35話
「引っ越しの準備もあるだろうから、今日はアパートに帰るだろ?」
引っ越しの予定は、当日管理会社の立会いを残すだけでしたから、そんなつもりはないのでした。帰りませんよ、と言おうとすると、
「私も家の片付けをしておくからさ、引っ越しの当日まで最後の一人暮らしを満喫しなよ」そう遮って、僕にノーとは言わせない雰囲気です。
気持ちよくなっていましたし、彼と飲み直したいところでしたが、これも彼なりの気遣いなのだと受け取って、アパートへ戻ることにしました。
「日曜日、午前中にそちらへ向かいますから、ちゃんと出迎えて下さいね」
「ああ、準備しておくよ。それと、何かと入り用だろうから受け取ってくれ」
早庭さんは厚みのある封筒を僕へ寄越しました。驚いて彼を見返すと、静かに頷きます。
「費用は大してかからないんですから、気を遣わないで下さい」
「いいんだ。越してくる時に、好きな家具でも買ってくればいいし、使わないならそれでもいい。ちょっとした小遣いだと思ってくれよ」
封筒の中をのぞくと、ちょっとという額ではない札の端部が見えました。返そうとする僕の手を抑え、封筒をしっかり握らせると、彼は行ってしまいます。僕は心底嬉しく、飛びつくように追いかけました。僕たちは交差点で立ち止まって向き合いました。
「じゃあ日曜に」
「ええ、日曜」
信号が青に変わり、早庭さんとは反対の車線まで渡りきると、彼へ手を振りました。彼も手を上げ、そのままタクシーにすべりこみます。黒いタクシーが発車します。赤い尾灯が見えなくなるまで早庭さんの乗った車を見送ると、なんだか寂しい気がしました。たかだか二日間のことですが、この一ヶ月半毎日一緒だったので、離れることに違和感があるのです。
ぼおっとしていると、白いタクシーが寄せてきました。運転手は窓をあけて、僕を見上げます。
「お客さん、どこまでですか?」
「乗るつもりはないんです。ここの近くに家があるもので」
僕が咄嗟に嘘をつくと、運転手は怪訝な顔をして走り去っていきました。ここは繁華街ですから、住む場所なんてありはしないのです。
まだ電車が動いている時間でしたが駅へは向かわず、大通りに沿って歩きました。家まではずいぶん距離がありましたが、そんなこと苦にもなりません。日曜日が待ち遠しく、少しでも時間を使うためにゆっくり歩いていきました。




