序章 そして「弥生」へ
葉月はようやく期末テストから解放され、春休み前の週末に一息ついていた。
平成二十五年(西暦二○一三年)三月――。
時刻は午前九時十六分。
春の暖かな陽気に誘われて、新芽を抱える木々を眺めながら葉月は庭へと「刀」を携えて出た。
考古学者の父が若い頃、二束三文で骨董屋から買った代物だそうだ。
「朱雀刀」なんていうご大層な「銘」まで持っている。
中学の時は剣道部に所属していた。
だからと言って「刀」が好きなのではない。この「朱雀刀」が好きなのだ。
幼い頃――まだ葉月が東京に住んでいた頃、家が火事に見舞われた際に葉月は何故かこの刀を持っていたことで助かった。
それもヤケドひとつ負わずに。
そんな縁を感じてか、葉月はこの「刀」を気に入っており、時間がある時は家の庭で鞘からに抜いては素振りをすることを密かな楽しみとしていた。
「葉月―っ。朝ごはんもう少しで出来るから」
普段は遺跡発掘などで、家には不在がちな父、睦月は、この日は葉月が冗談半分で誕生日にあげたお気に入りのピンクのエプロンをつけては、上機嫌で朝食をつくっていた。
鈍感で気弱な睦月だが、家事にはマメでこういうところはありがたい。
「ありがとう、お父さん」
ひときわ可愛らしい声をあげて、葉月は父に答えた。
きっと可愛くて仕方がない一人娘の愛らしい声に、俄然張り切っている父を想像し。葉月は笑いを堪えられなかった。
母は葉月が十歳の時に離婚し、中学入学を機に父の仕事の都合で奈良県に引っ越した今は、ほとんど会うこともない。
たまに「元気?」というメールが来るくらいだ。
こちらにきて五年。生活にも慣れた。
言葉もこちらのイントネーションが染み付いて、一度遊びに来た親戚を驚かせるほどに馴染んでいた。
今は――この時間を楽しむ余裕も生まれている。寂しいのは彼氏がいないくらいか。
刀を振り回す彼女を、まだ見ぬ彼氏はどう思うのだろう?
そう思うと、葉月は何だか意味なく笑いがこみ上げてくるのだった。
葉月はふぅと息を吐き出すと、柄に手をかけた右手に力を込めた。
「カチリ」という独特の音がたまらない。心が一気に研ぎ澄まされて高揚していくことを感じた。
そしていつものように、ほんの少し紅みがかった刀身が姿を現す――はずだった。
◆◆◆
「葉月ぃ、お待たせぇ。朝ごはんにしよう」
睦月が呼びかける。
そして愛しい娘――葉月の声が聞こえる――ことを待つが、いっこうに声が聞こえない。
「トイレ……かな? 」
睦月は少し胸騒ぎを感じて、庭へと足を向けた。
「葉月―!? 」
娘の姿を求めて庭へと視線を向ける。
だが――どこにもいなかった。
トイレの扉もノックするが当然のことのように反応はない。中には誰もいない。
葉月の部屋にも姿を見つけ出すことが出来なかった。
「葉月――!? 」
睦月の胸騒ぎがだんだんと大きくなっていく。
まさか本物の刀を持って、外へ?
何かの事件に巻き込まれた。想像は加速し急激に広がった。
しかし睦月の願いも虚しく――葉月はどこにも見つからなかった。
ことは警察にまで及んだ。
が、庭に誰かが侵入した形跡もない。葉月が自分の意思で家を出たとしか考えらない。
しかも刀を持って。
だが、睦月はその部分を警察に話すことは避けた。
元々二束三文で手に入れた刀。所持の届け出を怠っていたせいもある。
そして娘がそんなものを持って彷徨いているということになれば、事態は厄介なことになりかねない。 という睦月の判断だった。
それにとても心配だが、この時はまだ――睦月は葉月がまだどこか近くにいて、すぐに戻ってくるという淡い願いもあったからだ。
それが今生の別れになったと――考えつくはずもなく――。
◆◆◆
そして葉月は――。
「ここは――どこ? 」
山々が並ぶ――葉月には見慣れた景色。
だが、足元に広がる――見事なほど緑に覆われた大地は、場違いなほどのどかさを感じさせる。なんだ、ここは? 葉月は首を可能な限り振り回すように、上下左右に忙しく見回していた。
『御身。なにをそう焦っておる』
なんだ――なんなんだ?
葉月がその「声」が聞こえた背後を高速で振り返った。
そこには朱色の――孔雀?
