召喚と売却提案
まぶたの裏で、光がまだ踊っていた。
じわじわと熱の残る肌に、冷たい石の床の感触が伝わる。
「……起きたか」
くぐもった男の声。
だが加賀谷零は、その声に返事をするよりも先に、あたりを見渡した。
高い天井。石造りのアーチ。赤絨毯。神殿のような荘厳さを持つ広間。
頭はまだぼんやりしていたが、それでも思考の回路は驚くほど早く回っていた。
「……寝てたのか、俺。スーツのまま床で。……ここどこだ?」
その独り言に反応するように、前にいた少女が一歩、進み出た。
十七、八か、それよりも少し若く見える。金の髪を結い上げ、淡い紫の瞳には緊張の色が浮かんでいた。
「異界より来たりし御方よ。ここはミティア公国。……我が祖国を、救っていただきたく」
零は無言でその言葉を聞き、数秒後に小さく息をついた。
「異世界召喚ってやつか」
少女──リィナ・ミティア公女と名乗る人物は、神妙な面持ちで頷く。
「あなた様を“救世の客人”としてお迎えしました。どうか、この国をお導きいただきたく──」
「……それってつまり、俺が王様になるって話?」
「この国は“公国”です。王は存在しません。ですが“大公”は、すべての統治権を持つ立場にあります」
零は眉をひそめ、深く息を吐いた。
異世界。召喚。そして今度は国家元首。これはもう、冗談でも夢でもないらしい。
「俺は会社の社長だったんだけどな。国家運営とか、未経験なんだけど」
リィナはそれでも、必死に言葉を続けた。
「かつて我がミティア公国は、魔導鉱石の交易で栄えていました」
「ですが、交易路は奪われ、資源は尽き、貴族と神殿は争いを繰り返し、民は困窮しています」
「帝国にも支援を申し出ましたが、拒絶されました。それでも……それでも、国を見捨てたくはないのです」
その言葉には虚飾がなかった。
零は黙って彼女の話を聞き、やがてぽつりと訊ねる。
「国の帳簿、ある?」
文官らしき男が古びた羊皮紙の束を持ってきた。
零は目を走らせる。税収、支出、債務、国庫の残高、軍の給与……。
「……ふむ」
数字は、雄弁だった。
歳入は年間七万金。歳出はその三倍。軍への給料は未払い、インフラは停止、貨幣の信用は崩壊寸前。
そしてこの惨状に対する改革案は、一つも記されていなかった。
「この会社──じゃなかった、この国、完全に詰んでるな」
彼はそっと羊皮紙を置き、静かに言った。
「この状況、企業なら“バイアウト”を検討する段階だ」
「持ち主が扱えない資産は、価値があるうちに譲るのが定石。だから……売る」
広間が、静まり返る。
「この国を、“帝国”に売却する。俺が交渉する」
ざわめきが走った。
文官たちが顔を見合わせ、誰かが声を上げる。
「お、落ち着いてください、加賀谷様!」
「い、いくらなんでも、“売却”など──!」
零は反論に耳を貸さず、ただリィナを見た。
「合理的な判断だ。違うか?」
リィナは、言葉を失っていた。
顔を伏せ、しばらく沈黙ののち、かすれた声で──それでもはっきりと、言った。
「……国を“売る”なんて言葉、軽々しく使わないでください」
その声には、静かな怒りがこもっていた。
民と土地に寄り添ってきた、公女としての誇りが。
零は何も返さなかった。ただ、窓の外に広がる灰色の空を見つめる。
──この世界に来て、まだ数時間。
だが“公国を変える選択”は、もう始まっていた。