44話
騒々しい店内で、僕のからだだけがふっと暗い穴に落ちていく気がしました。立つべき地面が見当たらないのです。明日からどうしようとか、後先のことを憂いているのではなく、喪失そのものが穴になっているのです。僕は落下に身を委ねました。そして落ち続けながら、この穴はどのくらいの深さがあるのだろうと思いました。深さは恐らく、失ったものにかけた想いの強さなのです。
試してみると際限なく落ちていく気配です。もし、底がないとすれば、それは失ったものと僕が等価なのだと思いました。僕は、穴に問うてみました。早庭さんや家を失ったことが、自分を失うことなのか。すぐに、違う、という直感がありました。しかし落下は止まりません。急に恐ろしくなり、手足をばたつかせます。止まるどころかからだの感覚さえ朧げになり、僕は頭を振り、鼻をつまみ、指先をばらばらに動かして、膝を抱え、あがいていると、喉だけは鳴りそうです。僕は空気を震わせます。
「帰るところがないんです!」
僕は咄嗟に叫んで、気づけば居酒屋のカウンターに座っていました。
「どうした、いきなり大声を出して」
何を叫んだのか分からない僕を荒川さんは身を仰け反らせて見ていました。
「今、僕は何て」
「おいおい、もう酔っ払ったのか、帰るところがないなんて君、ルンペンみたいに」
錯乱していたとは言え、自分の口の軽さがほとほと嫌になりました。こんなこと誰にも言うべきではありません。僕は俯いて黙りました。
「本当に帰る家がないのか?もしそうなら、私の住まいに来るといい。空き部屋が一つあるんだ」
僕は既視感を覚えてぐったりしました。大人の男は皆、酔うと無責任なことを言う。僕はそれを学んでいましたから、戯言だと受け取って聞き流します。もう、誰とも住む気持ちにはなれませんし、ましてや大して親しくもない上司とは御免でした。
「誤解させてしまったようですいません。休職中にアウトドアを始めて、今もテント泊しているんです。ただ最近、それにも疲れてきて、それで口走ってしまったんです」
下手な嘘でその場をやり過ごそうとするものの、ごまかしきれるはずもありません。
「へえ、そうなんだ」と腑に落ちない顔です。
僕がそれから喋るのをやめても、早庭さんとの関係を彼は執拗に詮索してきました。しかし、もう彼が察しているのは分かっていましたから、休職中によくして頂いたと応えて、「それだけじゃないだろ」と言われても、「それだけです」と返します。言い回しを変えながら荒川さんは探りをいれてきましたが、僕は同じ言葉で応え続けました。
「君も強情だな」
荒川さんもついには折れ、おひらきになりました。攻守のやりとりをしている間も飲み続けていましたから、互いに呂律がまわらず、思考は断続的になっていました。
「お疲れ様でした。また来週、会社で」
居酒屋の前で頭を下げ、僕は方向を決めずに歩き始めます。後から、「いつでも家に来てくれていいんだからな」と声が追ってきても、振り向きませんでした。ひとりきりになりたくて、当て所もなく歩きました。星の見えない夜です。たった一つの輝きが僕にもあれば、こんな暗さを感じないはずでした。回り道にはどこにも明かりがないのです。




