はじまりまでの10% 前
スマホが震えたのに気付きポケットから取り出した。アプリを開くとそこに表示されたのは後輩からのメッセージ。
『先輩、昨日の撮影で怪我したってほんと!?』
あー、もう伝わってんのか。
今現在俺は少し足を引きずって歩いている。服で隠れているが右足首には包帯が巻かれていた。
後輩が誰に聞いたのか知らないが、撮影で怪我、と周囲には伝わっているらしい。……が、本当は違う。
撮影で怪我をしたわけではなく、撮影から帰る途中に怪我をしたのだ。
曰く「売れない役者」である大学生の俺は、憧れの女優が先生役の映画の出演者に選ばれた。
出演者とはいっても教室のすみでただ座っているだけの、台詞も無いエキストラだ。
それでも憧れの人を間近で見られるのに喜び、しかも集合写真だが一緒に写真まで撮れた。
皆に配信されたその写真を、浮かれて眺めながら歩いて歩道の端の低い段を踏み外したのだ。
歩きスマホ、ダメ、ゼッタイ。
歩道の段から落ちて怪我をした、なんて後輩に言うのはさすがに格好悪い。
一応先輩の威厳、なんてのはおそらく向こうは感じていないだろうが、もある。
出発から家に帰りつくまでが遠足……もとい撮影ならば、その時点で家に帰っていない俺は撮影中に怪我をした、と言っても過言ではない。はずだ!
『べつにたいしたことないから平気』
全てを言わずに、適当に返事をする。
と、後輩はスマホの前でスタンバイしていたのかすぐに返信があった。
『今、どこ?』という短い質問に、『休憩室』と答える。
昨日の内に所属事務所に怪我の連絡を入れ、念のため病院に行けと言われて診察を受けた帰りに、その旨を報告しに事務所に訪れた。つまり俺の足はのこのこ移動できるくらいに軽傷である。
スケジュール調整の担当に不用意に怪我をしたのをこってり絞られ、最後にお偉いさんにお茶でも飲んで帰れと500円渡された。そうして今、事務所の休憩室に居る。
『今行くから待ってて』
また即レスである。
後輩が来たところで足の怪我が治るわけでもない。と、ふと冷たい思考が過ぎったが、心配して来てくれるという後輩を無碍にすることもないだろう。
俺がソファで待っていると、後輩はありえないようなスピードで来た。
売れない役者の俺と違って、後輩は事務所絶賛の有望株だ。
俺は新宿でスカウトされたが、出身が神奈川の俺は何度も都内に足を運んでいる。余談だが誘われた時の第一声は「君キレイだね?」だった。どう考えてもただのナンパだ。
ところがこの後輩は大学入学のために上京し、初めて原宿に足を運んだその日にスカウトされたらしい。
事務所に入った時期が俺の方が先だから、俺の事を「先輩」と呼ぶが、本当は俺の方が敬わなければならないレベルだ。
なんせ来シーズンの日曜朝の戦隊モノのレッドに選ばれた逸材だ。
爽やかな外見に、均整の取れた体付き、顔をくしゃっとして笑う所は愛嬌がある、とは世間の評価だ。お母さん方の心を掴むこと間違いなし。
他に雑誌の専属モデルもしているし、後輩は今最高に忙しいはずだ。そのせいかここのところあまり事務所では見かけない。
その後輩は、わざわざ走って来たのか肩で息をしている。何故こんなところで無駄に体力を使ったし。
「おまたせ! 先輩怪我大丈夫!?」
来るなり、後輩は俺を上から下まで眺めた。
見える場所に怪我がないのに安心したのか、胸に手を当てて大げさに撫で下ろす。
「足ちょっと捻っただけだから何てことない」
「そっか。よかった。ねえ先輩、これから帰るんでしょ。良かったらオレに送らせて頂けませんか?」
何故急に謙譲語だし。
「別に送って貰うほどの怪我じゃないぞ」
「オレも今から帰るところだし一緒に帰ろうよ」
そういうことなら特に断る理由はない。いいぞ、と軽く返事をして立ち上がった。
「先輩、歩ける?」
「そりゃ、歩けるだろ。ここまで歩いて来たんだから」
