんでもないように、彼女の名を口にした。


「別に、僕に許可なんか取る必要ないだろ。勝手にすれば、菖蒲」


 名を呼ばれた菖蒲は、何故か嬉しそうに、にんまりと笑った。

 かと思えば、そのまま僕の隣に腰を落ち着けた。離れたところに座ればいいのに。いや、この場合、僕が移動するべきなのだろうか。

 そわそわしていると、菖蒲がごろりと転がった。縁側に、彼女の長い髪が散らばる。

 なんとなく見てはいけないものを見ているような気分になって、僕はふいと視線を外した。


「今日は暑いな」

「……今日も、だろ」

「違いない。けれど、コンクリートの近くよりも、ここはまだましだ。風もあるしな」


 どうやら菖蒲は、会話を続けるつもりらしい。別に僕も暇だし、無視する理由もないので、そのまま会話にのった。


「こんだけ暑くてもきっちりベストまで着こんでるなんて、育ちがいいんだな」


 嫌味を込めた僕の言葉に、菖蒲は全く怯むことなく軽く返した。


「なんだ、脱いでほしいのか? 案外スケベなんだな、君は」

「なっ! だっ、誰もそんなこと言ってないだろ!」


 ぐりんと顔を向けると、菖蒲はくすくすと笑っていた。からかわれている。

 一枚上手だった菖蒲に、僕は真っ赤になって歯噛みした。


「顔が赤いな。ベストの下を想像したか?」

「べ、別に、脱いだからって困ることないだろ! 知ってんだからな、女子だってシャツの下にTシャツとか着てんの!」

「ふむ。Tシャツを着こむ女子は少数派だと思うが……そうだな、キャミソールなどを重ね着して、下着が透けないようにするのがマナーだな」

「なんだ、やっぱ着てんじゃん」

「いいや? 私は着ていない」


 思わず想像して一瞬固まった僕に、菖蒲は悪戯が成功したような顔で上体を起こした。


「女の服はな、ラッピングなんだよ」

「は、あ?」


 どきまぎしながら答えた僕に、菖蒲は制服のリボンを摘まんで見せた。


「プレゼントの包装を解くのは、楽しいだろう? 中身がなんなのかわくわくしながら開ける、あの高揚感。同じだ。リボンを解いて、シャツのボタンを一つずつ外す。もう少し、あとちょっとで中身が見られる。そう思いながらシャツを開いて、中がまたシャツだったら……がっかりしないか?」

「……まあ?」


 そんな経験はないが、想像してみたらそうかもしれない、と思った。


「だからベストなんだ。これならシャツより先に脱げるし、下着も透けないだろう?」


 自信満々にそう説明した彼女に、僕は胡乱な顔を向けた。


「そういうことを初対面の男に言う?」

「なんだ、脱がせる気か?」

「しないけど!?」


 大声を出した僕に、菖蒲は声を上げて笑った。馬鹿にしやがって。

 要するに、牽制なのだろう。いつ脱がされてもいいように準備しているということは、体の関係のある彼氏がいるってことだ。はいはい、お盛んなことで。

 でも、だったら彼女は、何故ここに一人でいるのだろう。


「……あのさ。僕、夏休み中はちょくちょく来ると思うけど」

「そうか。私もだ」

「特等席って言ってたけど、僕も使っていい?」

「おかしなことを言うんだな。翔真が言ったんだろう? 許可など必要ない。ここは別に私の持ち物ではないのだから」


 こうして、菖蒲と僕の奇妙な日々が始まった。


 *


「……何やってんの?」


 いつもの神社の境内で、菖蒲がしゃがみこんで熱心に何かを見ていた。

 声をかけると、菖蒲が手招きをする。仕方なく近寄って、彼女の隣にしゃがみこむ。すると、溶けたキャラメルの塊に蟻が集っていた。


「蟻?」

「ああ。行列を眺めていたんだ」

「何が面白いんだよそんなの。このキャラメル、菖蒲が?」

「おやつにしようと思って持っていたんだが、どろどろに溶けてしまってな」

「そりゃそうだろ」

「仕方ないから、せめて有効活用できないかと、自然に還元することにしたんだ」

「還元って……。ここ山だからまだいいけど、住宅地だったら説教案件だぞこれ」


 虫を集めて大人に良い顔をされるはずがない。

 小学生なら喜ぶだろうが、菖蒲はこんなものを眺めて何が楽しいのだろうか。


「蟻社会は大変だな」

「……何が?」

「これだけ必死に働いても、産卵をするのは女王蟻だけだ。他の雌はせっせと女王のために働き、逸脱することは許されない。働き蟻は相互監視が厳しくてな、女王蟻以外の蟻が勝手に産卵しようとすると、他の蟻が制裁にかかるそうだ」

