桜の季節に、過去を偲びて未来を望む
私は桜川姫乃。
名前は綺麗だけど、小柄で平凡な23歳だ。
公立高校で養護教諭をしている。
今日も、私の城こと保健室に、常連さんがやってきた。
口癖は、「桜川先生、湿布ください」
二ノ宮新先生。
担当は数学で、野球部顧問。甲子園出場経験があり、プロ野球選手を目指していた……らしい。
母校の英雄とか。なんとか王子とか。
甲子園球場が大阪にあると思ってた野球音痴からすると、誰? なんだけど。
とにかくまあ、靭帯を痛めて選手生活を断念したのに、今は痛くないからうっかり全力で投げて、また腕が痛いとか言ってる、ダメダメな先生だ。
「加減してくださいって言ってますよね?」が、私の口癖だ。
「ハハハ、面目ない」も、彼の口癖。
全然反省してないし、またやるだろうし、目が線になる笑顔に毒気を抜かれること10カ月。
最初は慌てたし心配もしたけど、今や日常だ。先生だって洒落にならない球速や回数を投げたりはしないし。たぶん。
慣れた手つきでユニフォームの袖を捲る先生。
ロキソニンテープを捲る私。
最近、二ノ宮先生のコレ多いな。野球部が最も暇な、受験シーズン真っ只中なのに。
そりゃ、3年生の担任なんだから、モヤモヤして当たり前だろうけど。
1、2年だって、年度末のあれこれに新年度の準備。学業不振の生徒を指導されたり、同僚や自分が移動したり出世したり、いろいろあるみたいだし。
とにかく、先生たちはたいそう忙しい。疲れて元気がなくても、むしろ普通だ。
けど、二ノ宮先生のこれは、そういうのとは違うーーー気がする。
なんとなくなんだけど。
いつも元気で、お弁当箱がでっかいって評判で、江戸時代くらいから生えている菩提樹みたいに大らかな、二ノ宮先生。
体育の先生にしか見えない数学の先生。
常にジャージで、式典の時しかスーツを着ない。人気者というか人たらしで、教師、生徒、保護者から教育委員会のお偉いさんにまで評判が良い。
そんな彼が最近、たまに一瞬だけ、消えちゃうんじゃないかってくらい危うげに見える瞬間が、ある。錯覚なら、いいんだけど。
で、そんな時に限って、来てほしくない生徒がやってきた。
今、1番の問題児、真鍋愛。2年生。特進クラスの生徒だが、平均して週に2日ほど保健室に来る。
主に、自傷で。
「姫ちゃん先生、やっちゃったわ」
右手で左手首を押さえて、手を高く上げていた。
切りすぎることに慣れた仕草だ。
黒いセーラー服の腕から流れる血液が、廊下に点々と続いている。
私は喉に力を入れて、絶叫を耐えた。
「あれー、二ノ宮いたんだ?」
「ほい真鍋、なんか今日は派手すぎじゃね?」
こんな事態なのに、なんで二ノ宮先生のほほんなの?!
もうちょっと驚くべきだと思うんだけど。
真鍋愛は、故意に前髪を長くして目を隠している。
その髪の隙間から、いつもは隠れている綺麗な二重が見えた。17歳。まだまだ幼い。垂れ目がさらに垂れ下がっている。乖離しているのか、全然痛そうじゃない。血が止まらないことだけ、困っているようだった。
「ちょっとやり過ぎちゃって。しょうがないよね。家庭科室にピーラーがあるんだから」
しょうがなくあるか。
胃がキリキリしてきた。
「真鍋的にはしょうがねえの? けど、ピーラーは野菜を切る道具だからなあ。オレが家庭科なら減点だなあ」
「えー。ひどい」
人が止血してる横で、ケラケラ笑う教師と生徒。
何をのんきな。
二ノ宮先生はやたらフレンドリーだから、真鍋以外の常連生徒にも、気軽に声をかけている。
いらんことは言わないし空気が明るくなるから、実はとても助かっているけど。
去年の春に就職したばかりだし、他校と比べようがないけど、高校の保健室は小中よりヘビーな気がする。
悩みの内容が、高度化、深刻化するからかな。
高校は義務教育じゃないから、出席日数を満たさないと単位をもらえない。保健室登校を経て教室に戻れる生徒もいれば、転校や退学を選ぶ生徒もいる。
県立明東高等学校。偏差値は70。
自由で風通し抜群の校風だけど、合う合わないはある。学業や人間関係についていけなくて、心が病んでしまう生徒がいる。
私は私立出身だからよけいにそう思うのかもしれないけど、公立ってドロップアウトする生徒にシビアだ。
成績も人間関係も良好ながら、性的違和感で制服を着られず、学校を去った生徒もいた。
生徒だって高校生になれば、子供ではない。
生徒の悩みは生徒のものだ。
養護教諭にできることは、そんなにはない。
真鍋愛は去年の秋から、二ノ宮先生の通勤時間にあわせて通学している。……らしい。
夜に切った生傷を、彼に見せるために。
二ノ宮先生は「寒い日はさらに痛そうだな」とか「傷絆創膏の予備あるか?」とか、言いながら保健室に連れてきてくれる。
前髪を長く伸ばして目を隠し、さらに黒いマスク愛用。ファッションは自由だけど、不審なことこの上ない。
この学校で彼女の顔を全部見た人、いるのかな。
でも、ちゃんと委員会や部活に参加してるし、クラスに友達もいるらしい。
よくわからない子だ。
「先生」
私は女子生徒を治療するからと、暗に二ノ宮先生に退室を促した。
先生は「大事にするんだよ」と言って、真鍋の頭をポンポンとした。
私は「座って」とだけ言って処置をはじめた。
二ノ宮先生が追い出されたのが不服なのか、前髪の隙間から凄い目で睨んでくる。
この子には、驚くとか、叱るとか、親身になるとか、あんまり意味がないと思っている。
大切なのは、丁寧に、完璧に、淡々と処置すること。
数日前に処置したテープの上からざっくりやられ、やるせない気持ちになるのも日常だ。
「そんな丁寧にしなくていいのに。どうせまた切るから」
不自然に弾んだ声に、舌打ち。
二ノ宮先生がいる時はまあまあ普通だけど、いなくなると一転してこの態度!