『なにを慌てておる。焦ることもあるまい。もう御身は「此処」にいるのだから』
話してる――朱色の孔雀が話してる。
驚愕の事実に呆然とし、言葉を失っている葉月の視線を痛いほど感じているはずなのに、孔雀はいっこうに慌ている形跡もない。
というか、鳥なので表情がわからない。
悠々とした態度? で葉月と向かい合っている。
「ここ……って、ここはどこっ!? それにあんたは誰っ!? 」
葉月は混乱した思考のまま、この状況を知っているような朱色の孔雀に怒鳴りつけた。
『我は「シュナ(朱那)」という。以後お見知りおきを、葉月。
ここは御身のいた奈良の大地と同じ場所。ただし……千八百年ほど遡るがな』
葉月はこの「シュナ」と名乗った孔雀が何を言っているのか、頭の中を整理するのに時間がかかった。
『そんなに混乱されておるのか? 御身は高校の授業とやらで習ったであろう。
しかもここは御身の父、睦月が生業としている考古学とやらの専門の「弥生時代」だぞ? 娘である御身が知らずにどうするのだ? 』
「……弥生……時代? 」
思考が――そこで止まり。葉月は考えることがまったく出来なくなっていた。
否。想像が追いつかなくなっていた。
『葉月よ。血の匂いがしないか? 』
「……は? 」
地の匂い? シュナの言葉の意味は、今の葉月には伝わっていないようだ。
それを表情で感じ取ったシュナ――朱色の孔雀は嘆息した。
『まぁ、よい。御身、我を持て』
「われって……あんたを抱っこするの? 」
『違う。我はその「朱雀刀」の精じゃ。我を持てとは、刀を持てということだ。
そこから説明せねばならんのか? 手のかかる……』
「ふ……ふざけないでよぉっ!! 」
葉月の声は――木霊のように、大地へと広がり――消えていく。
『でかい声じゃの』
「……家に戻してよぉっ!! こんなとこやだっ!! どうして私がこんなところにいなきゃならないのっ!! やだよ、「弥生時代」なんてっ!! 訳わけんないじゃないっ!! 」
半ベソをかきながら――目には溢れんばかりの涙をためて。
葉月は力いっぱいにシュナに叫んでいた。
シュナは再び小さなため息をついた。
『それは無理じゃ。御身は我でもある。
御身は我が選んだ「女神」じゃ。この時代に来たことにも意味がある。
御身にはある人物を救い、時の流れの過ちを正してもらいたいのじゃ』
「……どういうことよ? 」
『ここは御身の知る「弥生時代」で言えば、「卑弥呼」の死より一年後の世じゃ。だがな。その後に立つであろう「イヨ」という後継の者に問題がある。
それを正しき流れに戻さねば、時代はおかしな方向へと突き進む。
今、ひとりの人物が死の危険に接しておる。
その人物が死んでしまえば、世はあらぬ方へと進み始めてしまう。
御身にはその人物を救ってもらい、本来のあるべき時の流れへと戻してもらいたいのだ。我が常に御身の近くにあったのはそのためよ。
その役目が終われば、御身は元の世……千八百年後の世界に戻ることが出来る』
「……その人物とかいう人を助ければ……いいの」
『今は……否。そういうことだ』
方法はどうであれ――帰ることが出来るのなら。ウダウダとここで考え事をしていて仕方がない。葉月は不本意だが――決意を固める。
早く元の時代に――心配しているであろう父の元へ。
「……じゃ……早く行こうよ」
『御身のそういうところが、我の気に入っているところじゃの』
「私は早く戻りたいのっ!! 早く行くっ!! 」
『承知っ!! 』
葉月がどういう目的であれ、やる気になったことにシュナは満足し――軽く首を上下させた。頷き――の態度を示したのだろう。
突然葉月が抱えられるほどのシュナの体は、仄かな金朱の輝きに彩られ――それは葉月が庭で「朱雀刀」を鞘から抜き放った時に見た光と同じだった。
そして気がついたら――この緑の大地に立っていた。
どうやらシュナがこの「朱雀刀」の精というのは本当なのかもしれない。
葉月がそんなことを光を眺めながら考えていると――その光はどんどんと大きさを増した。
「え? 」
葉月が驚いていると。
光が消えた時――葉月の目の前にいたのは――真紅の虎だった。
『さぁ、行くぞ。葉月』
虎は葉月に背に乗るように促した。
少しの乗馬の経験はあるが――虎に乗るなど、葉月には生まれて初めての体験だ。
怖々とシュナである虎に跨る。
『ちゃんと我に掴まっていないと、振り落とされるぞ。我は「風」だからな』
「風邪」の間違いじゃないか? と悪態をついてやろうかと考えたが。
そのような暇もなく――虎は大地を蹴り、葉月を乗せて走り出した。