歴史小説の作者よ、『新たな歴史』を作る覚悟をもて!
※このエッセイは以前に投稿したものを改稿したものです。
最初に言っておきます。
「私は歴史改変ものの小説が大好きだ!」
残念ながら、現在『小説家になろう』の中で、歴史改変ものの作品は、お世辞にも主流の作品群とは言えません。
しかし、道半ばにして非業の死を迎えた英雄たちが、絶好の機会を生かせなかった悲運の人物が、盛者必衰の定めに従うしかなかった国家や一族が、その運命を跳ね返し栄光をつかむ物語はロマンに満ちあふれていると私は思います。
なぜなら、後世に生きる私たちは、これまでに編まれてきた歴史書によって、その悲劇的な(あるいは喜劇的な)結末を知っているからです。だからこそ、本来あり得たかもしれない未来にロマンを感じるのではないでしょうか。
また、『判官贔屓』という言葉が存在するとおり、夢破れた者たちを偲ぶ文化が日本には存在します。すなわち、この系統の物語を受け入れる下地が、本来、日本人には備わっていると言っても良いと思います。
歴史改変ものの楽しさはそれだけではありません。現代人(場合によっては未来人)が過去に送り込まれる話や、別の地域に転移する話もおもしろいですし、異境の地で何とか生き延びようとする人々の努力には畏敬の念が湧きます。また、全く別の価値観を持った集団の出会いには、思いがけない化学反応が発生することもあります。
このように、本来の歴史とは異なった、予想だにしなかった新たな出来事が生み出される。そんなワクワクを味わわせてくれる。だから、私は歴史改変ものの小説を読みたくなるのです。
そして、どんな時代が舞台になっていても、どんな人物が主人公でも、歴史物と言えば付きものの戦闘シーンが無かったとしても、おもしろい作品に変わりはありません。
極端に言えば、超能力や魔法などの異能や、未来技術、さらには、異星人なんかが出てきたとしても、きちんとしている作品は面白く読めるものです。
しかし、残念なことに、全ての歴史ジャンルの小説にロマンを感じられるわけではありません(注1)。そして、残念ながら、物語中で歴史が進めば進むほど、魅力が減少していく作品が多いように思います。最初は心躍らせながら読んでいても、途中で耐えきれなくなって読むのを止めてしまった作品がいくつもあります。
これは文章の稚拙さや、更新が停滞していることが問題なのではありません。文章が稚拙すぎて理解に耐えられないような作品は、多くても数話読んだ段階で見切りを付けますし、年単位で更新が停滞していても、時折読み返しつつ待っている作品がいくつもあります(※当然更新されたらすぐわかるようにブクマは付けたまます。I先生、O先生、N先生、お待ちしております)。逆に、ジャンル1位になったような作品であっても、読むのを止めて、ブクマを外した作品もいくつかあります。
その違いは何かというと、主人公(あるいは作者)に「新しい歴史を作っている」という意識や覚悟があるかないかの差だろうと考えています。
例えば、歴史改変ものでは、『本来の歴史』を知っている主人公が、歴史を改変することに対して葛藤を覚えるシーンがよく出てきます。しかし、その葛藤をする(させる)こと自体、私はこう思っています。
「そのままじゃあ良くないと思ったから改変しようとしてるんだろ?はっきり覚悟をつけて潔く変えとけよ!」と。
話は少し変わりますが、『バタフライ効果』という言葉があります。些細なことでも何らかの原因となって、後に大きな影響が出る可能性があることを示した言葉です。この『バタフライ効果』を軽視している作品(もしくは作者)が多いように思うのです。
未来を知っている人物がいる世界は、それだけで元々の世界とは違う世界です。主人公が全く同じようにしているつもりでも、変な意識がある分だけ行動が変わってくるのは当然です。行動が変われば過程や結果が変わり、過程や結果の変化は玉突き的にその他の変化を引き起こしていると考えるのが、自然ではないでしょうか。
極端な話、戦国時代に転生(転移)した主人公が、頭の月代を剃るのが違和感があるからと剃るのを止めたことを発端に、巡り巡って本能寺の変が発生しなくなることだってないとは言えません。