他校の先輩養護教諭に愚痴を言ったら「一定数いるんだよねえ」と、慰められた。
今の若い子は、親や先生や友達の前では、ものすごーく無難な態度をとる。合わない相手でも、表面上は大過なく過ごす傾向がある。
でも、フラストレーションは貯まるから、職業柄拒否できない大人を選んで、鬱憤をぶつける子がいるんだそうだ。迷惑な。
真鍋愛は、そのサンドバッグに新卒の養護教諭を選んだ。
ベテラン先輩勢には「そういう子は可愛い面もあるよ。そのうち慣れるから大丈夫」って励まされたけど、シロートに毛が生えただけのぺーぺーには、キツイ。
仕事だってわかっていても苛立つし、自分の無力さに泣きたくなるし、見捨てたくなる日もある。もう辞表書いちゃおうかなって、たまに思う。
保健室を頻繁に利用する生徒は、ちょっと手に負えない困りごとを抱えている。
何てことない会話に、ポツポツと悩みを混ぜたりして。
聞くことしかできないとはいえ、真鍋の心は私の耳を必要としていない。
はっきり言って私は、自傷が生き甲斐の彼女が怖い。
だけど、叱れない。
自傷とは関係なく、私に対する態度は嗜めるべきだと思う。
でも、それをしたら目の前で切られるんじゃないかと思ってしまう。実際、保健室のピンセットでやられたことあるし。
「ビビっちゃって、バカみたい」て、笑われた。
理性では、悪い子はいないと解っている。
ある種の病気で、休養とお薬が必要なんだって。
でも、イラつく。
他の症例は知らないけど、少なくとも真鍋愛は、傷口を晒すことで私を服従させようとしている。お嬢様育ちの新米教諭を、バカだと思っている。そんな風にしか思えない。
頭がいいんだろうな。私以外には、絶対にやらないから。
そんな真鍋は今日、左手だけでなく、太ももまで切り刻んでいた。
「お医者さんに行きましょう」
努めて冷静に匙を投げた。ムリだ。テープも足りない。養護教諭が応急処置できる範囲をこえている。
すると、太々しくそっぽを向いていた少女が、狂ったように絶叫した。
「嫌!! 絶対に嫌!!」
治療の手を振り払い、全速力で飛び出した。
立て付けの悪いドアが、バタンと閉ざされた。
勝手にしろよ。本音は、それだ。
放っておける案件じゃないから、追いかけるしかないけど。
逃げた真鍋は、廊下を掃除していた二ノ宮先生に捕まっていた。
家庭科室から点々と続く血液を、拭いてくれていたらしい。
暴れる小娘をお姫様だっこして、「さー、保健室に戻るぞー」とこちらに向かってきた。
目が合うと、人好きする笑顔でニッコリされた。
「病院だけは、嫌!」と喚く、血まみれの女子高生。
「はいはい。なら、桜川先生から逃げたらいけないな」とゆったりな二ノ宮先生。
なんだこれ。間違いなくお姫様抱っこなんだけど、『禁断のJKと教師』みたいな危うさが、ない。強いて言えば、父親と幼い娘?
