28話
車をとばして数珠つなぎになった山のトンネルを抜けると、ひらけた平野が見えてきました。大きくカーブした坂道を下って、農家が散在する田畑のなかへ飛びこみまっすぐ行くと市街地があり、そこをまた進んでいくと街はスプロールしながら空を広げていきます。
「絶好の温泉日和だな。これだったら海の方も晴れてるだろう」
早庭さんは嬉しそうにアクセルを踏んで国道をひた走ります。代り映えのしない景色がつづき、それをずっと眺めていると、どうして自分は逃げなかったのだろうと思えてきます。僕はいつでも周回遅れで気づくのです。予知が遅いためにこんな所まで来てしまいました。窓外に塗られたはのっぺり平らな色は、僕の後悔に適っているのでした。
「そろそろだな」
彼が車の窓をあけると、潮の香りが車内に入ってきました。低いところで白い鳥が滑っています。
コンクリート造の新しい防波堤が見えてくると早庭さんは空き地へ車を停め、「ここらで降りよう」と言いましたが、温泉の施設は見当たりません。時計をおもむろに見て、「丁度頃合いだ」と呟くと、持参してきたタオルや小さな桶を僕に持たせて、さっさと歩いて行ってしまいます。
延々と続く防波堤に沿って歩くこと二十分、急に堤は途切れ岩だらけの海岸が見えてきます。唐突に建つ錆びた看板には、朧げに海中温泉と書かれています。目を細めて見上げていると、
「早く来な。時間は限られているんだ」
そう僕を急かして、早庭さんは足場の悪い岩場を先へ先へと進んでいきます。足元を気にしながらついていきました。
「さあついた」
波打ち際へ沈んでいく岩場の先に、大きな窪みが三つ。不定形ではありますが、それぞれ縁を石でぐるりと囲んだ露天の風呂です。時折高い波が飛沫をあげて流れこんでいます。早庭さんはというと、気づけば脱ぎ始めていて、妙に急いでいる様子です。
「君も早く脱げよ。あと一時間もすれば、潮が満ちて入れなくなってしまうぞ」
訳も分からず僕は脱衣して、局部を隠しながらつま先で湯加減を確かめます。熱い湯が苦手なのですが、そんな自分でも臆せず入れるくらいのぬるい湯です。
大人が五人ほど足を伸ばせるくらいのゆったりとした風呂で僕と早庭さんは、海に向かって並びます。
「気持ちいいだろう。天然の温泉だから時間は限られているし、湯温も日によってまちまちだけれど、自然と一体になる感じがたまらない」
「ええ、いいですね」
頭だけ湯の上に出していると、海につかっている錯覚を覚えますが、体感はあたたかく、妙な心地でした。視覚と皮膚感覚の齟齬がここの楽しみでもあるのでしょう。目を閉じて、波の音と湯温を感じていると、そんな不調和も気にならなくなっていきました。
「ほら、あそこ船じゃないか」
目をあけて彼の指す方を見ると、遠くに揺らめく小さな白い光がありました。それはゆっくりゆっくり水平線を横切っていきます。僕にもそれが船に見えました。しかしそれは、経験上そう思うだけのことで、確かなことではないのです。見たままを受け取れば、物体としては儚すぎ、現象のように思えます。自分の手の届かない遠くのことはいつでもそうです。何か見知ったものに置き換えてしまいますすが、間近で確かめなければ何であるかなど分からないのです。もしかしたら、遥か向こうに見えるものは水蒸気の揺行に光の反射した幻かもしれません。
そうして疑っていると、船に見える光はやがて岩棚の陰に隠れ、それきり姿を現すことはありませんでした。
「おしっこを我慢しているなら、ここではやめてくれよ。そっちの風呂でならいいけれど」
じっと海を見ていた僕をからかって言います。




