43話
「しかし、何で早庭部長なんだ?君と部長は会社で会うこともそれほどなかったろうに」
僕は胸が苦しくなりました。早庭さんの名を僕の口から出した以上、経緯を話さなければ、荒川さんも納得しないようです。言葉を選んでいる内、荒川さんは痺れを切らします。
「まあいいさ。どうしてだか知らないけど、君と早庭部長は親しいんだな。でも、そうだとしたら何でいなくなったことを知らないんだ?」
「いなくなったって...」
「もう早庭部長は、部長でもないし、この街にいない。ヘッドハンティングされて他社の取締役になったんだよ。あれだけ優秀な人だ。うちの会社にずっといる方がおかしい。あっちは海外とも取引があるようだから、今頃大陸の上だろうね」
先週まで僕と暮らしていた人が外国で暮らしているだなんて信じ難いことでした。思わせぶりな言葉で僕を釣った荒川さんですから、同じように僕を騙しているのだと思いました。
「自分の目で確かめるまでは、信じられませんよ」
「そうは言ってもね。もういないんだから見る事もできないんだよ。私の言うことが疑わしいなら、明日受付に行って部長の名前を聞いてくるといい。早庭なんて応える社員は一人もいないから」
荒川さんは怒ったように言います。
僕は、何でこんなにもいじめられなければならないのでしょう。健やかな生活を望んで、そして望まれた人と暮らそうとしていただけです。なのに、早庭さんも荒川さんも、僕に苦しい、辛いことばかり投げつけて置き去りです。他人は全く僕に優しくないのです。
「手洗いへ行ってきます」
僕はそう言って、手洗いとは反対の出入り口から出て行こうとしました。
「逃げるな。私の質問に君は応えていないじゃないか。それに酒もまだ残ってる。出て行くのは飲み干してからにしろ」
荒川さんは僕の腕を掴んで、有無を言わせず引き戻します。僕は、辛くて、悔しくて、涙がこぼれそうでした。
「悲しい時は、とにかく飲め」
冷たい声で荒川さんは勧めてきます。
僕はこの場から離れたい一心で酒をあおります。ジョッキを空けると、荒川さんは勝手に同じものを頼んで僕の前に持ってこさせます。僕を帰らせるつもりはないのです。それでも僕は帰りたくて二杯三杯と空にし、腹を膨らませていきましたが、ふと自分はどこへ帰るつもりだったのかと思います。早庭さんがいなくなった今、あの家へ戻る理由はないのです。彼のいないあの家は、僕のアパートより上質ではありますが、箱になってしまいました。明かりの灯らない空箱です。僕の居場所はなくなってしまったのです。