いろいろキャパオーバーに陥った私は『二ノ宮先生って、まだ20代なのに、貫禄あるう』とか思っていた。
結局、真鍋の処置は二ノ宮先生が持参している傷テープでどうにかなった。というか、した。
「桜川先生、ありがとう」
なぜか、二ノ宮先生にお礼を言われた。
真鍋は椅子に座って不貞腐れたように時計を見ている。
二ノ宮先生は、真鍋愛の担任ではない。
教科担当ですらない。
「真鍋は、ほんと病院嫌いだよなあ。桜川先生にしか処置させないし」
「はい?」
「ちょ、二ノ宮!」
「これからも、俺か桜川先生に見せなさい。これ、約束な? じゃ、桜川先生。自分は廊下を拭いたら部活に戻ります」
二ノ宮先生は、虚無感に囚われかけた私に、言葉の魔法をかけて去っていった。
きっと事実なんだろうけど、昨日までなら流していた。
明日なら、おそらく信用できなかった。
今日だから、今だから、言葉が心に沁みた気がする。
二ノ宮先生が去って、しばらく無言の時が流れた。
石油ストーブに乗せたやかんから出る湯気が、乾燥しがちな室内を潤している。
「病院に行かないなら、ご家族に連絡するわよ」
できるだけ平坦な声で告げると、真鍋はいつもの調子でこちらを見下すように「ハッ」と笑った。
「出ないよ。誰も」
「お仕事中?」
「違う。昔から学校からの電話に出ないの。ウチの親」
「電話に出ない?」
「命に関わることなら、学校で対処するはずだからって。盲腸になった時も、先生が病院に連れて行ってくれたよ。おかしいでしょ。頭」
自分のことも家族のことも一切話さない真鍋愛が、はじめてその片鱗を見せた。
案の定、何回電話しても、彼女の親につながらない。
え。どうしよう。
血は止まったけど、ピーラーで手足を5箇所も削っているのだ。
電車で1時間かかるし、都市からベットタウンに向かう電車は満員だ。傷だらけの生徒を1人で帰すなんて、ありえない。
家族に連絡がつかないまま、2時間経過した。
携帯と家電は、いくら鳴らしても出ない。登録していない番号を着信拒否してるのかもしれない。
母親のパート先は「今日は休みです」
折り返しを約束したはずの父親の会社は「本日の営業は、終了しました」
小学生の弟がふたりいるらしいが、何かあったのかな。
真鍋の言う通り、単に電話に出ないだけならいい……わけじゃないけど。
結局、こちらの終業まで待ってもらって、車で送ることにした。
どーせ彼氏もいないし、暇だし。
基本は定時上がりの、ホワイトな公務員。
親と同居だし、これといった趣味もないから、お給料のほとんどが貯金であまり使い道がない。
そんな理由で高速を使ったら、マスクの奥からくぐもった声で謝られた。「ごめんなさい」って。初めて謝られたな。
図に乗った私は、一歩ふみこんだ。
「どうして二ノ宮先生に傷を見せにいくの?」
沈黙。
だけど、いつもの、苛立ち混じりのそれとは違う。
攻撃的かだんまりだった彼女が、私の声を聞いて、答えを探している。
彼女の町のインターを降りる頃、ぽつんと呟いた。
「二ノ宮は、びっくりしないから」
それは……どうなのかな。
表面上は、確かに全然動揺していない。
というか、動じなさすぎて、たまにこちらが動揺するけど。
「あたしとか、あたしみたいな子たちは、自分の傷を見るとホッとする。楽になるんだよ。大人に理解されないのは、わかる。キモいし。腫れ物扱いされてんのも、わかる。二ノ宮だけだよ。フツーに話してくれる人」
構ってほしいだけの甘ったれで、自分勝手な子だと思っていた。
けど、自立していて自分勝手じゃない17歳って、この日本にどれだけ存在するのだろう?
「誰にも迷惑かけてないし。部活も勉強も家の手伝いも、やるべきことは全部やってるもん。死ぬつもりもないし。生きたくもないけど。ねえ、文句ある?」
この学校の生徒は、一部の天才を除けば「優等生」が大半を占めている。
ずっと「優秀な子どもが歩くルート」を生きてきて、何かのきっかけで脱線しかけたら?
井の中の蛙大海を知らず。空の高さを知る。
ああ、聡い彼女はわかっているのだ。
どんな言い訳をしても、この発散方法に問題しかないことを。
教室のどこにも、真鍋愛ほど自傷に依存している生徒はいない。ある意味、特別な状態だ。その特別は、悪い意味で彼女の自己顕示欲を肯定させているのかもしれない。
とはいえ、甲子園のマウンドに立ち、大学でも将来を期待されていた剛腕ピッチャーと比較したら、特別じゃない。
プロを断念せざる得ず、教職を選んだ程の落差もない。
そんな二ノ宮先生は、野球部を退部して治療からも逃げて、アフリカ数カ国を旅して帰ってきたという。3ヶ月くらい。
留年して教員免許をとり、現在に至るわけだが、ドロップアウトしたエリートの悲哀がナイ。
ごく自然に、なるべくして、母校で数学と野球を教えてるって感じだ。
そんな彼は、彼女のケガを「血が止まれば、やがてふさがる傷」程度にしか扱わなかった。
それでいて、何かを訴えようとするまなざしから目を逸らさない。耳を塞がない。
「二ノ宮に見せると、なぜか大丈夫って思えるの。いろんなことが、全部」
真鍋の家は、近郊でも相当なお金持ちじゃなければ維持できなさそうな、ヨーロッパ風の一軒家だった。
玄関はアーチ型で、家根には風見鶏とレンガの煙突があって。
リビングの窓からは家族の笑い声が、テレビの音が聞こえてきた。
こういうのは、決して珍しい話ではない。それこそ、学生時代に山ほど症例を読んだ。
でも、実際に目の当たりにしたのは初めてだ。
「先生、ありがとう。親には挨拶しないで?」
おもむろに、長い前髪をかきあげてピンでとめはじめた。
「真鍋さん、でも」
「おやすみ! 明日、学校でね」
憤りもしない横顔に、これがこの家の日常だと書いてあった。
体操服で帰宅した彼女は、血のついた制服を1人で洗うのだろうか。家族が寝静まった後に、こっそりと。
半乾きでも、着るのかな。
洗い替えは、ある?