本来と違う何かを行った場合、最初は計算した予測の範囲内で治まっていることもあるでしょう。しかし、必ずどこかで何らかの齟齬が生じるはずです。そして、本来の歴史との違いに戸惑いながら、そのギャップを理解し、乗り越えていく主人公を、変化させた結果について書き切った作品を、私は読みたいのです。
『歴史の修正力』という言葉を好む人も多くいます。歴史には『修正力』があって、どのように改変したとしても、最終的には本来の有り様に戻っていくという考え方です。
はっきり言って便利な言葉です。主人公に新しいことをさせつつ、結果は史実をなぞれば良いのですから。
失礼なことは重々承知していますが『歴史の修正力』を多用する方にあえて言わせていただくと、『歴史の修正力』をむやみに使うのは作者の逃げに他なりません。
『いろいろ頑張りました。でも歴史の修正力のせいで同じ結果になりました。』これは『夢オチ』とどこがちがうのでしょうか。
もしかすると作者は、一周回って新しいエンディングを模索したのかもしれません。しかし、180度回れば意外ですが、360度回ってしまっては、見た目は全く回っていないのと一緒なのです。
確かに、誰かが止めたとしても、いつか銃火器や麻酔薬は開発されたでしょう。地政学的な考え方や宗教上の考え方から、国家を含めた特定の集団が、遅かれ早かれ必然的に対立に至ることもあるでしょう。これらを『歴史の修正力』というのならというなら、それは理解でます。しかし、その背景的な説明も無しに、いきなり『歴史の修正力』とやらによって史実と酷似した結果が引き起こされるのはいかがかと思うのです。
ここで、ある書籍化作品の内容について例として取り上げます(注2)。
この作品で主人公は織田信長の配下になるのですが、その序盤で、私が「上手い!」と感心したことがあります。
それは、織田信長に仕えるタイミングです。それが何時かというと『桶狭間の戦い』の直後なのです。
しかし、なぜ、これが「上手い!」のでしょうか。
実は戦国時代の合戦の中で、『桶狭間の戦い』ほど再現の難しい戦は少ないのです。
寡兵をもって大敵を打ち破った戦いは、万単位の兵が動いたものに限ってもいくつもあります。
桶狭間と併せて戦国時代の三大奇襲戦とされる『河越の夜戦』、『厳島の戦い』、その他にも『今山の戦い』、『沖田畷の戦い』等々。これらの戦いは、寡兵で大敵に打ち勝つため、敵を油断させたり、偽情報をつかませたりと知恵を絞り、勝利への筋道を整えて戦に及んだものです(※沖田畷の戦いについては、結果まで再現できるかは微妙なところですが、少なくても勝利することはさほど難しくないかと思います)。
これらの戦いに対して、『桶狭間の戦い』はどうでしょう。
確かに信長も情報収集はしっかり行っています。しかし、直前の天候の急変という『運』がなければ、果たして同じ成果を上げられたでしょうか。少なくとも義元に逃げられてしまえば、あれほどの戦果が挙がらなかったのは確実です。
「戦ったのは織田領内なのだから義元が逃げられるはずがない。」
という方がいらっしゃるかもしれません。
馬鹿なことを言ってはいけません。
桶狭間は尾張国内ではありますが、当時はれっきとした今川領内、それもそれなりに後背地にあたります。
そして、前線には大高城、鳴海城といった味方の城塞も控えているのです。だからこそ、今川方各隊は分散して移動していたのですし、前線まで距離があることから行軍中に油断も生じていたのでしょう。
そんな中で、数年前まで自国で、地形にも詳しい者も多く、丘陵地帯で見通しも利かない。といった点に目を付け、奇襲(強襲?)を行った信長の慧眼は目を見張るものがあります。
しかしです、だからといって総大将の首まで取れるでしょうか? そこまで行けたのはまさしく運があったからでしょう。
戦闘中に雷雨があったかどうかは、諸説あり明らかではありませんが、移動中に雷雨があったのは確実なようです。信長の行軍を隠し、義元の足を止める。少なくとも、この日この時間がずれたなら、同じことができるかはかなり怪しいと思います。これを運と言わずして何と呼ぶのでしょうか。
