8話
二人で手洗いを出ると、荒川さんは背をこちらに向けて飲んでいました。
「荒川くん、次の店に行くことにするよ」
「ええ、では私たちも勘定してご一緒しますね」
そう言って荒川さんが立とうとすると、部長は制して座らせました。
「いや、森原くんと二人で行ってくる。君はここで飲んでいてくれたまえ」
荒川さんは驚いた顔をして、僕も同じ気持ちでした。てっきり三人で行くものだとばかり思っていましたから。
「さあ行くよ。オススメの店があるんだ」
呆然とする彼を残して部長はさっさと出て行ってしまい、僕はどうしていいか分からないまま頭を下げ、追いかけます。
外へ出ると、部長はポケットに手をつっこんで待っていました。
「ここから十分くらいのところなんだ」
と早庭部長は歩き始めましたが、硬くなった僕の足ではついていくのも苦労するほど早く、強引な印象を受けました。しかし人を率いていく気質を持っているからこそ部長なのだろうとも思います。
夜の街は、働き終わった人であふれていました。一様に解き放たれた顔をして、楽しそうにしているのを見ていると自分がユーレイにでもなった気分でした。僕も彼らと同じからだを持っていたことがありました。笑ったり泣いたり、まわりの出来事へ素直に反応できる健やかなからだでした。けれど、それは戻らないものなのです。もちろん、僕は本物のユーレイではありませんから、生きている人たちを恨んだりしません。僕は僕の気質でこうなっているのですから、明るい人たちに咎はないのです。
「置いて行ってよかったんですか」
背後から呟くと、部長は振り向いて眉をあげます。
「連れてきて欲しかった?」
「そういう訳ではないのですが」
「君は優しいんだな。けどね、私も飲む相手くらいは選びたいんだ。彼は真面目だろう。話しててつまらないんだ。酒の席は楽しくなくちゃね。その点、君は見込みがある」
「僕がですか?」
「ああ」
だんまりしているのは僕も同じはずで、二度しか会ったことのない部長が僕の何を気に入ってくれたのか分かりませんし、何かしらの期待を持たれていても、今の僕は応えることができません。しかし、部長へそのことを問おうにも、にこにことして先へ行ってしまい、僕のからだはパキパキと鳴り始めます。
部長は、最近出くわした出来事|裸で走る人や喧嘩して血を流す女、路地裏で性交する中年のカップルなど|を楽しそうに話して歩きます。振り向くでもなく、大きなひとりごとといった風に喋るので、僕は相槌のタイミングがつかめず、時々ええとか、ううとか呻くように応えるだけでした。それでも話し続けるので、人の反応など興味のない人なのかもしれません。
見込みがあるなんて僕を褒めて、その実、話を聞いてくれる相手なら誰でも良かったのだろうと背中を眺めていると、そのグレーのジャケットは漢方と記された看板の吊られた店へ入っていきます。