その夜は、明け方まで眠れなかった。
結局、在学中に彼女の自傷癖は治らなかった。
卒業式の朝も、誰よりも早く来て、すごいのを見せにきた。
この子は正しくはリストカッターではないのだろう。手首はやらないから。
両手を上にあげても見えない、肘と手首の真ん中ばかり。それか、太腿の内側。当たり前だけど、こちらは二ノ宮先生にも見せないそうだ。「姫ちゃん先生だけ、トクベツ」って。
それが、彼女なりの、世間に対する気遣いなのだろうか。
「卒業おめでとう。大学には私がいないんだから、控えるように、ね」と言ったら、プイと出て行ってしまった。
大きなお世話だったのだろう。
言ってはいけない言葉だったのかもしれない。
でも、言わずにいられなかった。
自傷だけが、発散の手段のままでいてほしくない。
あのほっそりとした腕を、白い足を、誰にも治療させない未来なんて、私が耐えられない。
後輩たちが作る花道で、あの子は笑顔だった。
母親と合流したからだろうか。朝は降ろしていた前髪を、全開にしていた。後輩から花をもらったり、友達と写真を撮ったりして、普通の女子高生にしか見えない。
いや、本当に普通の女の子なんだよね。人並みに甘えて、やがては自立したい少女。だから二ノ宮先生に傷を見せて、私には反抗しながら処置を許したのかな。
卒業生も保護者も居なくなって、部活の生徒の気配が薄く漂う廊下の隅で、私は泣いた。
保健室では、絶対に泣きたくない。
でも、アパートの部屋まではもたない。駐車場も、無理。
半刻ほどメソメソして、水道水に浸したハンカチを目に当てた。
ふと、目を凝らすと中庭の桜の木に、二ノ宮先生が寄りかかっていた。
卒業式にふさわしいスーツ姿で、ぼんやり虚空を見上げている。
彼に気がついた私に、気がつきもせずに。
私は、彼は、どのくらいその場にいたのだろう。
明らかに、私が来た時よりも空が赤い。木の影が伸びていた。
しばらくすると、二ノ宮先生はわずかに肩を落として、桜の幹をポンポンとして去っていった。あの日、傷だらけの真鍋の頭を、ポンポンとしたみたいに。優しい手。
私の方はタイミングを失って、また暫くその場に立ち尽くしてしまった。
保健室に戻ると、待ち人がいらした。
安東浩樹先生。勤続15年の管弦楽部の顧問だ。
この学校は普通科と音楽科があるんだけど、校舎が違う。職員室と保健室は共有だけど、先生同士の交流も薄いみたいだ。
「いやあ、終わりましたねえ。卒業式。この時期は、どうも胃の調子がよくなくて」
「お忙しいですものね」
「うん。それに、忘れられない生徒がいて、ね」
でっぷりしたお腹をゆらしながら薬を飲み干す彼は、温厚そのもの。
大会の度に、鬼神の形相で指揮を振るう熱血教師には、とても見えない。
「忘れられない生徒さん、ですか」
「うん。8年前、僕のクラスの生徒が自殺未遂しましてね。同じ年に病死した女子生徒の、後追いでね。中庭の桜に引っかかって一命は取り留めたんだけど、未だに目を覚まさなくてね……」
「まあ……そんなことが。ふたりは恋人だったんでしょうか」
「いや、全然。完全な片思いでしたよ。逆に、ストーカー行為が問題になっていましたから」
その当時は青年教師だったであろう管弦楽顧問は、野球場に視線をやって苦笑した。
「生きていることが悲しくなるくらい、美しい音を奏でるバイオリニストでした。天才っていうんでしょうな。だからこそ、いわゆる普通が理解できなかったのかもしれません。この時期になると、思うんです。担任として、何かできることがあったんじゃないかって」
「安東先生」
「教師にできることなんて、限られてますがね。でも、どうにかできなかったか、考えてしまう。それが教師って人間の、業なんでしょうかねえ」
痛いのは、胃だけじゃないかもしれない。
だけどこの先生の笑みは、優しい。
「3-Aの真鍋愛。無事に卒業できてよかったです」
「ご存知だったんですか?」
音楽科の専任教諭は、普通科の生徒が視界に入らない。校舎が違うし、選択科目で音楽をとらない限り接点がないからだ。
「毎朝のように、二ノ宮先生に傷を見せてましたからねえ。駐車場が隣なんで。目に入ったんですよ」
「まあ……」
「『桜川先生がサポートしてるし、真鍋さんも頑張ってます。見守ってあげて下さい』って言われましてね。いやあ、彼が言うとえらく説得力がありますな。若くして、栄光と挫折を経験されてきたからかな」
窓を閉め切っていても、ノックの音が微かに聞こえる。
プロを断念した甲子園球児は今、母校の生徒を甲子園に導こうとしている。
「ただ、ちょいと頑張りすぎかな。真鍋さんの担任でも教科担当でもなしに。二ノ宮先生は、高校生の頃からやたら包容力のある男でね。今や、僕なんかよりずっと立派な教師に育ってくれたんですがね。気になります。やっぱり生徒なんですわ。僕ら古株からすれば、二ノ宮くんも」
先生の声は、まなざしは、寒い日のストーブみたいに暖かかった。
中庭の桜が咲くころ、真鍋は女子大生になる。
合格した滑り止め私立も、数日後に結果がわかる本命も、誰でも知っている有名な、遠方の大学ばかりを選んだ。
二ノ宮先生の言う通りだ。
真鍋は真鍋なりに、ちゃんと生きようとしている。
なのに、私はいったい、何を見てきたのだろう。
この1年でーーー仕事に対する印象がガラッと変わった。
定時で上がれる、気楽な公務員のつもりだったのに。
目の前にぐしゃぐしゃの瓦礫が積み上げられている。そのひとつひとつは危険で重たくて、でも大切だから粗末に捨ててはいけない。
そんな印象を、持つようになった。
ーーー 2year's after ーーー
今も私は、同じ学校の保健室にいる。
こう言っては失礼だけど、メンドクサイ生徒ばかりを救いあげた二ノ宮先生が、ここがセイフティゾーンとばかりに送り込んでくるからだ。
「桜川先生が、1番頼りになります」とか言われては、引き出しの底に忍ばせた辞表が取り出せない日々が続いている。
結果、真鍋とは違う生きづらさを抱える生徒たちと、関わり続けている。慣れ、だろうか。真鍋の時ほどの、辛さや憤りはない。
ていうか。それ、スクールカウンセリングの仕事だよね?
