野良ポーター、灰猪を倒す
5.
夜半の月も、星も見えぬ、塗り込めたような闇の中、じっと息を殺して辺りの気配を探る。
底冷えするひやりとした空気が身にまとわりつく。寒さにからだが震えた。
野外でなにもせずにいる、というのは存外気力を使う。たまらなくなったわたしは、そっと立ち上がり伸びをした。少し動くと、凝り固まったからだがほぐれてゆく。胃の腑のあたりに仄かな熱がともり、じんじんとからだの隅々に染み渡る。とても気持ちがよい。
「眠いなぁ……」
思わず独りごちる。すやすやと横で寝息をたてているドペルが憎らしい。
ドペルが寝てから、だいぶと時間がたった。しかし、これといった異常はない。迷宮の夜は、静かすぎるほど静かである。いきものの気配はなく、木の葉が揺れる音すら間遠だ。
ドペルの横にすとんと腰を下ろし、再び見張りに戻った。
……わたしも、寝ようかな。
欠伸を8つ数えたところで、ふと、気が弛んだ。 寝ても大事ないのではないか。現に、ドペルも、寝れるうちに寝ろ、と言っていた。
悪魔的に素敵な考えにとりつかれたわたしは、無理に自分を納得させると、後先考えずに、ごろんと横になった。気だるい眠気に襲われる。
わたしは、あっという間に寝息をたて始めた。
そのとき、わたしの頭からは、ドペルに見張りをさせることなど、きれいさっぱり吹っ飛んでいた。
*
……鈍い打撃音で目が覚めた。
ダンッとも、ドスッともつかない鮮明さを欠いた音だ。眠い目をこすって体を起こす。
「起きたか」
「んぅ? おはよう……」
ドペルの耳に心地よい低い声が遠くから届く。
辺りは、夜明け前の薄闇に紛れ、森をまるごと透明な水に浸したような、幻想的な藍色に染まっていた。青白い尾を引いて、淡光虫がふわふわと空を舞っている。夜露がきらきらと光を弾いて輝く。わたしは、まだ夢見心地で、世離れした光景に見入った。
と、またもや、ドスッという鈍い音が聞こえてきた。
……ん? ドスッ?
急速に意識が覚醒する。途端に、血なまぐさい匂いが鼻一杯に飛び込んできた。
思わず、顔をしかめる。
闇の中からは、鈍い音が断続的に鳴り響く。
よくよく目を凝らしてみれば、淡光虫の一等集まった明るいところで、ドペルが二、三の魔物と闘っていた。周囲には死屍累々とばかりにたくさんの魔物が転がるでこぼこの地面の影が見えた。
「ド、ドペルゥッ!?」
思わず、すっとんきょうに叫んでしまった。
ドペルが正面の四つ足の魔物の額に石突きを突き立てる。どうっと魔物が倒れた。淡光虫が一斉に倒れた魔物に群がる。
「あぁ?」
ドペルがついっと槍をすべらせ、振り向きざま、とびかかってきた右の魔物の腹に柄を叩きつけた。右の魔物が体勢を崩す。
「な、なにやってるの!?」
なにをやっているも何も、魔物と戦っているのはわかっていたのだが、聞かずにはいられなかった。
ドペルは腰をいれて突きを放つ。左の魔物の肩のあたりから、血が吹き出た。魔物はくるりと尻を見せて逃走の姿勢を見せた。
ドペルは深追いしない。残るは、体勢を立て直した右の魔物のみだ。
ドペルは目にも止まらぬ速さで、ざんっと槍を降り下ろした。
最後の魔物が、耳をつんざくような悲痛な声をあげてくずおれる。
ドペルがさっとこちらを向いた。地面に横たわる魔物をすいすいと避けながらこちらに向かってくる。
「見ての通りだ」
真っ青な闇の中で、きゅうっとドペルの瞳が細められた。
見ての通り、といわれても、全くわからない。何がどうすれば、目覚めたら、倒れた魔物に囲まれていた、なんてことがあるのか。
「来るぞ」
ドペルは他に言うことはないとばかりに、くるり、とわたしに背を向けると、槍を構えた。 ドペルの言葉は簡潔すぎて的を得ない。 わたしはこてりと首をかしげた。
……えっと、くるってなんだ?
