46話
二十一
しばらくして、僕は荒川さんの家に住み始めました。飲んだ翌週から毎日、一緒に暮らそうと誘われ、根負けしたのです。荒川さんは早庭さんと違い、自分が言ったことを覚えていました。また僕も人目を忍んでの野営がいつまでもできるはずもなく、気に入った賃貸が見つかるまでの仮宿として彼の家へ転がりこみました。
不安が強かったものの、始めてみれば荒川さんとの生活は楽しく、話し合って家事を分担したのもうまくいきました。彼に対する警戒は杞憂でした。取っ付きにくいところもありますが、家での彼は終始穏やかで、僕がどんな不満を言ってもじっと聴いていてくれ、何時間もくだらない話をし続けることもありました。仕事場では見せない明るい振る舞いに、僕は少しずつ好意を覚えました。
今はもう、ここを仮の宿とは思いません。ずっと住んでいたい、僕たちの家です。
ふとすると、早庭さんとの暮らしが厚い雲の直下にいるように僕を翳らせることがあります。荒川さんとの穏やかな生活が物足りなかった訳ではありません。あの頃の血が濾過されずに僕のからだを巡って、出て行ってくれないのです。それでも僕はこれが自分の幸せなのだと言葉に出して、その翳へ光を当てました。翳がなくなる時もあれば、ずっと居座ることもありました。どんな時も僕が寂しい顔をしていると、荒川さんは黙って傍にいてくれるのです。
思い出は、天候と同じでした。日が強く照ることがあれば、雨や曇りの日もありますし、強い風が吹く時もあります。天気を恐がることはないのです。僕は、移り変わりに少しずつ慣れ、早庭さんへの想いなど薄れていきました。全てのことは時限付きです。それはどんな暮らしをしていてもそうです。僕は永く続くことを期待しながら、しかし、今を生きることに支点を置いて荒川さんと暮らすことにしました。
僕はすっかり元気になって、仕事も生活も楽しめるようになっていきました。
同僚たちとの飲み会の帰り、僕はしこたま酔って、ふらふらと路地に迷いこんでしまいました。そこから抜け出そうとずいぶん歩きましたが、一層迷うばかりで、ついには住宅地にまで踏みこんでいきます。僕はおしっこが漏れそうでした。したい時にはするべきです。
少し先に見覚えのある公園がありました。早庭さんと出会ったあの場所です。僕は一寸たじろいだものの、膀胱の状態に有余はありません。おそるおそる公園を覗くと誰もおらず、奥まで行って用を足すことにしました。因果なものです。ここに来ることはもうないと思っていたのですから。
僕はチャックを下ろして、放尿を始めます。しかし、終わるという直前、公園の植栽が大きく揺れました。驚いた拍子に小便が止まってしまいます。
「なんだよ」
僕は恐々声を挙げます。
「にゃあ」
どうやら猫でした。僕は安心しておちんちんをしまい、どんな猫なのか姿を確かめたい気持ちに駆られて茂みをかき分けてみます。しかし、そこには猫などいないのです。翳ってよく見えませんが、しゃがんでいる人がいるのです。
僕が驚いて逃げようとすると、その人影は僕に言います。
「良いおしっこの音だね」
聴いたことのある懐かしい声でした。その翳はしゃがみながら続けます。
「君、おしっこは好きかい?」
立ち止まったものの、何と応えていいか分かりませんでした。
迷う僕の頬を風が撫でました。深呼吸して翳に向かい合うと、雲は晴れ、草むらに月明かりが差してきます。
瞬きすると、しゃがんでいた翳は僕の足元から伸びて、立っています。応える相手がいなくなった先をじっと見つめると、それはひどく細長く、僕はそれに残った尿を放ります。シルエットは楽しげに揺れ、堪えきれなかった僕は笑いました。
おしっこしている姿って、どうしてこんなにも可笑しいのでしょう。




