閑話:路地裏の少女
夜更けの自由市場。人波が引いた石畳には、炭の燃え残りと甘い香の煙だけが漂っていた。
加賀谷は仕事帰りの気まぐれで、照明の落ちた裏通りに足を踏み入れた。ひとりになると、街の息遣いがよく分かる――そんな瞬間が好きだった。
ふと、黒い路地の奥で何かが動く。
近寄ると、薄いぼろ布の下に小さく丸まった影があった。白銀の髪が煤け、やせた肩がわずかに震えている。
「……生きてるか?」
声をかけると、ゆっくり瞳が開いた。水面のような淡い青――がらんとした目をしているが、焦点は合っていた。
「食べ物、ある?」
か細い声。だが、乞うでも怯えるでもない。状況を確認しているだけのように淡々としていた。
「ある。ついでに屋根と布団も」
加賀谷は外套を脱ぎ、少女の肩に掛けた。
驚いたように瞬きをしたあと、彼女は小さくうなずく。
「……名前は?」
「ノア」
それだけ言うと、力が抜けたのか意識を手放した。抱き上げると、鳥の骨のように軽い。加賀谷は、胸の奥でぼそりと呟いた。
◇ ◇ ◇
城の侍女部屋は朝から騒がしかった。
寝台に横たわるノアに、侍女頭が検温し、侍医が薬を差し出す。使用人たちは戸惑いより安堵の色を浮かべていた。
「閣下もようやく、ご自分のことを考えられるのね」
「それに、あの子……変な気配はしないわ」
その日は丸一日眠り続け、翌朝になるとノアは起き上がった。食事を運ぶと、無言で完食。礼の一つも言わないが、皿一枚残さない。
「侍女として働ける?」
加賀谷が尋ねると、彼女は短く「うん」と頷いた。
◇ ◇ ◇
「この子、屋敷で預かります。侍女扱いで。部屋と衣服と、食事を用意してやってほしい」
加賀谷がそう言うと、城の侍女たちは一斉に頷いた。
誰一人として反対の声は出なかった。むしろ、“ようやく”といった空気がそこにあった。
──閣下が、閣下以外の誰かを個人的に連れ帰るなんて。
──国のことばかりで、ずっと滅私奉公だったあの人が……。
「……ま、若いんだから、そりゃ一人ぐらい、ねぇ?」
使用人の一人がそう呟き、ほかの侍女たちは微笑ましそうに笑い合った。
数日後の昼下がり。
厨房で仕込みをしていた料理番が、慌てた様子で加賀谷を呼びに来た。
「お、お館さま! あの娘が勝手に……いや、勝手ってわけじゃないんですが……!」
駆け付けると、ノアが一人で鍋をかき混ぜていた。余り物の野菜と香草を煮込み、乳白色のソースを合わせている。火加減も塩の量も正確だ。
「できた」
差し出された皿は、色合いも盛り付けも見事だった。
スプーンで一口。淡いハーブの香りが鼻に抜け、根菜の甘みがやわらかい酸味で引き締まる。素朴な素材とは思えない一皿。
「……うまい。どこで覚えた?」
「覚えたわけじゃない。匂いをかいで、作っただけ」
平坦な声。だがその目は、加賀谷の評価をじっと待っている。
◇ ◇ ◇
同じ日の夕刻。
裏庭の稽古場で、リィナは汗を拭いながら木刀を振っていた。視界の端で、素振りをする影が揺れる。
――ノア。
借り物の木刀を握り、淡々と型を刻んでいる。間合いの詰め方、体軸の使い方、どこか兵士くさくない。素人が真似できる動きではなかった。
「……普通に、私より強いかも」
リィナはぽつりと呟き、自分の握る木刀を見下ろした。
◇ ◇ ◇
深夜。城の回廊は静まり返り、魔導灯が壁に淡い影を落としている。
リィナはテラスで夜風に当たりながら、小さくため息をついた。
(カガヤが連れてきた女の子。料理も剣も天才的。……悪い子ではない、けれど)
胸の奥に、名状しがたい“ざわめき”が残る。
嫌な予感――と言うには幼い、だが確かな不安。
足音が近づき、思わず振り返る。
廊下の角を曲がったノアが、振り向く加賀谷の背中をじっと見つめていた。
ほんの一瞬、淡い水色の瞳が揺れ、頬がわずかに紅に染まる。
(……あら)
リィナは小さく目を見開き、それからそっと口元を引き結んだ。
「なんだか、本当に……嫌な予感がするわ」
夜風が、二人の距離をそっと揺らした。
◆あとがき◆
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