湯煙案件発掘-ジルのソーシング活動
――ジル・クラーヴェ前半:噂に賭ける
「さて、どう動くかな――」
学院裏の会議室を出て間もなく、ジル・クラーヴェは校門脇の柵に肘を置き、短く息を吐いた。
配られた白紙のファイルが、風に煽られてパタリと鳴る。表紙の自分の名前が妙に重たい。
“自分が面白いと思う案件を拾え”。加賀谷の言葉が頭を反芻するたび、胸の奥がひどくうずいた。
数字の裏付けも書類の様式も、後でいくらでも学ぶだろう。だが最初の一歩は嗅覚――感情の震えに賭けるしかない。
直感を磨く最短距離は“噂”だ。火のないところに煙は立たぬ。ならば火元を語れる舌を探せばいい。
ジルは踵を返し、石畳の下町通りへ歩き出した。向かう先は市場の奥にある酒場《銀の竪琴亭》。
昼も夜も旅人や吟遊詩人が立ち寄る場所だ。彼らは歌で生計を立てるが、旅の途中で拾った話を“ネタ”として売ることでも生き延びる。
銅貨数枚で買えるのは地図に載らない最新情報。ソーシングの起点にはうってつけだった。
◇ ◇ ◇
昼下がりの《銀の竪琴亭》は、麦汁と潮を混ぜた甘い空気で満たされていた。
炉端では琥珀髪の吟遊詩人ルドが小節を区切り、客の合間に短い噂話を織り込む。
ジルはカウンター端に腰を下ろし、掌で銀貨を二枚滑らせた。
「ルド爺さん、旅の歌はあとでいいや!南の山道で珍しい話を聞かなかった?」
詩人は弦を軽くつま弾き、銅色の眼を細める。
「珍しいかどうかは聴き手次第だが――霊泉の谷とやらの話はどうだろう」
「湧きたての泉じゃなくて?」
「ああ。昔からあるが、最近また人が集まっとる。湯に魔が混じるらしく、剣士の傷を癒すともっぱらの噂じゃ。年寄りの鍛冶屋や錬金師が隠居していてのう、技術はあるのに弟子がいないそうな」
途端に胸が高鳴った。金脈ではなく“技脈”だ。
ジルは杯を傾け、淡い液体を一口で飲み干す。のどを滑る刺激の背後で、思考が急速に回転を始める。
――癒しの泉は湯治客を呼ぶ。客が来れば宿が要る。宿があれば酒と飯が動く。
そして老職人がいれば、技術が残る。技術が残ればブランドになる。
継ぎ手不足という弱みは、投資家にとって“入る余地”そのものだ。
「……場所は?」
問いかけに、ルドは紙片を差し出す。雑な地図の隅に手書きの赤点。
「この谷筋を登って半日。馬なら三つ峠を越えた先じゃ。道らしい道はないが、湯気を目印にすれば迷わん」
ジルは紙を折ってポケットに入れた。その手つきに、ルドが低く笑う。
「危険もあるぞ。山賊が泉場を狙ってるって噂も聞く」
「ならバクチはでかいってことさ」
カウンターを離れかけて振り返る。
ジルは銀貨をもう一枚置き、指で押しやった。
「ありがとう。帰り際にまた新ネタを仕入れに来る」
詩人は壊れた琵琶の弦を弾き直し、短いバラッドを再開した。歌詞の一節が背中を追う――“眠る火種は、探す者の手で灯となる”。
◇ ◇ ◇
学院厩舎で小ぶりの栗毛馬を借りると、夕陽が路地を黄金色に染めていた。
ジルは鞍袋に最低限の水と携行食、そして真新しいファイルを押し込む。表紙にインクで一行だけ走り書きした。
> 霊泉地帯――眠る火種を技に換える
手綱を掲げ、馬首を南東へ向ける。
足元の石畳が土道に変わり、風が冷たくなるにつれ、胸の鼓動が騒がしくなる。
“国家ファンド”という名の背中押しは、責任の鎧と同時に自由の翼も与えてくれたらしい。
夜の山道に入り、馬の蹄が乾いた土を叩くたび、ジルは笑みを噛み殺した。
まだ見ぬ霊泉の湯気。その向こうで、老人たちがしまいかけた火床をふたたび燃やす光景が、すでにまぶたの裏に揺らいでいる。