生徒曰く、カウンセリングの時だけ来校するカウンセラーより、毎日学校にいる養護教諭の方が話しやすいみたいなんだけど。
人たらしの二ノ宮先生が、純粋な生徒たちを誘導してるだけの気がするよ?
正直、成果は微妙だ。良くなった生徒もいる。退学や転校をする生徒もいるし、卒業できても進学できずに療養を選ぶ生徒もいる。
なのに、二ノ宮先生からの信頼は揺るがない。
なんでだろう?
ついでに、部活顧問でもないのに、曇天の正月明けに休日出勤してる私っていったい。
本日は、全国的に成人式。
来るんだよね。卒業生が。
愛校心の強い生徒が多いから。
全ての部活がフル稼働している以上、保健室も開かれる義務があるんだと思う。たぶん。
暇だなあと、整理する必要もない棚をいじっていると、立て付けの悪いドアが開いて、冷たい空気が中に入り込んできた。
「姫ちゃん先生! 久しぶり!!」
淡い紫と銀糸が美しい、大輪の花が咲く振袖。
温かみのあるメイク。
白からパープルのグラデーションがきれいなマスク。
ふわふわした白いファー。
前髪は、眉より少し下の長さだ。
和服美人は、両手を広げて抱きついてきた。
「その声、真鍋、さん……?!」
「うん。先生、見てくれる?」
真鍋は、ネイルを施した右の指で、左の袖をめくった。
薄い跡は残ってしまったけど、新しい傷はない。ひとつもない。
在学中は1度もお目にかかれなかった、傷のない白い肌。
「卒業、できたのね」
「姫ちゃん先生のおかげだよ」
真っ白な腕が、にじんでぼやけて見えた。
口元を手で押さえても、涙がこぼれ落ちてしまう。
「頑張った、ね。本当に、よく頑張った、ね」
私はボロ泣きなのに、真鍋は「それがそうでもないんだよねー」と、ケロっとしている。
「保険の通知って、親に行くでしょ? 精神科なんてトンデモないって親だからさ。ゆうて、高校生じゃ10割負担なんて払えないし。二ノ宮に、大学に入ったらまずカウンセリングを受けろって言われたの。飛行機の距離で、無料カウンセリングのある大学を探してくれて。そこで、看板には出してないんだけど、精神科もやってる内科を紹介してもらったの。やる気のないお爺ちゃん先生でねー。診察5秒で薬出して終わり、みたいな。でも、効いたんだわ、お薬。で、去年の秋口に『もうこなくていーよ』ってポイ。でも、大丈夫なんだわ。その頃、付き合ってた彼氏と別れたのに、切りたいとも思わなかったの」
ペラペラ喋りながら、ケラケラ笑いながら、いつの間にか真鍋も泣いていた。メイクが崩れちゃうとか言いながら。
「家、すごく遠いのに。わざわざ報告にきてくれたの?」
「いや、だって。姫ちゃん先生には迷惑かけたし。ごめん。あの頃の私、本当に酷かった。姫ちゃん先生に甘えて、八つ当たりばっかだった」
「いやあ、私も新米だったし。サポートへたくそでごめんね。私より、二ノ宮先生こそ親身にされてたわ」
「今の二ノ宮は、薄情なんだよ? グランドに挨拶に行くなり、『着物汚すからカエレ』だよー? ありえなくない?」
やだもう、涙が止まらない。
前髪を長くして黒いマスクで顔を隠していた女子高生が、振袖の似合う大学生に成長してくれたのだ。泣かないでいられるかっての。
「そりゃ、こんな美人がいたら、練習に身が入らなくなっちゃうもの。追い出されるわよ」
「えー! 絶対に違うし!」
「違わないわよ。鏡見た? 貴女、本当に綺麗よ?」
真鍋、こんな風に笑うのね。照れるのね。
可愛いなあ。うん、めちゃくちゃ可愛い。
「式典、午後からでしょ? 時間があるなら、コーヒー飲んでいかない?」
「もちろん! あ、あたしお土産持ってきたよ。博多名物「とおりもん」めっちゃおいしーの!」
「よ、40個入り???」
「大丈夫、ペロッといけちゃうから」
私も、秘蔵のおやつを取り出した。
年明けの紀伊物産展で買った「八咫烏饅頭」
真鍋の口に合うかな? 合うといいな。
私と真鍋は、束の間のティータイムを楽しんだ。
成人式は中学の友達と参加して、夜は高校の友達と飲み会だそう。
辛い青春時代を過ごしたのに、友達多いなあ。
義理堅いから、かな。
忙しいのに、往復するだけで2時間もかかるのに、わざわざ母校まで晴れ姿を見せにきてくれた子だし。
ちなみに、真鍋のお土産は、部活を終えた先生方や、挨拶にきた卒業生に食べ尽くされてしまった。
ので、最後のひとつを死守しておいた。真鍋が1番食べて欲しかった先生に、渡さなくちゃだからね。
真鍋を玄関まで見送った後、2年間引き出しに忍ばせていた辞表を捨てた。
私の心晴れやかだけど、空はどんよりしていて、今にも雪が降りそう。
窓からグランドを見渡せば、野球部とサッカー部が元気に活動している。スーツ男子たちが混じっているけど、土汚れ、大丈夫なのかな。袴男子は、式典捨てたな?
