パワースポット姫神さん
実家の郵便受けに回覧板が入っていた。結衣はそれを抜き取り玄関の戸を開ける。
「回覧板来てたよ」
と言ってリビングのテーブルに回覧板を置く。母はちらりと見て「ああ、もうそんな季節」と言った。
回覧板に挟まれている紙には『秋季大祭のお知らせ 稚足大姫大明神御神木保存会』とあった。
春と秋の年二回、「姫神さん」と呼ばれる町内に立っている楠木の前で儀式めいたことが行なわれる。そのお知らせだ。「稚足大姫大明神御神木保存会」とは町内会の延長線上にあるような年寄だらけの団体のことである。
結衣は子供のころ一度だけ、その儀式に参加したことがある。神主が祝詞を読み上げている間、母の隣でじっと頭を下げていた。退屈だったことを覚えている。
この姫神さん、すなわち楠木はこの町で唯一のショッピングモール「ジョスコ」の裏二百メートルほどのところに立っている。結衣がジョスコに買い物に行く際はいつも姫神さんの前を車で通りすぎる。
楠木のまわりは田んぼが広がっていて、遠くから見るとポツンと孤独に立っているかのようだ。樹齢はどれくらいなのか不明だが、この木を避けるように田んぼができ、そして道ができたのだろう。小さいころから当たり前のように眺めてきた光景だ。
この楠木のある場所は最近パワースポットとして人気で、ジョスコ裏が時間帯によっては渋滞になるため、地元民は少し困っているのである。
なぜ、この楠木が「姫神さん」と呼ばれ祀られているのか。
遠い昔、この国の天皇が「オオキミ」と呼ばれていた時代まで話はさかのぼる。
「オオキミ」の「ヒメミコ」、つまり天皇の娘として生まれた稚足姫は、都から遠く離れたこの地にやってきた。
天皇に代わってこの地にとどまり神に祈りをささげるために。姫は数年で役目を終えて都に還っていくはずだった。だが、還らなかった。
この地で自ら命を絶ったのだ。
楠木で首をつって。
禁を破って恋をしたと疑いをかけられ、身の潔白を証明するために死んだ。
まだ若く美しいお姫様の死を皆は嘆き悲しんだ。その想いが代々伝わり、やがて「姫神さん」として祀られるようになったのだろう。
……と、いう話を結衣はイツキ先輩に教えてもらった。地元の結衣よりも余所から来たイツキ先輩の方がこの町の伝説や歴史に詳しかった。大学の図書館で歴史関係の本を手にしているイツキ先輩の姿をよく見かけたものだ――。
母はテレビドラマの再放送を見ていた。結衣が大学四年生の頃に流行ったドラマだ。
夕飯の準備はまだ始めていないようだ。父は仕事で帰りが遅くなるという。リビングで中年太りの女性がソファーにドッカと座り、「この女優さん、あんたと同い年よね」とか適当なことを言いながらドラマを楽しんでいる。
結衣が子供の頃、母はテレビをほとんど見ない人だった。家事、介護施設のパート、結衣の習い事の送り迎え、田んぼの仕事もしていたから、ドラマを楽しむ余裕がなかったのかもしれない。「お母さんはテレビが好きじゃないのだ」と思っていたが、そうではなかった。結衣が大学に入学したとたん、母はむさぼるようにテレビドラマを見始めたのだ。
夕飯の一品にしてほしくて持ってきたレバー煮を母はさっそくつまみ始める。皿に移しかえず、タッパーのままで。
テレビ画面の中では結衣と同い年の女優がイケメン俳優に後ろから抱きついている。イケメンの背中に頬を押し当てながら、
『あたしたち、やり直せない?』
と、懇願している。元カノが未練たらたらでヒロインの彼氏にしつこくちょっかいを出しているお芝居だ。
「もう、この男、優柔不断ね。元カノなんて着信拒否して縁切っちゃえばいいのよ」
母がドラマにちゃちゃを入れる。
「着信拒否くらいじゃ、縁は切れないんじゃない?この元カノ、同じ職場だし」
「そうね。縁切りの神様に頼むくらいしか手がないわね。姫神さんみたいな神様」
「姫神さん?姫神さんって縁切りの神様だったの?」
初耳だ。
地元の人間にとって、姫神さんをパワースポットとしてもてはやすのは違和感のある現象なのだが「女の願いを叶える神様」として女性たちに人気だ。わざわざ遠くからこの田舎にやってくる人もいる。だが、縁切りの御利益なんて知られていない。
「そんなの初めて聞いた」
「子供の頃、あんたに教えたでしょ。夜になると、姫神さんは縁切りの神様になるの。余所から来る人たちは恋の神様とか、女の人の願いを叶える神様だとか勝手に言ってるけど」
結衣には教えてもらった記憶がない。母の事だから思い違いをしているのだろう。それとも、幼い結衣には興味がもてず脳にインプットされなかったのかもしれない。
「ここらへんに住んでる女にだけこっそり伝わってる願掛けみたいなものよ。日が暮れた後に、赤いものを身に着けてお参りすると、姫神さんが嫌な縁を切ってくれるのよ」
この家に嫁いできたころに、姑である結衣の祖母に教えてもらったのだという。その祖母も結衣が五歳の時に他界してもういない。
見ていたドラマが終わる。次回予告が流れた後、コマーシャルをはさまずに報道番組が始まる。悲惨な事件や事故を伝えることの多い番組なのにポップな曲が冒頭で流れる。
母はリモコンを手に取り、衛星放送に切り替えて韓流時代劇を見始めた。姫神さんの話はもう終わらせたつもりのようだ。
フィクションです大嘘です。稚足大姫大明神御神木保存会なんて存在しません。