「げえ……」


 想像して、思わず顔が歪んだ。そんな僕に畳みかけるように、菖蒲は気味の悪い話題を続けた。


「雄はもっと悲惨だ。子どもを産むためだけに生まれて、その後は食われる」

「食われるの!?」


 ぞっとして、鳥肌が立った。昆虫社会にはそういうものがあると知ってはいたが、蟻もそうだったのか。


「男を食い物にするのは、人間社会も変わらないさ」


 そう言った菖蒲の横顔は、なんだか自虐的にも見えた。

 男を食い物にしていそうな女には見えないが、恋愛経験の乏しい僕にはわからない。案外こういう清楚な見た目の女の方が、男をとっかえひっかえしているのかも。

 でも、蟻の雄が人間と変わらないというのなら。さっきの雌の話も、人間社会の比喩だったのではないだろうか。

 菖蒲は美人だ。美人の学校での立ち位置は、だいたい二パターン。カーストトップのグループに君臨するか、孤高の華であるか。

 彼女の奇妙な口調を考えても、女社会に溶け込む努力をしているようには見えなかった。むしろ率先して孤立していそうだ。夏休みに、一人きりで、こんな人も来ない場所にいるのだから。

 けれど僕に話しかけてきたことを考えれば、決して人嫌いではないのだろう。ただ僕が男だったから、あるいは、この場所に二人きりだから、交流を図ったのかもしれない。

 蟻を見下ろす菖蒲の額に、汗が伝っていた。いったいいつから眺めていたのだろう。


「日陰に入った方がいいんじゃない? 熱中症になるぞ」

「そうだな。そうするか」


 意外なほどあっさりと立ち上がると、菖蒲は神社の屋根の下に避難した。

 沈黙に、蝉の声が響く。菖蒲が話しかけてこないので、話す気分ではないのかと、僕は暇つぶし用に鞄に入れていた本を取り出した。

 栞のページを開くと、目ざとくそれを見た菖蒲が覗き込んでくる。


「へえ、君は本を読むのか。意外だな」

「な、なんだよ、見るなよ」

「見られて困るようなものでも……いや、失礼。困る内容だったか?」


 偶然にも、開いたページには挿絵があった。しかもちょっとエッチなやつ。僕は慌てて本を閉じた。


「い、言っとくけど、普通の本だから!」

「普通の本に、官能的なイラストが?」

「ライトノベルなんだから、こんなもんだろ」


 ごにょごにょと言い訳をする僕に、菖蒲は首を傾げた。


「なんだよ。ラノベ、読んだことない?」


 挿絵だけで誤解されるのも嫌なので、僕はカバーを外して表紙を見せた。

 アニメイラスト丸出しなのが恥ずかしくてカバーはかけていたが、別に表紙はエッチなやつではない。ただ美少女がビキニアーマーを着ているだけで。

 エッチなやつではないが、菖蒲がまじまじと見つめるので、なんだか恥ずかしくなってきた。


「ライトノベル、と呼ばれるものは読んだことがあるが、こういったものではないな。挿絵もなかった」

「ああ、ライト文芸とか、そういうタイプ? これはもうちょっとアニメっぽいやつ」

「ほう」


 菖蒲は興味深そうに、尚も本から目を離さなかった。気まずくなって、僕は思わず頓珍漢なことを口にしてしまった。


「良かったら、読む?」


 菖蒲がぱちりと瞬きする。焦って撤回しようとしたが、


「良いのか? なら、お言葉に甘えようかな」


 微笑んだ菖蒲が嬉しそうに見えて、僕は黙って頷いた。


「あ、でもこれ、二巻だから。今度一巻持ってくるよ」

「そうか。なら私も、おすすめの本を持ってくることにしよう。交換といこうじゃないか」

「……ちなみに、どんなの?」

「そうだな……太宰とかどうだ? 有名だし、とっつきやすいだろう」

「とっつきやすいかなそれ……」


 何を持ってこようか、と色々なタイトルを口にする菖蒲は、楽しそうだった。本が好きなのかもしれない。

 ジャンルは違うけれど、菖蒲との共通点が見つかって、僕も少しだけ心が弾んだ。



 それから、神社に行く時には、必ず本を持っていくようにした。僕は毎日行くわけではなかったが、いつ行っても菖蒲は神社にいた。

 菖蒲は、最初は小難しい本を薦めてきた。僕も最初こそ頑張って読んだが、よくわからなくてすぐに音を上げた。菖蒲はそれを馬鹿にすることもなく、映画化された作品の原作本だったり、僕が薦めた本に近しい雰囲気の本を持ってきてくれたりした。古典に拘りがあるわけではなく、広く読んでいるようだった。

 お互いに同じ本を読めば、自然と話は弾んだ。僕にとって神社は一人でくつろぐための場所だったが、いつの間にか、菖蒲と会える場所になっていた。

 神社に行く頻度は自然と増えたが、それでも学校に全く顔を出さないわけにもいかない。


「はよーっす」

「お、藤宮、久しぶりじゃん」

「今日小テストだしな」


 クラスメイトの風間に挨拶をして、教室の自分の席に着く。

 夏期講習は自由参加なので、出席しなかったからといって、別に教師からのお叱りはない。

 ただ、母親からは、参加するように強く言われている。僕がクーラーのある自宅ではなく神社でサボっているのは、夏期講習に参加している、という体で家を出ているからだ。

 通常の授業だけならまだいいが、小テストに不参加だと、物理的な参加の証拠が出せないため詰む。

 テストが実施された時というのは、保護者ネットワークで何故か把握しているのだ。絶対に提出を要求される。

 良い点数が取れる気はしないが、赤点よりも未受験の方がまずいと判断して、出席したというわけだ。

 少しばかり勉強をして臨んだが、やはりテストの出来はさんざんだった。

 その日の内に返却されたテストの結果を見て、僕は渋い顔をした。覗き込んだ風間が、からかうように言う。


「赤点ギリじゃん」

「まー勉強してないしな……」

「だったら夏期講習ちゃんと来いよ」

「いやぁ……。今それより、楽しいことがあるからさ」

「は? 何それ。女?」


 急に身を乗り出した風間に、その分僕は引いた。なんだその食いつきは。


「あー……女と言えば、女かな」

「はぁ!? 嘘だろ、お前は俺の仲間だと思ってたのに!」

「何の仲間だよ」

「陰キャモテない仲間! 受験終わったら一緒に大学デビューの計画立てようと思ってたのに!」

「すまん、僕は別に大学デビューする気がない」

「嘘だろ!? 夢がない!」


 ぎゃあぎゃあと喚く風間を押し退けながら、僕は菖蒲のことを思い出していた。

 他校の美人女子と二人きりで頻繁に会っているなんて、陰キャ男子高校生からしたら夢のような話だろう。出来過ぎたライトノベルみたいだ。よくよく考えたら、贅沢な経験をしているのかもしれない。