当たり前の事を俺が答えると、そうだよね、と後輩が応じた。
それでも気を使っているのか後輩は常よりゆっくりと歩き出す。
それについて行くと事務所の裏口にはすでにタクシーが待機していた。
俺と違ってそこそこの有名人な後輩は公共交通機関を使わなくてもよい特権を持っている。
俺の家の前までタクシーで乗り付け、そこで別れるのかと思えば何故か後輩も降りてきた。
そのままタクシーは無人で発進する。
「おい、お前、帰るんじゃないの?」
「え、帰るよ。先輩んちに。送るって言ったよね」
「は?」
後輩は俺の右腕を自分の肩に回してゆっくりと歩き出す。
「いや、だから歩けるって」
「先輩、暴れないでよ。怪我が増えますよー。足を挫いてるならなるべく歩かない方がいいでしょ」
なんだか俺が悪いように言われたが、こんな恥ずかしい恰好をさせられて驚かないやつはいない。体を支えられて歩くとかどんな重傷人だ。
「足、使わない方が怪我早く治るでしょ? 仕事に早く復帰できるよ」
「う……」
後輩に痛いところをつかれて黙る。生徒役の撮影は三日後にもう一度ある。
ただ座っているだけの役なので足を挫いていても特にスケジュールの変更は無かったが、怪我は治すに越したことはない。
俺が黙ったのを肯定ととったのか、後輩がもう一度俺を抱き寄せて歩き出す。俺は仕方なく大人しくしていることにした。
しばらく歩いて一人暮らしの部屋の前に着いた。鍵を開けるために、後輩が俺を放す。
「あーせっかくだから茶でも飲んでく?」
ドアを開けながら訊くと、後輩は頷いた。
「カギ閉めてな」
明かりを点けるために先に部屋に上がると、後ろでかちゃりと鍵が閉まる音が聞こえた。
「先輩、お茶はいらないけど、話があります」
「え?」
どこか緊張感を持った後輩の声に訊き返す。
そんな改まってしなければならない話とは何だろうか。これが女の子なら「告白」とか期待してしまうところだが、相手は後輩だ。
……まさか、俺が怪我をしたのをいいことに日頃の鬱憤を晴らすとか。この前パシリに使ったのを根に持ってるのか。成功報酬にお釣りはやっただろう。150円だが。
運動嫌いの俺と違い、この後輩は戦隊モノに選ばれるだけあってそれなりにトレーニングを積んでいる。ヤバイ、喧嘩になったら確実に負ける。
俺より背の高い後輩が俺を見る。自然、その顔を窺うように上を見た。後輩が何か言いたそうに口籠る。
気のせいかほんの少し顔が赤い。何故か怒っている。やっぱりお礼参りだろうか。俺が態度に出さずに身構えると、後輩が口を開いた。
「オレ、先輩のことが好きです」
おお、かかってきやがれ。まぁ、俺は全力で逃げるけどな……って、
「は?」
今、こいつなんて言った?
俺の耳が正しく機能しているなら、すきです、と言わなかったか?
鋤、隙、空き……好き?
「何言ってんの、お前」
俺が突っ込むと、ですよね、と後輩が項垂れた。
「先輩が信じてくれるとはオレも思ってなかったけど! でも本気ですからね!」
キッと視線鋭く顔を上げた後輩は無駄に良く通る声で高々に宣言する。さすが戦隊レッド。……じゃなくて。
「なんでまた」
俺としてもあまりにも唐突すぎて返答のしようがなく、何の捻りもない本心が洩れた。
「オレ、先輩が怪我したって聞いてすっごく怖くなって、よくわからないけど寒くてたまらなくて、でも先輩と連絡が取れたらあったかくなって、先輩の顔見たら安心して、とにかくもうだから言わ……、って先輩聞いてる!?」
「いやーうん、多分?」
あまりのことに思考停止した俺は、後輩の台詞の字面だけを拾って、その意味を正しく脳内に沁みこませるには至らない。
とにかく、この事態になった原因は、俺が怪我をしたことにあるらしい。
俺が変な誤魔化しをせずに歩道から足を踏み外したといえば、こいつは先輩ドジーとでも言って笑って終わったんだろうか。
俺のちっちゃなプライドが、どうやら寝た子を起こしたらしい。