二ノ宮先生は、グランドの真ん中でバットを手に、スーツ組に檄をとばしていた。
軽く左手でバットを振った。
右肘を痛めた時に、左打を練習したそうで。
センターの左中間に、白いボールが飛んだ。
次の瞬間、背の高い青年教師が、グランドに崩れ落ちた。
「いやー、面目ない。寝不足で」
スーツ姿の卒業生たちに保健室に担ぎ込まれた二ノ宮先生は、かつての教え子たちに『今日は、練習参加禁止!』と宣言され、小さなベッドで窮屈そうに身じろぎした。
近くで見ると、酷いな。
疲労か体調不良か、栄養不足か。
「お疲れみたいですね」
とりあえず、メイバランスを渡してやった。
介護食なんだけど、少量でもたいそう栄養がある。ダイエットを理由に食事を減らすJKに渡すよう、常備しているのだ。自腹で。こういうの、経費で落ちないのよねえ。
先生は、つぶらな瞳をパチクリさせて、カラフルなパッケージを眺めていた。
「二ノ宮先生?」
声をかけると、ハッとして笑顔をつくり、大きな手で不器用そうにストローをさした。
「……マズイっすね」
「終末期の患者さんの栄養源でも、ありますし?」
「こりゃ、飲みたくないって言うわな」
「あら。誰かお知り合いが?」
「そんなところっす。ご馳走様。練習に、戻ります」
空の容器をクシャッとして、飄然と立ちあがろうとする先生を、全身で引き止めた。
両手で彼の肩を押さえれば、土埃とお日様の匂いがする。
すごい動悸、聞かれたらどうしよう。
だけど、努めて冷静に彼を見上げた。
目の下の隈、わずかに剃り残した無精髭、かすかなアルコールのにおい。
「明らかにお疲れです。今日は帰宅してください。ひどい顔してます」
「いやー、大したことないですよ。大袈裟だなあ」
「大袈裟でもなんでも! ここは私の王国です! 保健室では私が法律ですからね! 帰宅されないなら、終業時間まで寝てください!」
身長差、体格差が半端ないもの。
両手で肩を押さえたまま、自分の体ごとベッドに押し倒した。
「さ、桜川先生?!」
いつもニコニコおおらかな二ノ宮先生が、嘘みたいに狼狽えている。
「寝かせなくちゃ」が最優先だった私は、ここではじめて自分のやらかしを把握した。
「あ……」
職場のベッドで、同僚を押し倒す痴女。
「ごごごごごごごご、めんなさい!!!」
起き上がりかけた私の肩を、先生の大きな手が掴んできた。
そのまま、抱きしめられて。
私の小さな体は、二ノ宮先生の真横にポフンと収まってしまった。
どうしよう。動けない。何も言えない。
ここは保健室で。私たちは教師で。ダメなのに、こういうの、絶対にダメなのに。
なんで私は、拒否しないんだろう。
しばらくすると、首筋に息をふきかけられた。そーっと顔を上げれば、安らかな寝顔がそこに。
「抱き枕……でしたか」
脱力した私は、そろーっと起き上がってベッドを離れた。
二ノ宮先生はそのまま夕方まで眠って、様子を見に来た主将とマネージャーに「今日はマジで休んでください」「先生が帰らないなら、全員で部活動をボイコットします」とスゴまれて、駐車場に連行されていった。
あの後、自殺未遂の現場に二ノ宮先生がいたという噂を聞いた。彼が、病死した女子生徒の恋人だったことも。
自殺未遂した生徒は、二ノ宮先生の恋人に横恋慕していたという。
自分こそが彼女の恋人で、二ノ宮先生がストーカーだと。
同じ音楽学科でも、ピアノ科と総合音楽科はやっぱり接点が薄く、彼女は彼を名前くらいしか知らなかったのに。
ストーカーにありがちな、誤認識か。
冬の終わりの春の始めの頃、二ノ宮先生の恋人が亡くなり、彼女をストーカーしていた生徒が自殺未遂した。
夢を諦める以前にも、なんて壮絶な経験をされていたのだろう。
その現場で働くことに、無理はないのだろうか。
春を待つ球根みたいに、冷たい土の中でじっと耐えているのだろうか。ひとりきりで。
起きている時は逞しいというか、頼り甲斐のかたまりみたいな人だけど、寝顔は子どもみたいだった。
体は大きいのに、表情がやたらあどけなくて。
守りたいと、思ってしまった。
波瀾万丈とは無縁の、平凡で頼りない自分だけど。心も体も大きな彼を、この手で守れたらいいのに。
受験シーズンが訪れ、卒業式を終えて、三寒四温の後に、桜が満開になった。
月末の日曜日の今日、足の悪い叔母に頼まれて叔父のお墓を掃除している。
去年までは従兄弟がしてたらしいけど、海外転勤じゃあしょうがあるめえ。
叔父とはいえ、私が生まれる前に亡くなった人だから、特に感慨はないんだけどね。
それにしても、キリスト教霊園に桜ってレトロモダンだなあ。
宗教的にお彼岸は関係ないと思うんだけど、おそなえにぼた餅が多い。イースターの頃は、玉子だらけになるらしい。
うん、日本だね。ここは。
「あれ、桜川先生?」
雑草を抜き、白い十字架を拭きあげ、全体を確認していると、背後から声をかけられた。