なお、義元の油断や愚鈍さを取りあげる方もいるかもしれません。が、白昼堂々と、前線基地の脇を通り抜けて、総大将自らが、兵力のほとんどを引き連れて、本陣に奇襲(強襲?)をかけることを予想できる人がどれだけいるでしょうか(ここが信長が天才である証拠だとは言えると思います)。
また、討たれるまで『海道一の弓取り』の名をほしいままにしてきたのが義元です。この一戦のみをして愚物扱いするのは、後知恵にしても、あまりにも酷なのではないでしょうか。
つまり、『桶狭間の戦い』を史実どおりに勝ちきるのは、人の知だけではどうにもならず、すさまじいまでの天運があってこそ初めて何とかなったのだと、私は考えています。
ちなみに、信長がらみの歴史改変小説は数多く存在していますが、若年期から歴史改変を始めて、桶狭間を上手く書ききった小説を、私はさほど多く知りません。たいていは史実の展開(※諸説ある中の一つの展開)と同じような流れて戦闘が進み、義元を討ち取って終了します。アレンジするにしてもせいぜい毛利新介、服部小平太、梁田政綱あたりの役を別人(主に主人公)が務めるぐらいでしょう。まあ、桶狭間の合戦自体が小説みたいな出来事であり、これ以上面白くアレンジする余地がほとんどないというのもあるでしょうが……。
実は、桶狭間以前から信長が史実以上に力を付けていたら、そもそも桶狭間で合戦が起こらなかった可能性すら大いにあります。
なぜなら、鳴海城、大高城、沓掛城あたりが今川領になっていたのは、信長の父、織田信秀に辺りを任されていた山口教継が、信長のうつけぶりに呆れて、今川に寝返ったことが発端だからです。当の山口教継は、信秀の有力な家臣で、信秀には忠実に仕えていました(※そもそも信秀の時代は一時期三河の安祥城まで織田の分国だったのですが)。教継は、うつけ者の信長が当主では織田家の未来がお先真っ暗だと思ったから寝返ったのであり、信長が優秀なことを早くから示せていたなら寝返らなかった可能性が十分にあります。
山口教継の話は一例ですが、早くから歴史改変を行って国力を伸ばし、家臣の信用を増してしまえば、桶狭間の戦いのような一発逆転劇が起こる可能性は低下するでしょう。
すると仮に織田方が局地戦で勝利したとしても、今川義元が存命(※大軍同士の会戦で大将が討ち死にするケースは戦国の世でも極めて稀です)であるため、織田・今川両家の抗争は泥沼化することは必定で、美濃平定が遅れることや、大軍を率いて上洛などできなくなる可能性も十分にあり得ます。そして、義元が存命であれば、氏真への代替わりも上手くいく可能性も出てきますし、駿河に出られない武田信玄が、早々に美濃に目を付けることだって考えられます。
きっと我々が想像する以上に歴史は変わっていくことでしょう。
つまり、既知の歴史を活かしたいと考えるのであれば、『桶狭間』以前の歴史は変えてはいけないのです。そして、変えるのであれば、全く新しい歴史を作っていくという覚悟が必要になります。
「『桶狭間』に全く触れず過去のものとして扱った」ここが最初に触れた作品の巧さなのです。
間違わないでいただきたいのが、『桶狭間以前』から始まっている作品が全てダメだと言っているわけではないということです。例えば、山口教継の離反についてしっかりとした理由が示されていれば、多少国力が上がっていても『桶狭間』が発生することは納得はできますし、主人公が小者で、それまで大して影響を与えられなかったことにすれば『桶狭間』がそのまま発生することも理解はできます。
ただ、「納得がいく」レベルの小さい歴史改変ではなく、大規模に改変を行っている場合は、作者の方は大変でしょうが、史実とは違う全く新しい『桶狭間の戦い』を著していただきたいのです。
それまでの話の流れの中で、主人公たちは大規模に歴史を変えるほどの頑張りをみせてきたのです。その成果としての新たな『桶狭間』の展開を、結末を見たいと考えるのが人情ではないでしょうか。
そんな新しい『桶狭間の戦い』を描いた小説があるのか?