「なあ、その女のこと詳しく教えろよ!」

「嫌だよ」

「なんでだよ!」

「お前しつこいんだもん。大した話でもないし。それより、次のテスト範囲のプリント貸して」


 強制的に話を終わらせて、夏期講習らしく勉強をする。

 何故だか、菖蒲の話をしたくなかった。

 あの時間は、僕だけが抱えている、大切な秘密のように感じていたから。


 *


「菖蒲って頭いい?」

「なんだ、藪から棒に」

「いや、小難しい本読んでたから、成績いいのかなって」


 いつもの神社でふと思いついた疑問を、僕はうっかり口にした。

 学校に行っていない様子の菖蒲に、僕はあまり学校での話題を振らなかった。言ってしまってから、勉強に関することならセーフだろうか、などと自分の中で言い訳をする。

 菖蒲はたいして気にした素振りもなく、普通に答えた。


「特別良いというほどではないが、平均よりは上位にいるな」

「見た目通りだなー」

「翔真も別に馬鹿には見えないが」

「いや、僕結構ひどいよ。この前も赤点ギリだったし」

「そうなのか? 見せてみろ」

「えー……」


 女子に低い点数のテストをわざわざ見せるなんて、何の罰ゲームだろうか。

 けれど言い出したのは僕の方なので、渋々小テストを見せる。


「これは……ひどいな」

「率直」


 顔を顰めた菖蒲に、僕は胸が痛んだ。もう少しオブラートに包んでほしかった。


「しかし、内容を見るに……単に勉強をしていないんじゃないか?」

「あはは」


 空笑いでごまかそうとした僕を、菖蒲がジト目で見つめた。


「まあ、勉学は本人のやる気が一番だからな。ここにいる時点で、私もどうこう言える立場ではないが……進学先は、選べるにこしたことはないぞ」

「うーん、でも僕、別にやりたいことはないし。ただ大学生になれればいいかなって」

「やりたいことは、大学で探せばいい。選択肢は広い方がいいぞ。楽しい大学生活を過ごしたい、という目標だけでも、荒れた大学に進んだら叶わないだろう。楽しそうなイベントをやっている大学を探すと良い。食堂が美味しそうな大学とか、入りたいサークルがあるとか、そんなものでもいいんじゃないか」