「二ノ宮先生?」
先生は、めずらしくスーツ姿だった。スーツというか、礼服。お墓に礼服。白のネクタイ。カタログが入っているとおぼしき紙袋。
結婚式だ。あからさまに結婚式帰りだ。なぜか花嫁のブーケを持ってるし。
「桜川先生は、墓掃除ですか?」
「はい。親戚に頼まれまして。二ノ宮先生は?」
なんだろう。胸のあたりが甘くて痛い。
あの日以来、二ノ宮先生はひとりで保健室に来なくなった。
困りごとを持つ生徒は相変わらず連れてくるけど。
湿布が必要になる無茶を、やめたってことかな。
会えば挨拶してくるし、態度は変わらないから、避けられているわけじゃない。と、思うけれど。
「墓参りです。来ます? 一見さん歓迎って言われてますんで」
ここは遠慮するところなのだろうけど、なぜか頷いてしまった。
なんとなく、この人をひとりにしてはいけない気がして。
そのお墓は、墓地の中でも日当たりが良くて、桜が綺麗に見える区間にあった。
色とりどりの花。クラシック音楽やゲームのCD、お約束のぼた餅、チョコレートなんかがお供えされている。
防水加工のケースには、ぎっしりと手紙が詰まっていた。
見るからに、若い人のお墓だ。
「生徒さん、ですか?」
「いや……元カノです。オレの」
思わず、彼の顔を見上げてしまった。
どれほど傷ついているかと思いきや、拍子抜けするくらいいつも通りだ。真鍋の傷を見た時と同じくらいに。
「彼女の親友の、結婚式に呼ばれましてね。東京だったんですけど、枯れる前にブーケを供えてこいと、無茶振りされまして」
「えー?!」
「でも、喜ぶと思います。彼女、親友の大ファンだったから」
白い小さな墓標。
たくさんのお供えに、はらはらと溢れる桜の花びらたち。
華やかで、雑多で、そこはかとなく上品で。
なぜか、そこに悲しみは感じなかった。
二ノ宮先生の横顔にも。
「桜川先生も4年目ですから、噂は聞いてますよね。この時期に病死した生徒や、自殺未遂した生徒の話。俺が、病死した子の彼氏だったことも」
先生は墓標に刻まれた名前を、愛おしそうに見つめていた。
満たされたような、笑顔で。
私は言葉が出なくて、頷くかわりに俯いて、手を合わせた。
「当時を知ってる先生方は気を使って下さるんですけど、彼女に関しては、未練や悲しみはないんです。今は。時の流れや人の営みは偉大だなって思います。辛かった記憶や後悔が消えて、楽しかった記憶だけが残るなんて。喪って数年は、思いもしませんでした」
本当に? 今はもう、辛くないのですか?
聞きかえすには、あまりに吹っ切れた笑顔で。
私には、やっぱり頷くしかできない。
将来を期待されたエースが、高三の引退から卒業までの時間を、恋人の看取りに費やした。
野球関係者には反対されたし、そのことで自分や相手の両親にまで迷惑をかけたという。
3年後に選手生命を絶たれる怪我を負ったのは、当時の練習不足が原因だろうと、いらん憶測を語る輩もいるという。未だに。
「自己満足のバカでしたけど。あの時の選択は間違ってなかったと、今でも思います。最期まで病魔と戦った彼女に、生きることの意味を教わりました。彼女の死と向き合わず、野球に逃げていたらーーープロを断念した時、今度はその野球から逃げていたでしょう。教師になって、生徒たちを甲子園に連れて行きたいだなんて。夢にも思わなかったでしょうね」
「そんなこと……」
「ありますよ。オレは今でも、自分には野球の才能があると思ってます。プロにはなれなかったけど、野球に関わり続ける才能が。辞めたくなった日も、ありますけどね。才能がある者ほど、高い壁にぶつかりますから」
思わず顔を上げれば、やっぱり先生のまなざしは悲しみよりも優しさに満ちていて。
「桜川先生も、真鍋愛と関わってから、仕事、辞めたかったんじゃないですか?」
「……え」
藪から棒に言われて、固まってしまった。
それこそ、否定も肯定もできない。
真鍋が卒業した日に感じた「自分の行く先には、大量の瓦礫しかない」的な職業感は、今はないけれど。
というか、真鍋に出会わなくてもいずれは感じたであろうあの絶望を、成長した真鍋が壊してくれたのだ。間違いなく私は、守るべき生徒に育てられている。
「桜川先生にとって、養護教諭の道は俺の野球と似てるかなって、お節介してしまいました。才能があるのに、辞めたら勿体ないって」
「まさか。たまたま、なんとなく、資格を取ってなっただけですから」
「だとしても、俺はホッとしましたよ。保健室に連れていった連中、みんな表情が明るくなったから。真鍋なんか特に、こんなにはやく回復するなんて、思ってなかったです。桜川先生に出会えた生徒たちは、幸せだって思ってます」
「本当に?」
「知りませんでした?」
知らなかった。
困っている生徒を見つけては、丸投げしてくる二ノ宮先生が、そんな風に思っていたなんて。