と、木立の奥からドドドッドドドッという音が聞こえてきた。
「今回は多いな……ほら、お前も戦え」
「えっわっちょっ!?」
ドペルは困惑するわたしに構わず、こちらを振り向きもせずに、片手剣を放って寄越した。
「ちょっと! ……これを、どうしろと!」
ドペルは答えない。
顔をあげれば、すぐそこに五体の茶皮兎が迫ってきているではないか。さぁっと血の気が引く。
「む、むりぃぃっ!」
わたしは、取るものも取りあえず木の後ろに駆け込んだ。しかし、ドペルの剣だけは失敬しておく。簡素な造りの、随分と重い剣だ。
木の裏で息をつく。
背後ではドペルが茶皮兎と交戦していた。
いかなドペルといえども、数的不利には勝てないようだ。少しずつ、傷が増えてゆく。
……これを、使えっていうの?
わたしは手元の剣を見下ろした。鞘にちょっとした縫い取りのあるほか、全く飾ったところのない剣である。わたしが扱うには少々重い。槍といい、華やかな雰囲気をもつドペルには似つかわしくない武器のように思える。
と、再びドドドッドドドッという不吉な音を、耳がとらえた。ハッと顔をあげる。
淡光虫が青く照らす薄闇の中、一体の灰猪の影がぼんやりと浮き上がる。
灰猪の体は光を取り込んだかのように、ほんのりと薄青に染まっていた。
小さく舌打ちがもれる。
背後で五羽を相手取るドペルの援護は頼めそうにない。この灰猪は、わたしが打ち倒さなければならないようだ。
……大丈夫。斑狼よりは幾分かマシ。
わたしは、覚悟を決め、木を背にして、少し重い剣を抱き抱えた。大した剣を扱えるわけではないが、まるっきりの始めてというわけでもない。迷宮に潜る者は、誰しも幾度か剣を握るものだ。
灰猪を見定め、しっかりと地を踏みしめて対峙する。剣を両の手で剣を握る。
……あれ、軽い?
鞘を取り払った途端、剣が嘘のように軽くなった。灰猪とは、まだ距離がある。軽く、剣を縦横に振ってみた。扱えないこともない。
……これは、いける!
獰猛な笑みが浮かんだ。剣を正中に構える。
灰猪は、止まることなく、ぐんぐんと近づいてくる。その距離、およそ十三歩。
剣の軸をぶらさぬよう、心を落ち着ける。
勝負は一瞬だ。神経を研ぎ澄ます。
……あと、五歩で!
牙を剥いた灰猪の顔が間近に迫る。醜い顔だ、と心のどこかで思った。灰猪は猛進している。
三、二、一…………今だッ!
ダッと駆け出した。
みるみるうちに、彼我の差が縮まる。
衝突する寸前、さっと左に体をかわし、灰猪の胴体に、剣を真上から勢いよく降り下ろした。
やった……!
剣が強靭な皮を断ち切る、確かな手応えを感じ、息をのんだ。しかし、止まったり、曲がったりすることを知らぬ灰猪は、胴を深い傷を負ってなお、真っ直ぐと走り抜け、木に激突した。
灰猪が四肢を投げ出して倒れる。淡光虫が灰猪に群れよった。一匹の光は弱々しくとも、たくさん集まると壮観だ。
「よくやった」
ぽんっと肩に手がのせられる。
いつのまにかドペルが横に立っていた。茶皮兎を倒したようだ。
「ふふ、やるでしょ?」
勝ち気に笑ってみせる。わたしは勝利の余韻に浸りながら、光の乱舞をみつめた。まるで、淡光虫までもが、勝利を祝っているかのようだ。
「なかなか、な」
ドペルも珍しく褒めてくれる。
二人は、寄り添うようして、薄闇にまたたく青い光の舞いを見つめた。