「ふぅん。菖蒲は行きたい大学、決まってるの?」


 進路指導のようなことを言う菖蒲に、彼女はきっと行きたい大学がはっきりしているのだろうと思った。

 聞いたところで、僕の学力では同じところに行くなんてこともできない。特に問題ないだろうと気軽に聞いたが、菖蒲は曖昧に笑った。


「進路の希望はある」

「そうなんだ?」


 具体的に言わないのだから、言いたくないのだろう。それ以上深追いはしなかった。


「でも、学校の授業眠くなるんだよなー……。そうだ、菖蒲教えてよ」

「私が?」


 きょとん、とした菖蒲に、図々しかっただろうかと慌てて言い訳を付け加える。


「いや、ほら。先生から教わるより、菖蒲の方が説明うまそうだしさ。人に教えると、自分の勉強にもなるって言うじゃん? 時間も十分あるし、どうかなって」


 早口で言い連ねて、逆に気持ち悪かっただろうか、と若干へこんでいると、菖蒲が軽く笑った。


「そんなに必死にならなくても、勉強くらい教えるとも」

「いいの?」

「もちろん。翔真には、私の読書にも付き合ってもらっているしな」


 別に読書は付き合っているわけではなく、お互いの趣味の持ち寄りだ。でも、そうやって僕が頼みやすくしてくれたんだろう。

 それから、神社での二人の時間に、少しだけ勉強の時間が加わった。

 思った通り菖蒲の教え方はわかりやすくて、次の小テストはちょっとだけ点数が上がった。


 *


「最近、気になる人がいるんだ」


 いつもの神社で、勉強を終えて一息ついている時。菖蒲から出た言葉に、僕は動きを止めた。

 別に、別に菖蒲が僕に気があるとか思っていたわけでは、断じてない。

 そもそも、最初から僕は菖蒲には彼氏がいると思っていた。だから、僕とどうにかなるわけないと思っていたんだ。本当だ。

 ただ、僕といる時にはそういった話題は出さなかったから、少し動揺しただけ。それだけ。


「へえ、そうなんだ。僕はてっきり、菖蒲には彼氏がいるんだと思ってた」


 動揺を隠してそう返すと、菖蒲はきょとんとした顔で僕を見た。


「私に彼氏がいるなどという話をしたか?」

「いや、してないけど」

「だろう?」


 そう言って、菖蒲は笑った。いや、それ結局肯定にも否定にもなってないじゃん、と思いながら、深掘りはできなかった。


「それよりも、私の気になる人、気にならないか?」

「ややこしいな。まぁ……気にならないわけじゃないけど」


 話を振ってきたということは、菖蒲も聞いてほしいのだろう。むきになって否定する理由もないので、僕は話にのった。


「そうだろう、気になるだろう。見せてあげよう」


 言いながら自分のスマホを操作して、菖蒲は僕に画面を向けた。

 わざわざ写真を見せたいなんて、よほどのイケメンなんだろうか、と思ってスマホの画面を見ると、僕がいた。

 ぎょっとして声を上げると、画面の中の僕もぎょっとした。そして気づいた。画面に映っていたのは写真ではなく、カメラ越しの僕だ。スマホがインカメラになっていた。


「菖蒲、これ画面カメラになってるよ」

「そうだな」

「そうだなって。写真見せたかったんじゃないの?」

「いいや? 私は、気になる人を見せる、と言っただけだ」


 それって。

 驚いて固まった僕に、菖蒲は悪戯が成功した顔で笑った。


「どうだ。どきっとしたか? 私でも、早苗のようなヒロインに見えたかな」

「は、え? 早苗?」

「なんだ。翔真が貸してくれた小説だろう? 彼女は可愛かったから、真似してみたんだが」

「あ、ああ……そういう……」


 びっくりした。そういえば、菖蒲に貸したラノベに、確かに同じシーンがあった。