「先生には、人を見守り、癒す才能があります。桜川先生に出会えていたら、ストーカーをしたヤツも、自殺未遂まではしなかっただろうって思うんです」
「買い被りすぎです、二ノ宮先生」
「実績を見て言ってます」
「ほ、褒めても何も出ませんよ?」
挙動不審でワタワタしている横で、二ノ宮先生は元カノに花を手向けた。
白い、花嫁を飾る華やかなブーケ。
病魔が去れば、今ごろ彼の横に並んでいたかもしれない人。
11年も前に亡くなった、私より年上だったのに、年下になってしまった人。
「二ノ宮先生は……本当にお辛くはないのですか?」
思わず、問いかけてしまった。
二ノ宮先生は、ポリポリとこめかみを掻いて、存外真面目な顔で頷いた。
「辛そうに、見えます?」
「いいえ。今は。でも、この時期の二ノ宮先生は、とても危なっかしく見えますから」
彼はパチパチと瞬きをしてから、フワリと笑った。
「そっか……参ったな」
「二ノ宮先生」
「もう大丈夫ですよ。先日、自殺未遂した奴が、意識を取り戻しましてね。性格はまあ、当時のまんまなんですが。正直、肩の荷が降りました。あいつが死んだら自分の所為だって、思ってましたから。闘病を支えた元カノの親友は、彼女を甘やかしたくてしょーがなさげな男と結婚しました。在るべき場所に、人はおさまるんだなって、実感してます。この春は、特に」
二ノ宮先生は、立ち上がると「だから、大丈夫です」と、破顔した。
「本当に?」
「一生、春先のオレを監視してくれそうな人も、いますし?」
「え……!」
立ち止まると、踏み締める砂利の音が変わった。
桜は、相変わらず散っている。
二ノ宮先生の髪に、黒いスーツの肩に。
「片思いでは、ないつもりです。オレの勘違いですか? 桜川先生。いえ、桜川姫乃さん」
気がついたら、手首を掴まれていた。
優しいけれど、逃げられない強さで。
こんなの、振りほどける私はいない。
「勘違いじゃ……ないです」
「よかった。末永く、頼みます」
満開の桜が夕日に照らされて、風に吹かれて、何千、何億もの花びらが舞い踊っている。
「わ、私は、二ノ宮先生より長生きする予定ですから! 覚悟してくださいね?!」
二ノ宮先生のつぶらな瞳が、さらに丸くなった。
そして、人好きする笑顔でくしゃっと笑った。
「……やっぱり『姫ちゃん先生』は、人を癒す天才だなあ」と。
偶然だろうか、必然だろうか。
次の日の朝、アパートのポストに、真鍋からの手紙が届いた。
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姫ちゃん先生、こと桜川姫乃先生
福岡では、桜が散り始めました。
そちらは満開かな?
お元気ですか?
私は元気です。
本州じゃあり得ないくらい黄砂がすっごいけど、毎日ハッピーです。
一人暮らしは淋しくないかって聞かれるけど、全然なんだよね。
夜、コンビニの冷凍うどんをコンロで温めてて、お出汁のにおいが充満すると、すごーくホッとします。
実家は、お母さんが作ってくれるあったかいご飯があって、弟たちがうめーうめー言ってて、私も笑って頷いてたんだけど、なぜか料理の味がしませんでした。
こっちに来て、ひとりで食べるごはんがおいしくて、びっくりしました。薄情なのかな? それでもいいやと、最近は思うようになりました。
私にとって、家族は人間不信の象徴でした。
悪い人たちじゃないんです。ただ、信用できないだけで。
再婚でもないのに「まなべまな」って、名づけから適当すぎません? 弟たちは「隆基」と「遼馬」なのに。まあ、今となっては「なま」にされなかっただけマシかと思いますけど。そういう家なんです。
今思えば、あの頃の私は、二ノ宮先生にお父さんの、姫ちゃん先生にお母さんの理想を押し付けていました。無意識に。
23歳の姫ちゃん先生に、17歳が反抗期を全力でぶつけるって。
ひどいですよね。
それなのに見捨てないでくれて。
ありがとうございました。本当に、本当に、ありがとうございました。
姫ちゃん先生に、救われました。
知っての通り、私は看護学科に入りました。
でも、看護師にはなりません。
看護師免許持ちの、養護教諭を目指しています。
姫ちゃん先生のような、保健室の先生になりたいです。
大学を卒業しても、そちらには帰らないと思います。
特に、実家のある町には帰りたくないです。一生。
それでもいつか、姫ちゃん先生と同じ学校の保健室で働ける日を夢みています。
矛盾かな? 矛盾ですね。
でも、その時がきたら、どうかよろしくおねがいします。
真鍋愛
追伸
姫ちゃん先生と二ノ宮先生って、両思いだよね???
最近「両片思い」という婚期が遅れそうな言葉を知りました。
さっさと打ち明けて、結婚式にはぜひ、呼んでくださいね!
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