帝国の拒絶、7兆ドル宣言(前編)
「……帝国に、売る?」
リィナは息を呑んだ。
それは、言葉の重さをまるで気にも留めていないような声音だった。
加賀谷零という男は、あの日、神殿の広間で「国を売却する」と宣言した。それが冗談でも挑発でもないと知って以来、リィナの心はどこかざわついたままだ。
だが、彼は止まらなかった。
「国の価値は、“今の姿”じゃなく、“伸びしろ”で測るもんだろ?」
その言葉をきっかけに、彼は毎日のように文官たちを呼び集め、財務記録を掘り起こし、税制と軍制の棚卸しを進めていった。リィナが通うたび、書類の山は少しずつ積み上がり、羊皮紙には見慣れない図や数式が増えていった。
「これは……?」
ある日、リィナが恐る恐る訊ねると、彼は簡潔に答えた。
「企業概要書。そっちの言葉で言うなら──商業ギルドの報告書、みたいなもんかな」
「商業ギルド……?」
「この国にもあるよな? 物資をまとめて流通させる組合組織。で、利益や財産を記録してる」
「ああ、あれは……」
リィナがうなずくと、加賀谷は淡々と続けた。
「俺の世界では“会社”って呼んでる。人と資本の集まり。国家ってのは、それをでかくしたものにすぎない」
彼の言葉には温度がなかった。冷たくはない。ただ、驚くほど事務的で、感情に流されない。
「この国が持ってる土地、資源、労働力、交易路、軍事拠点──それをどう組み直せば価値になるか。それを全部、書類に起こしてる」
机の上の一枚を手に取り、彼は言った。
「これは“売るための武器”だよ」
***
そして、五日後。
リィナは玉座の間で、再びその報せを受ける。
「帝国と、会う手はずを整えた」
「……え?」
彼は平然とした顔で、ひとつの紙片を差し出してきた。
そこには、帝国南部統治局の印章が押されている。かつて交易の使者として門前払いされた相手。その中枢の官僚と、面会の約束を取り付けたというのだ。
「きっかけは偶然だったよ。帝国に移ったミティア出身の文官がいてな。“祖国の現状に心を痛めてる”らしい」
「……あなたは、そこまでして……本気で、この国を売るつもりですか」
問いかけながらも、リィナの声には迷いがあった。
拒絶したいはずなのに。胸の奥で、確かに希望のような何かが灯っているのを感じていた。
「売るのが最善なら、売る。けどな──」
加賀谷は、珍しくそこで言葉を切った。
「売れなかったら、仕方ない。……そのときは、価値を上げるしかないだろ」
「……価値を?」
「帝国に“あのとき買っておけばよかった”って後悔させるぐらいにはな」
静かに、しかし確信に満ちたその目を、リィナは見つめ返すことができなかった。
彼は異世界から来た“ただの人間”だ。
けれどその背中には、なぜか追いかけたくなる何かがあった。
「……私も交渉の場に同行します」
それだけを告げたリィナの声は、震えてはいなかった。
──ミティア公国。破綻寸前の国家を売却するための交渉が、今、始まろうとしていた。