 いつもの、本の話題の延長。深い意味なんてなかったのだ。

 がっかりした自分に気づいて、僕は顔を覆った。


「すまない、不愉快だったか?」


 珍しくしょげたような顔をする菖蒲に、僕は苦笑してみせた。


「いや、そうじゃないけど。でもそれ、他の人にやらない方がいいよ」

「当然だ。翔真以外にやるつもりはない」


 息を呑んだ僕に、菖蒲はふわりと笑った。


「翔真が気になる人、というのは、本当だからな」


 菖蒲は、どこまでわかってやっているのだろう。

 僕はただ、愛想のない返事をすることしかできなかった。


 *


 もうそろそろ夏休みも終わる、という頃。

 神社に行くと、いつものように菖蒲がいた。

 いつもと違うのは、彼女が何か思いつめたような顔をしていたことだった。

 僕の心臓が、どくりと音を立てた。

 結局、夏休みの間、彼女はいつもこの神社にいた。制服で。学校に行けない理由でも、あったのだろうか。

 それを深掘りすることはなかった。菖蒲とは、連絡先の交換すらしていない、この神社で会うだけの間柄だった。

 友達、と呼んでいいのかどうかもわからない。曖昧な、夏休みだけの関係。

 僕はこの先も、菖蒲といたいと思っている。

 もしも、彼女が、夏休みが明けても学校に行けないのなら。何かの事情があるのなら。

 力になりたいと、思っている。

 けれどそれをどう切り出して良いのかわからなくて、僕はいつものように軽い挨拶をした。

 菖蒲もいつものように返して、縁側に二人並んで腰かけて、他愛ない雑談を交わした。

 夕方になって、そろそろ帰ろうか、という頃合いに、菖蒲が唐突に口にした。


「子どもができたんだ」


 呼吸が止まった。

 けれど、間を空けてはいけないと思った。何かすぐに返さなければと、僕は咄嗟に


「おめでとう」


 と言った。

 菖蒲は驚いた顔をしていたが、口にした僕の方も驚いていた。

 もっと他に、言うべき言葉があった気がする。

 そもそも、菖蒲は誰の子とも言っていない。親に、かもしれないし、友達に、かもしれないし、もしかしたらペットかもしれない。

 色んな可能性があったけれど、それでも、きっと「子どもができる」というのは、どんな場合でも嬉しいことなのだ、という思い込みが、僕にはあった気がする。

 訂正するのも変な気がして、じりじりと奇妙な焦燥を感じ始めた頃。菖蒲が、くしゃりと表情を崩した。


「ありがとう」


 菖蒲は深く息を吐いて、肺の底まで吐ききるように、体ごと俯いた。


「祝ってくれたのは、君が初めてだ。……これで、呪わずに済む」


 顔が見えなくなって、泣いているのかと焦った僕に、菖蒲は顔を上げてゆるりと笑いかけた。

 そのまま言葉が出ない僕を置き去りに、菖蒲は立ち上がって、階段を降りて行った。


「さて、そろそろ帰ろう。お腹も空いたしな」


 振り返りもせずに歩き出した彼女が、どこかへ行ってしまいそうで、僕は慌てて腕を掴んだ。


「翔真?」

「れ、連作先!」


 唐突な僕の言葉に、菖蒲は目を瞬かせた。


「連絡先、交換してなかっただろ! そろそろ夏休みも終わるし、時間、合わなくなるかもしれないから」

「……夏休みが終わっても、私と会ってくれるのか?」

「当たり前だろ!」


 ぎゅっと手に力を込めた僕に、やはり菖蒲は、ゆるりと笑った。

 半ば無理やりスマホを取り出させ、僕が操作して連絡先を交換した。


「何かあったら……いや、何もなくても、いつでも、連絡していいから。小説の新作が出たとか、空がきれいだったとか、そんなんでいいからさ。とにかく、連絡してよ」

「わかったわかった。気が向いたらな」

