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ピスの声が聴こえる  作者: 夏山 生海
25/46

25話

 

 二回三回と会い、早庭さんが思いこみの激しい人だということは身に沁みていましたし、思い違いをしているに違いありませんから、どうにかして早くそれを解かなければ僕の身が危険です。立ち上がり、渾身の力をこめてドアを叩きます。


 とんかちを打ちつけるような音が家中に鳴り響き、さすがに無視はできないだろうと思いました。彼がやってくるまで叩き続けるつもりで、僕はがんがんドアを鳴らしました。


「どうしたっていうんだ」


 思いの外早く、彼の声が階段を昇ってきて、ドアはひらかれました。


「うるさいじゃないか。ご近所の迷惑になるだろう」


 僕は驚きました。隣家を気遣う気持ちはあっても、僕に対してのそれはないのです。


「手洗いへ行きたかったのですが、鍵がかかっていたもので」


「そうだったか。いつもの習慣でね」


 僕の不安など素知らぬ顔で応え、続けざま、

「ちょうどいいや、風呂が沸いたんだ。用を足したら入るといい」

 早庭さんはそれだけ伝えて下りていきます。


 僕の言い方も迂遠だったのでしょうが、まさかそんなに軽く応じられるとは思わず、拍子抜けしてしまいます。しかし、ここが好機であるのも違いなく、そっと階段を下りていきました。


 まっすぐ玄関へ向かい、錠に手をかけるとすんなり外れました。ドアから冷たい風が入ってくると僕は、身震いして、閉めてしまいました。そしてもう一度あけてみますが、やはり強く冷たい風が吹いています。僕は半開きにしながら迷いました。寒いのは本当に苦手なのです。真冬の寒さほどではないですが、いきなり連れてこられた僕は軽装で、ケータイもシューボックスに置きっ放しですから、誰かに連絡する術もなく、知らない街から自宅まで帰れる自信はありません。下手をしたら凍えて症状を悪化させてしまうんじゃないかという恐れも浮かんできて、静かにドアを閉めました。簡単にあいてしまった安堵もあったのでしょう。今無理をしなくても、いつでも出ていける。明日明るくなったらこっそり抜け出せばいい。そう思って、脱出を延期にしました。


 ほんの数分風に吹かれただけで僕のからだはすっかり冷えてしまっていましたから、温まってからこれからのことを考えたい。そうやって楽観的な先延ばしを選んだのです。


 凍えるからだを抱えながら脱衣室へ行くと、畳まれたパジャマとタオルが置いてあり、実家にでも帰ってきたような妙な気持ちになります。床と壁に濃灰のタイルがあしらわれた浴室はスチームで満たされ、風呂蓋をとると、浴槽は木造りの円型。蒸された木の香が僕の顔めがけて昇ってきます。檜の浴槽を見たのは初めてで、早庭さんは、ずいぶん金持ちなのだと思いました。もちろんこれも、僕の短絡でしょうが、建材にこだわる人は総じて金持ちに決まっていると思ってしまいます。


 僕は何だか気圧されて、浴槽につかる気が起きません。それだけでなく、冷えで膀胱が収縮して、裸になったすぐそばから尿意を催していたのです。こんな慣れない匂いは刺激が強く、つかってしまえばたちまち湯船の中に漏らしてしまうでしょう。蓋を元に戻してカランをひねりました。冷水から温水に変わるのを待って、シャワーの下で俯きます。頭から熱い湯が流れてくると同時に、僕の股からもぬるい水が滴りました。


「はああ」


 陽の光を浴びるように天井を仰いで息を漏らしました。他人の家のきれいな浴室でこんなはしたのないこと許されないのでしょうが、こうするしかなかったのです。降る水も出る水もとても気持ちいいのです。


 からだを入念に拭ってパジャマに着替え、リビングへ行きました。


「いい湯でした。檜の香りも新鮮で」


「気持ちよかっただろ。私なんかひとりの時は湯船でするんだ。君も今度試してみるといい」


 僕は、早庭さんの顔を直視できませんでした。


「それじゃ私も風呂に入って休むとするか。おやすみ」


「おやすみなさい」


 準備のために僕はすぐ床へつきました。明日はなるべく早く起きて、彼が目醒める前に出て行くつもりです。明かりを消すと、疲れがからだをひたして、すんなり寝入ってしまいました。


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