02-12
ユウカが深く息を吸い込み、煙を吐いた。
それと同時にくつくつと、背中から笑い声が聞こえた。
嘲るような笑い。いつもと違い、冷たさの混じるそれに、背筋が伸びる。
「この施設に泊まったすべての怒り、憎しみ、悲しみ、妬み、嫉み、背後霊、守護霊、悪霊――人の負の感情に起因するものを、どんな小さなものでも全て吸い込み、この部屋に集めて一緒くたにする装置さ、あれは。……本当に度し難い悪食だ」
「結果、発露したのが――コレだろう?」
振り向くと、目の前に顔があった。
セリナのものではない。彼女は僕よりひと回り小さい体躯をしているから。
――では目の前にある顔は――。
肉という肉を全てそぎ落としたかのような骨ばった身体。張り付く肌は砂漠のように乾燥していて、いつ剥がれてもおかしくないほどぼろぼろだ。
窪み落ち、影のさす瞼の中でぎょろりと、それ単独で生物かのように忙しなく動く目。
ああ、これはあのとき見た――。
戦慄する背筋。
強張る体躯に、熱くなる神経。
警報を鳴らす脳髄の意志とは裏腹に、手足の時は止まる。
……ひ……ひ……ひひひひひ。
その顔が、笑った。
「てめえ!」
つんざく怒声。ユウカだ。
血の気が引き、冷めていく頭によく響いた。
「どうどう。落ち着いて。ボクが呼び寄せたんだ。大丈夫、縛ってある」
枯れ枝のような身体の裏から、セリナが顔を出した。ユウカを制すような手振りをしている。
ユウカは呆れ顔で頭を抱えていた。
「わざわざ顕現させるんじゃない。危ないだろうが」
「当事者に話を聞く方が早いと思ってね」
「悪霊に声をかける馬鹿があるか」
「くっくっく。ここにいるじゃあないか。……けれどだめだね。言霊による増幅も、方向付けもされてない。これは悪霊なんかじゃない。悪霊にもなり切れていない。ただの寄せ集めの塊――ただそこにいるだけの木偶だよ。……ほら、お戻り」
増幅? 方向付け?
聞き慣れない単語に気を取られて、話が全く見えない。
それよりも、セリナの指示に呼応するかのように、目の前にいた人間が消えた事実に、言葉を失う。
「だからか。素量の大きさの割に、悪意が全く感じられないのは。供物はなんだ?」
「それが見つからなかったんだよ。天井裏に死体か祭壇でもあるのかと思ったのだけどね」
……死体? 滅多なことを言うんじゃない。
というか、それがある可能性に気付きながら素知らぬ顔で僕を天井裏に誘ったのか。
「……それが天井裏にないということは…………そうか。なら、あの女将がそれを見れなかったのは?」
「その点はもう少し精査が必要だね」
「あとは……あの表の石か」
「それの因果も、だね。けれどあれは――彼は天井裏の仕組みとは本来関係のない……被害者だ」
「……そう聞いたのか?」
「……さあてね」
「まったく、チカラのあるやつはうらやましいぜ。位が違くても直接話を聞けちまうんだから。商売あがったりだ」
ふーっとため息のように煙を吐き出すユウカ。少しばかり諦観のような色を含んだ声音で呟く。
「聞くに堪えない話も多分に聞く羽目になるけれど――それでも?」
くつくつと笑いながらも寂しそうな声音のセリナの返答に、ユウカははっとしたような顔を覗かせた。
「……遠慮しておこう」
「賢明な判断だ。……コウタ君、落ち着いたかい?」
セリナに不意に話を振られた。
突如目の前に現れた人ならざる者の存在にあてられて、すっかり呆けてしまっていた。
それを見抜かれていたのが少し気恥しい。誤魔化すように、おどけて見せる。
「増幅とか、方向付けとかそのあたりからさっぱりついていけていないんだけど」
首を傾げながらそう返すと、セリナはにこりと笑った。
「大丈夫さ。それらはそれほど重要じゃない。それらは手段の話さ。それらの理解がなくても仕事はできる。祈祷師の――おっと、いま君は霊障コンサルタントだったっけ――その仕事の本質は、根っこの意思を読むことだよ」
「あの天井裏の様を実行できたのが誰で、いつか、考えてみな。そして、どうしてそれをしたのか。――今晩、長くなるよ。あの女将を探る必要がでてきた。……おそらく、今夜も動く」
「……くっくっく。いやはや、とんだ初仕事だね、コウタ君。……しっかり準備しておきたまえ。君にしかできない仕事があるから」
からからと笑うセリナを横目に、ゆったりと毒煙を吐き出すユウカ。
二人の落ち着き様がかえって不気味に感じる。
ヒグラシの鳴き声は聞こえなくなっていた。