「茶化すなよ」


 見据えた菖蒲の瞳が揺れる。逸らしたら、気持ちで負けると思った。だから僕は、しっかりと目を合わせたまま、菖蒲に告げた。


「僕は、ただの高校生だけど。ぼくにだって、できることはあるから。例え何の力にもなれなくても、そばにいることはできるから。だから、会いたくなったら、呼んで。必ず会いに行くから」

「……必ず?」

「必ず!」


 力強く言い切った僕に、菖蒲は息を漏らすように笑った。


「そうか。楽しみにしている」


 それきり、彼女は姿を消した。


 *


 推薦入試組の合格が決まり始めた秋。クラスの空気もピリピリしてきた。

 僕と同じくそういった空気が苦手な風間が、自習時間に雑談を振ってきた。


「なあ、そういや知ってる? 坂女の噂」

「噂ぁ?」


 坂女、とは近くにある坂乃下女子高等学院の略称だ。

 そういえば菖蒲の制服は坂女だったな、と僕は彼女の姿を思い出していた。


「学生妊娠して、退学した生徒が出たんだって!」


 ざわ、と肌が粟立った。

 そんな僕の様子に気づかず、風間が話を続ける。


「なんでも、パパ活? してたとかでさぁ。やべーよな、犯罪じゃん」

「え? あたしが聞いたのは、社会人の彼氏がいて、駆け落ちしたって」

「うそ、私は他校の男子生徒だって聞いたよ。男子生徒はおとがめなしだったのに、坂女は厳しいから女子の方だけ退学になったって」


 高校生の興味を引く話題だったのか、聞き耳を立てていた周囲も話に加わってきた。

 皆が聞いた噂は人によって違っていて、どれが真実なのかはわからなかった。

 ただ、その退学した女子生徒が、好奇の目に晒されていることだけはわかった。

 どくどくと、耳にまで心臓の音が届く。

 菖蒲の名前は、一度も出ていない。さすがに名前までは知られていないのだろう。

 でも学校が特定されているということは、知っている人間も、当然いるはずだ。

 これ以上は聞きたくない。なんとかして話題を止めようと、穏便に話を逸らす方法を考えていたが。


「でもさ、事情が何にせよ、高校生で妊娠するなんて馬鹿だよな。自衛が足りねーよ」


 笑いながら言った風間の胸ぐらを、僕は思い切り掴み上げた。反射的な行動だった。

 机や椅子が倒れて、女子の悲鳴が上がる。


「何やってんだよ、藤宮!」

「止めろ止めろ!」


 数人がかりで引き剥がされて、辛うじて僕は風間を殴らずに済んだ。けれど、怒りは収まらなかった。


「事情がわかんないなら、他人のお前が口出すんじゃねーよ!」


 怒鳴った僕に、風間はうろたえていた。


「な、なんだよ。藤宮、知り合いなのか?」


 僕はぐっと言葉に詰まった。ここで知り合いだと言えば、僕も根ほり葉ほり聞かれるだろう。

 菖蒲のことを、人に話したくなかった。

 何より、この件が菖蒲の話だと、決まったわけじゃない。


「こらお前ら、騒がしいぞ!」


 僕が答えるよりも早く、教師が教室に入ってきて、その場は収まった。

 僕は怪我こそさせていないものの、クラスメイトに暴力を振るったとして、反省文を提出することになった。

 反省文で済んだのは、被害者の風間が口添えしてくれたからだ。

 放課後の教室で心にもない反省文を書きながら、僕はスマホを取り出した。

 菖蒲とのメッセージ画面は、僕だけが一方的に送っている。彼女からの返信はない。

 今どこで、何をしているのか。

 返ってこないと知りながら、『元気?』と一言だけ送る。

 社交辞令ではなく、ただ、元気にしているかどうか。それだけでも、本気で知りたかった。

 僕じゃなくても。菖蒲は、誰かに頼れているだろうか。

 