あります! 新しい『桶狭間の戦い』を求めてやまない方のために、ここで『信長Take3』(松岡良佑:N7300EL)という作品を紹介します(注3)。
この作品の信長はタイトルどおり3回目の人生です。この作品における『桶狭間の戦い』ですが、これまでの経験を活かした信長は、今川との決戦の前に、尾張に加えて伊勢を完全に制圧し、同盟国である美濃斉藤家の不安定要因だった、道三と義龍の仲も安定させてしてしまう。その結果、桶狭間山に本陣を置いた数万の信長方に義元率いる今川の大軍勢が襲いかかる形で大決戦が始まり……というものとなっています。
ネタバレになりますので詳しくは書きませんが、登場人物の豪華さに胸躍らせ、戦の結末にあっと驚かされたものです。
現在連載中(※桶狭間の戦いは終結しています)ですが、改変の結果を事後の歴史に丁寧に反映させている力作です。歴史好きの皆さんには、是非ご一読いただきたい。
最後になりますが、転生等で本来の歴史に異物を挿入してしまったからには、何らかの変化が起こるのは当たり前のことです。改変結構。どんどんやっていただきたい。
しかし、改変をするからには最後まで責任をもって行っていただきたい。改変しているはずなのに、大筋で史実どおりにことが運ぶのは、作者の怠慢、もしくは説明不足です。
作者諸氏よ、あなたは、あなたの作品の中で、既に『歴史』を変えてしまったのです。あなたのペンによって変えられてしまった段階で、その『歴史』は現代に生きる我々の知る『史実』と異なっていてしかるべきです。『史実』に逃げないでいただきたい。阿らないでいただきたい。勇気をもって、あなたが描くあなただけの歴史を、私たちに見せていただきたい。私はそう願ってやみません。
注1
断っておきますが、私は改変しているいないにかかわらず、歴史小説自体が大好きです。ただ、改変ものでない歴史小説は、最近は大物が書き尽くされたと考えられているのか、『知る人ぞ知る』レベルの人の話が増えているような気がします。それはそれで知らなかった人物や新たなエピソードにも触れられていいのですが、一般の歴史小説は基本的に史実に則っているので結末がわかってしまうため、主人公が『知る人ぞ知る』レベルだと、いまいち気分がのってきません。NHKの大河ドラマもそうですけど、何番煎じになっても良いので、もっと大物を取り上げてほしいですね。これが改変ものに気持ちが流れる理由かもしれません。
注2
この作品は私の大好きな作品で、書籍も全巻買いそろえました。本来であれば具体的に挙げて紹介したいのですが、これを書いている段階で、作者の先生とアポが取れず、作品名を使用する許可をいただけていません。このような理由から具体的に名前を挙げるのは差し控えさせていただきます。※許可が下りたら改稿します。なお、作品名を個人で詮索するのは自由ですが、感想欄に予想を書き込むなどの行為は先方の迷惑にもなりますのでおやめください。
注3
作者の松岡良祐氏には作品名の使用について承認を受けています。
長文におつきあいくださいまして、誠にありがとうございます。今回のエッセイはいかがでしたでしょうか。お手数ではございますが、もしよろしければ下の評価ボタンで評価していただけますと幸いです。
ただ、できれば、本作の評価より先に、本作に登場する『信長Take3』(松岡良佑:N7300EL)を御覧いただき、評価していただけますと、自分の評価以上にうれしいです。この良作が多くの人の目に触れますことを私は願ってやみません。
※このエッセイへの御意見はありがたく頂戴いたします。が、『良くない作品』の具体例を挙げるような感想はお控えください。また、作中で紹介した小説の作者の方へ、このエッセイについての御意見を差し上げるのは厳にお控えください。