29話
「実体があるものなんてないんじゃないかって考えてました」
「何だよいきなりまじめくさって」
「僕のからだもこのあたたかさや海、早庭さんさえ確かなものではないように思えてきて、むしろそうだったらいいのにと。からだに実体がないのだとしたら、苦しむこともないでしょう」
「まだ悩んでたんだ」
「悩むっていうか嫌なんですよ、色んなことが」
「君がそう感じるのは、持続しない性質を万物がもっているからだろうね。君の言う確かさって、つまり変わらないことだろう。不変なんてものはない。それに君は気づき始めていて、だからそんなことを言う。ただ、確かさってのはあるんだよ。こうして喋りつづけている内に過ぎ去っていく一瞬一瞬のことだよ。それは一時のことだから私たちは忘れてしまうけど、上書きされていくそのことですら、意識できる生きた心地なんだ」
一瞬間をおいて、僕を結んでいた紐がするする解かれていく気がしました。彼を見ると視線は遠く、うっすら微笑んでいます。景色のレンダリングがゆるりと始まります。
「僕におしっこの良さを体感させたり、ドライブに連れてきたのも、そういう理由からなんですね」
「いや、単に楽しいからだよ」
沖まで響くほどの明るい声で早庭さんは笑いました。
僕は、早庭さんの気持ちが初めて分かった気がして、はぐらかしたような態度もこれまでのように怪訝には感じないのでした。それに、なんだかぼんやりとして、頭が働かなくなってくるのです。血が上り、重くなってきてずいぶん顔が熱いのです。景色が変わったことへの興奮が熱として現れたとでもいうのでしょうか。常にない火照りが何だか楽しく僕は頭をぐらぐらさせました。
「そろそろ上がろうか。君も顔が真っ赤だしな」
頬に手をやると、初めて自分がのぼせていることに気づきます。
「じゃあ、仕上げをして戻ろうか」
早庭さんは飛沫をあげて立ち上がると、僕に手を差し伸べてきます。彼の引く手に応じると、急に眩んでよろめきました。僕はそんな自分を笑って、ゆっくりと頭へ血を戻します。早庭さんは僕の手を離さず、心配そうに見下げています。
「おしっこできそうか?」
僕は慣れっこで、もうこんな言葉では驚きもしません。起き上がって頷きます。
僕たちは、白波のかかるところまで尖った岩の上を歩いて行き、並んで立ちました。もう、海面は風呂のすぐ近くまで迫ってきていましたが、不思議と恐くはないのです。
じょじょじょ。先に早庭さんの放物線が海へ伸びました。続けて僕もなるべく遠くに射程を向けます。
全裸に、白波や海風を受けながらの放尿です。温まったからだから熱が急速に奪われていきますが、それも気にならないくらい爽快なおしっこです。
出し切ってみると疲れや強張りといった感覚はなくなって、からだは軽く、どこまでも裸で行けそうな気がしてきます。僕のからだには冷たさや温かさや音や光が同時に差して、内から声や尿が飛び出していきます。おかしなことですが、その時、物としてのからだがなくなっていく感覚がありました。感じている僕の意識だけが、今海に面しているのです。それは僕でした。僕としか言い現せないものでした。僕がここにいる、それがはっきり分かったのです。嬉しくなって横を見ると、早庭さんも満面の笑みです。僕たちは声も出さずに笑いあって、潮が足先を濡らす頃まで清らかな尿の海を眺めていました。
車へ戻る頃には寒いくらいでしたが、からだの芯はほかほかとして、陽が宿ったようでした。またここへ来ようと約束をして、僕たちは家路に着きました。