 *


 春になって、僕は大学生になった。

 菖蒲のことを気にしながらも、慌ただしい大学生活を送って暫く。

 五月五日のこどもの日、突然、菖蒲から連絡があった。

 正しくは、写真が一枚送られてきただけ。メッセージは何もない。ただ、赤ん坊だけが写っていた。僕は泣きそうになりながら、「おめでとう」と返した。

 正直、もう連絡がとれないのではないかと思っていたので、ほっとした。

 高三の夏休みが明けてから卒業するまで、結局菖蒲からは一切の連絡がなかった。

 あれだけ念を押したのに音信不通になってしまったと、僕は相当落ち込んだ。だから、写真一枚でも、菖蒲が近況を伝えてくれたことが嬉しかった。

 次の年も、五月五日に写真が送られてきた。少し成長した子どもの姿に、僕は「可愛いね」と返した。

 次の年も、また次の年も。毎年五月五日に、菖蒲からは写真が届いた。

 それは子どもの姿だけで、菖蒲は映っていなかった。当然、父親の姿も。

 彼女は、元気にしているのだろうか。尋ねても、返事はなかった。ただ写真だけは毎年続いたので、ひとまず生きていることだけはわかった。

 そうこうしている内に、僕は社会人になった。

 東京の企業に就職した僕は、多すぎる人に眩暈を起こしながらもだんだんと都会に馴染み、一人きりのアパートに帰るのにも寂しさを感じなくなっていた。

 菖蒲の子どもの写真を見ながら、僕もそろそろ家庭を持った方が良いのだろうか、などと考えてみたが、いまいちピンとこなかった。男はいつまでも子どもだというが、僕もまだまだ自分が子どもみたいな気分なのかもしれない。

 あの夏が焼きついたまま。僕はまだ、動き出せずにいる。


 年末が迫って寒さも厳しい冬、白い息を吐きながら、僕は夜道を歩いていた。

 コートもマフラーも装備していたが、あいにく手袋を忘れた。ポケットに手をつっこんでいると、同じくポケットにつっこまれていたスマホが震えた。

 さっきまで職場にいたので、仕事の連絡だったらどうしよう、と画面を見て、立ち止まる。


 ――菖蒲だ。


 彼女は、毎年五月五日にしか連絡を寄越さなかった。こんな時期に連絡が来るなんて。

 慌ててメッセージ画面を開くと、送られてきたのは位置情報。マップで開くと、そこは山梨だった。

 続いて送られてきたメッセージは、『来て』というたった二文字。

 その二文字を目にした瞬間、ろくに手元も見ずに『行く』とだけ返信しながらスマホをポケットに押し込み、僕は駆け出した。肺が痛くなるほどの冷たい空気を吸い込んで、全速力で駅を目指す。終電に間に合わせるために。

 新宿行きの電車に飛び乗って、息を切らせながらスマホを取り出して、会社に明日の欠勤連絡をする。もっと長くかかるかもしれないが、それは明日考えよう。とにかく最低限の引継ぎ連絡だけ済ませると、僕は呼吸を整えた。

 何があったのかはわからない。でも、菖蒲が来てほしいと言った。僕には、それで十分だ。

 約束した。必ず、と言った。あの言葉を、菖蒲は信じた。信じてくれた。

 胸が熱くなった。今の僕は、もう子どもじゃない。なんでもはできないが、たいていのことはできる。たくさんのことを知ったし、難しい手続きもできるし、人脈だってあるし、貯金だって結構ある。こんな風に、その日の内に、東京から山梨に行くことだって。

 今の僕なら、彼女の助けになれる。

 

 待っていて。

 あの日の約束を、嘘にはしないから。

 必ず、会いに行く。


 必ず。

最後まで読んでいただきありがとうございます。もし気に入っていただけましたら、是非★評価いただけると大変嬉しいです。よろしくお願いします。

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執筆ありがとうございます。 とても楽しく読ませていただきました。 胸が苦しくなるような切なさを感じました。 作品を読ませていただいて一言 続きを〜彼らの未来の続きが気になり申すぅ〜(泣) 昨今蒸し…
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