静けさの中の予兆
春の風が城を抜ける頃、ミティア公国は穏やかな日々を迎えていた。
国家の帳簿は整い、軍の再編は進み、食料供給の目処も立った。
交易路を通じて金が回り、農地改革の成果が、次々と収穫に現れ始めていた。
──嵐の前には、いつも静寂がある。
その日も、加賀谷は執務室にいた。
だが机に広がっているのは帳簿ではない。ややくたびれた地図帳と、民間から寄せられた子どもたちの落書きだ。
「これは……うさぎか? いや、角があるな。モンスターうさぎか?」
「それ、森の東で保護された魔獣ですよ。“ラビクス”だったかと。見覚えがあるので」
背後からリィナの声がした。
振り返れば、彼女がそっと茶を運んできていた。見慣れぬ藍色の陶器のカップに、湯気が立っている。
「最近、領内でこういう魔獣の目撃が増えてるらしいですよ。環境の変化か、農地の開拓のせいか……」
「ああ、干拓と伐採をやったからな。出てきても不思議じゃないか」
加賀谷は苦笑しつつ、手に取ったカップの香りをかぐ。ほんのりとシナモンが香る。
「……変わったブレンドだな。香りでごまかしてる?」
「“新しいお茶が飲みたい”と仰ったのは、どなたでしたっけ?」
「参りました」
リィナがほっと微笑む。
以前の彼女なら、皮肉も冗談も本気で受け止めていたはずだった。
けれど、今は違う。
この男に振り回されながらも、歩みを揃えていく自分がいる。
「そういえば……レオン・グレイブの隊商が、また南港に戻ってきたそうですよ」
「動きが早いな。あの男は一度信用したら、手を抜かないタイプだ」
「……本当に“信用”しているんですか?」
「信用というより、利害が一致してるだけだな」
そう言って、加賀谷は目を細め、視線を窓の外へ向けた。
春光に照らされた中庭では、兵士たちが剣の稽古をしている。ガロウが兵士長として指導に当たっている姿が、遠くに見えた。
「──今のうちに、守りを固めておく必要がある」
「“今のうち”?」
リィナが問うた。
加賀谷は頷いた。
穏やかな空気の裏に、ぴたりと貼りついたような警戒を、リィナは感じ取る。
(……この人は、何かを感じている)
しかし──次の瞬間。
部屋の扉が、無言で開いた。
風が、ひゅう、とすり抜ける。
その気配に、加賀谷は即座に体を反転させ──
「下がれ、リィナ」
そう言うより早く、音もなく“何か”が、加賀谷へと襲いかかった──。




