悪口
青いウォーター・タンクにつけられた玩具のような白いスイッチを、倒す。鉱石の香りのする冷たい水は、紙コップの底にちょろっと出ただけで、すぐに止まってしまった。
「いっつもだよね、これ」
ぽつ、ぽつと間隔をおいて紙コップに音だけを落とす冷たい水滴を見ながら、あたしはナオちゃんにそう言うと、すねた顔をして振り返った。
「せっかく無料でおいしい水が飲めるのに。これじゃ意味ないじゃん」
仕方なく財布をバッグから取り出し、休憩室の後ろに並んだ自動販売機のひとつを選び、ペットボトルのお茶を買う。
「うちの社長、ケチだもんね~」
ナオちゃんは紙パックの牛乳を吸いながら笑い、社長の悪口を言った。
「替えの水、業者さんが持って来てたんだけど、『なくなる前に補充していたら、社員がいくらでも飲んでしまうから、ギリギリまで補充しないでくれ』って」
「営業車のアイドリング・ストップが物語ってるよね」
あたしも悪口に乗った。
「夏場だろうと、ちょっと休憩する時にもエンジンを切れ! だもんね。環境問題に配慮してますとか表向き言ってるけど、絶対あれ、燃料がもったいないからだよ。営業の人、可哀想」
昼休みの休憩室には、アルバイトや派遣の人達が、一時間の昼休憩をとって座っている。うちの社員達はここが嫌いなのか、みんな外食に出かけていて、休憩室で食事をする社員といえば、いつもあたしとナオちゃん、それとアルバイトの人達と直接関わり合う仕事をしている風間さんがたまにいるぐらいだ。
あたしは節約のためにお弁当を作って持って来ている。外食に行っている人達からは付き合いが悪いと思われているかもしれないが、どうせ元々親しいわけではない。唯一仲がいいナオちゃんこと浜渡奈緒ちゃんが昼はいつもこの休憩室にある自動販売機でパンと牛乳を買って済ませているので、あたしもここで食べていた。
そういえば最近、風間さんの姿を見ない。
風間さんはアルバイトさん達の直接的な上司みたいな人で、明るくて面白いのでアルバイトさん達からも人気がある。歳はもう四十代らしいが、見た目若々しく、仕事が出来て、独身なので、女性のアルバイトさんの中には目をつけている人もいるようだ。
ハキハキとした大声で楽しげに喋る人なので、風間さんの姿がないと雰囲気的に寂しい。テレビのお笑い番組からお笑い芸人が消えてしまったようだ。
「最近、風間さん見ないけど、どうしたんだろ?」
あたしはナオちゃんに話を振った。
「え。知らないの? マジか」
ナオちゃんはなんだかバカにするような口調で、あたしに言った。
「風間さん、とっくに会社辞めてるよ」
「はあ!?」
思わず大きな声を出してしまった。
「うっそ……! なんで?」
「あの人、前から悪い噂あったじゃん。会社の方針、批判したりさ……」
「でも仕事は出来る人だったよね?」
「手を出さなくていいとこまで出しすぎたんだよ。みんな、うざがってた」
ナオちゃんは口紅を引き直しながら、愉快そうに言った。
「うちの社長、社員のお父さんみたいなとこあるじゃん? だから勘違いして、遠慮なくやりすぎちゃったんだろうねえ」
「えー……。聞いてなかった。誰も教えてくれないんだもん……」
なんだか自分だけが情報に疎いバカみたいで、恥ずかしいような気がした。
◇ ◇ ◇ ◇
社長に呼ばれ、何事だろうと行ってみると、机の上に罫線だけ引いてある白紙を置いて渡された。
「君にこれを渡すのを忘れていたんだ」
社長はお父さんのような優しい笑顔を浮かべ、言った。
「何ですか、これ?」
「風間が会社を辞めた後、ちょっと揉めてるんだ。君達社員に助けてほしい」
さっきナオちゃんに聞いててよかった、と思った。聞いてなかったら、社長の前で「はぁー!? 風間さん、会社辞めたんですかぁー!?」とか言って恥を晒すところだった。
あたしは聞いた。
「助ける……とは?」
「あいつ、ごねてんだ」
社長はニコニコとしたお父さんの表情のまま、言った。
「会社に辞めさせられたとか喚いてるらしい。そんなわけないのにな、あいつが勝手に辞めたのにな。弁護士を立てて、戦うつもりなんだそうだ、ふざけたことに」
「それで……。これは?」
あたしは本当に意味がわからなかったので、渡された紙をぴらぴらさせて、聞いた。
「あたし、何をすればいいんですか?」
「君は社員休憩室でよく風間と一緒にいたそうだよね?」
社長の目が少し怖くなった。
「あいつの仕事の悪かったところとか、目についた素行の悪さとか思い出したら、何でもいいから書き出してほしいんだ。それがあれば裁判で有利になる」
あたしは狼狽えた。
つまり、社長は社員みんなの、風間さんに対する悪口を集めているのだ。
あたしにも、思いつく限りの風間さんの悪口をこれに書け、ということだと理解した。
しかしあたしは風間さんのことなんて知らない。あたしは事務、彼は現場。ナオちゃんの言う通り、悪い噂はよく耳にしていたが、自分の目でそれを確かめたことはなかった。特に親しくはなかったけど、あたしの目に映る風間さんは明るくて、仕事が出来て、確かにちょっと口うるさくはあったけど、アルバイトさん達から人気のある、会社になくてはならないような人だった。