〈面白い話〉――ただの噂を案件へ。
初めての投資のタネは、谷に眠る熱とともに彼を待っている。
谷に立ちこめる湯けむりのなかを、ジルはずかずかと歩いていた。
そこらの湯治客が振り返るほど、場違いな足音を立てながら。靴底がぬかるみに沈み、煙る地面を蹴りながら進むたび、白い湯気がぼやけた景色を揺らした。
「はー、なんかこう……お宝の匂いすんな。……いや、これは硫黄か?」
鼻をすんすん鳴らしながら、木造の橋を渡った先、小高い岩の斜面にぽつんと立つ石造りの建物が見えた。
斑に苔むした壁には、消えかけた彫金の看板。どうにか読めるそれには、**《カスパール工鍛房》**とある。
「おっ、ここか。帝国に刃を納めてたとかいう、伝説のオッサン……」
勢いよくドアを叩く。コンコンではない、ゴンゴンだ。
返事はない。もう一度。
「すんませーん! 旅の詩人――じゃなくて、えーと、見習い投資家っすけどォ!」
中から、がらがらと喉の奥を鳴らすような低い声。
「……閉めたって言ったろ。帰んな」
「話だけ! 弟子入りとかしません! つーか弟子とかムリだし、朝から火起こしとかマジで勘弁だし!」
沈黙のあと、ギィと軋む音。扉がわずかに開いた。
現れたのは、褐色の腕に火傷痕を帯びた、岩のような鍛冶師だった。
手にした槌を腰に下ろしながら、年季の入ったエプロンがわずかに揺れる。
◇ ◇ ◇
「……で、何の用だ」
火床の前。ジルは湯気混じりの空気を吸い込みながら、姿勢だけは正していた。
「えー、ぶっちゃけますと、俺、投資の見習いやってまして。なんか“技術持ちの隠居者がいる”って聞いたんで、覗きにきたって感じです」
「見習いが、人の仕事を値踏みしに来たってのか?」
「お言葉ですけど、そっちも値打ちあるなら、後継ぎの一人くらい探さないと損っすよ? ほら、俺じゃなくても、口利きくらいはできるし」
無礼と言えば無礼な物言いだが、ジルの目は真剣そのものだった。
カスパールは、薪をくべ直しながら視線だけをジルに向ける。
「……継ぐ者なんぞ、もういらん。技ってのは、誰かにやれって言われてやるもんじゃねぇ。勝手に拾って、勝手に研ぎゃあいい」
「でも、それって“拾う側”が来なかったら終わりじゃないっすか」
「……」
「そんなん、もったいなくないっすか? いや、もったいねえだろ。マジで。てか、それって“伝説の鍛冶師”としてどうなんすか、オッサン」
さすがに言いすぎたかと思ったが、カスパールは鼻を鳴らして笑った。
「……面白え若造だな。で、あんたは、この村が商売になるとでも?」
「なりますね。観光でも、工房でも、ちゃんと整理して、見せ方考えれば」
ジルは立ち上がり、工房の外を見やる。湯けむりに包まれた温泉街。ぽつぽつと明かりが灯り、手入れされていない宿の影が静かに佇んでいる。
「湯と、腕のある職人と、伝説級の看板――材料は揃ってんスよ」
「その材料で、何を作る気だ?」
「火を、もう一回焚くんすよ。で、燃え広がるまで、ちゃんと酸素と薪を送り込む」
◇ ◇ ◇
日が暮れる頃、ジルは村の空き家をいくつか視察し、湯治客たちの声を聞き、そして最後に工房の前でカスパールと並んで立った。
「……本気でやるってんなら、見せてみろ。俺の仕事が、まだ“薪になる”って言うならよ」
「言いましたね、オッサン。後で後悔しても知りませんよ」
「後悔なんざ、昔っからしたことねぇよ。……一度もな」
そう言ってカスパールは、鍛冶槌を静かに肩に担いだ。
霧にけぶる温泉郷の奥で、かすかに火床の光が灯った。
ジル・クラーヴェの最初の“投資候補”が、音もなく息を吹き返し始めていた。