「あいつ、このコロナのご時世に、外回り行く時にマスクをしてなくてな、それで得意先からも印象が悪かったらしいんだよ」
社長は思いつく限りの風間さんの問題点を並べた。
「うちの一番の得意先の事務所に行って、『もっと仕事回してくださいよー。おたくの会社が仕事くれないせいで、うち潰れそうなんですよー』とか冗談っぽく言って、引かれたりもしてたらしいぞ」
知らない。
あたしは見ていないから、本当の話かどうか知らない。
「自分の会社のことも散々言っててな、わしのこともボロクソ言ってたらしい」
聞いてない。
少なくともあたしは、風間さんがそんなことを話しているところを聞いたことはなかった。
いつも社長のことを『親父』と呼んで、慕っているように見えた。
「とにかく、何でもいいから、あいつの仕事を見ていて問題だなと思ったところ……あるだろう? そういうところを思いつく限り、そこに書いてほしいんだ」
特にない。
あたしと風間さんは仕事中に顔を合わせることがまずなかったから、何も書けない。
「もし、特にないなら、今わしが言ったことを書いてくれてもいい」
そんなの無理だ。
だってそれは社長から聞いたことで、あたしが見たことじゃない。
ナオちゃんもこれ、書けと言われたんだろうか。
彼女だってあたしと同じ事務だから、書けることなんてほとんどないはずだ。
すると社長が言った。
「浜渡くんも書いてくれたぞ」
「え?」
社長はあたしが渡されたのと同じ紙に、びっしり隙間なくナオちゃんの文字が書き込まれたものを取り上げて見せ、言った。
「これ、浜渡くんが書いてくれたんだ。彼女、職場が違うからあまり書けないと思っていたが、こんなに書いてくれた」
「ナオちゃんが?」
漢字をよく書き間違う、文章を書くのが嫌いなナオちゃんが、よくそんなに書いたものだと不思議に思った。
「とりあえず、何でもいいんだ」
社長は笑顔で繰り返した。
「思いついたこと、何でもいいから」
あたしは別に風間さんに恩義があるわけではなかった。
親しいわけでもない。彼をかばう理由など、あたしには特にはなかった。
しかし、あたしの証言が、風間さんを奈落の底へ突き落とす力の一つになると想像すると、あたしにはとてもそんなものは書けないと思った。
「特に……何もないです」
「だから、それならさっき、わしが言ったことを書いてくれればいいんだ」
社長は困ったように笑う。
あたしは紙に『特にありません』とその場で書き込むと、提出した。
「これで勘弁してください。あたし、他人の悪口を書くなんて……」
「悪口だと?」
社長の顔から笑いが消えた。
「わしが、君に、悪口を書けと強要していると? そう思っているのか、君は?」
言葉に詰まり、あたしはぺこりと頭を下げると、社長室を出て行った。
◆ ◆ ◆ ◆
ナオちゃんは仕事をしていた。
パソコンに向かって真面目に視線と手を動かしている。
邪魔しちゃいけないと思ったので、あたしも席に着き、仕事を始めた。
本当は、聞きたかった。社長から渡されたあの紙に、どういう気持ちであんなにびっしりと風間さんの悪口を書いたのかを。
彼女は会社であたしが一番、気兼ねなくなんでも話せる人だ。少し口の悪いところはあるけど、話は面白いし、何より人情に厚い。
社長に頼まれて、社長のために、社長の言う通りのことを全部書かされたのだとしか思えなかった。ナオちゃんもあたしと同じく、風間さんの仕事ぶりなんてよく知らないはずなのだから。風間さんに大した感情を持っていなかったぶん、父親のような社長のために、働いたのだ、きっと。
仕事を一段落終わらせ、ふと見るとナオちゃんが席にいない。
喉が乾いたので立ち上がり、一階の喫煙所側にある自動販売機に飲み物を買いに行った。
ナオちゃんの声が聞こえた。
「あの子、社長の悪口言ってましたよ~。ミネラルウォーター・サーバーの水がいっつも切れてるって、ぶつぶつと」
あたしの足が止まった。思わず衝立の陰に身を隠し、聞き耳を立てた。
「前から思ってたが、あいつは反抗的だ」
社長の声が、言った。
「風間の仕事の問題点を書けと言っても『特にありません』と来た。ふざけやがって」
「協力する気がないですよね」
ナオちゃんの声が、笑った。
「他に何か言ってなかったか?」
「いっぱいありますよ」
ナオちゃんの声が、楽しそうに言った。
「私が一番、あの子といる時間が長いですから」
「何を言ってた?」
「社長はケチだって、悪口言ってましたよ。車のアイドリングを禁止してるのはケチだからって。暑い日や寒い日にまでエンジンを切らせるのは人権を無視した暴力行為だって」
「そんなこと言ってたのか!」
「社長はお金だけが大事な人で、社員が死んでも何とも思わないんだろうなんて言ってましたよ。こんなあったかい社長、他にいないと思うのに」
あたし、そんなこと、言ってない。
言ってない。