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六、奈美と奈義

「これからどこに行くんですか?」

 歩くペースを落としている伊沢の背中に奈美は声を投げかけた。山頂の方に向かっているのはわかるが、そこから何がしたいのかよくわからない。

「山頂にある波木山神社に向かっている。そろそろ離れてしまった人たちと合流するべきだろうからね」

「でも、今の状態で合流しても、まだ何も変わっていないじゃないですか。それに秀を捕まえられていない。何だかみんなと会うのが申し訳ない」

 自嘲気味に返す。それを聞いた伊沢は奈美の隣まで下がってきた。

「本当に何も変わっていない?」

「糸が繋がっている気配はありません。――あの、赤い糸を繋ぐために、今まで川や岩を通り、祠までお参りしたんですよね。いったい何が目的だったんですか?」

 そう問いつめたが、伊沢は微笑を浮かべただけだった。

「そのうちわかるから。短気は損気だよ、奈美ちゃん」

「短気ではありません。不明確なことが多すぎて、気になっているだけです」

「ねえ、時が解決してくれるっている話を聞いたことはない?」

「ありますよ。たいていの問題は時間が経てば解決してくれます。まさかこの糸も時間が経てば解決してしまうとか、そんな馬鹿なことじゃありませんよね?」

 もしそうだとすれば、今までの行為がすべて無駄になる。何もしなくても同じだなんて、考えたくない。

 そして口を開かず、ただ黙っている青年に一番聞きたかったことを改めて聞いた。

「あなたはいったい何者なのですか? どうして私やあなたには赤い糸が見えるのですか?」

 根本的なことを聞くと、急に伊沢は立ち止まった。

 そして風が二人の間を吹き抜ける。

「……君と僕は同じ立場だってことさ」

 寂しそうな表情で、彼は奈美を見つめた。

「同じって、何が……」

 だが伊沢は奈美との会話を打ち切ると、急に道の先を注意深く見た。

「ねえ、あれはさっき君が追いかけた男?」

 息を呑んでから、すぐに振り返る。見慣れたリュックとその後ろ姿を見て、また大声を出そうとした。しかしそれをやんわりと伊沢が遮る。勢いを削がれた奈美は伊沢を鋭く睨んだ。そして彼を無視して進もうとしたが、強い力で手を引っ張られた。

「な、何をするんですか! 放してください」

「放したら君はまた走る。そんな風に怪我を悪化させることを見す見すと見逃せない」

「けど!」

「この先には他の道との合流地点がある。彼は他の人と接触するさ。焦るのはわかるけど、少しは落ち着こう」

「……すみません」

 拳を作っていた手はいつしか開かれ、体から緊張感が抜ける。それを感じた伊沢も手を放した。そしてまた一歩ずつ進み始める。

 だが突然浮かび上がった感情が言うことを聞かなかった。

 目を閉じれば、そこには赤い糸が切れる光景が映る。

 この部活のすべてがバラバラとなり、このまま終わってしまうのではないかと恐怖も感じた。

 わかりあえない人たちの様子を見て、胸が苦しくなった。いや、わかりあえないのではなく、わかりあおうとしないことに、愕然としたのだ。

 そしてあの場を必死に仲裁せず、ただ傍観者としてしか見ていなく、その上逃げ出した奈美自身に腹が立っていた。

 恐怖と切なさと苛立ちから、無意識のうちに頬を涙が伝っていた。慌てて手で拭ったが、幾度もなく流れ出てくる。

 いろいろと溜めてきたものが出てしまっていた。

 こんな姿、誰にも見られたくない、そう思っていると、伊沢は何も言わずに前に出て、奈美に背を見せる形で歩き始めている。

 その行動に感謝をしながら、声を出さずにただ涙を流すだけ流した。


 その間、何も話しかけられることなく、ただ黙々と前進していた。ぽっかりと心が空いてしまったような感覚に襲われたが、それも少しずつ戻りつつある。

 ようやく流れるものが流れた頃、開けたところに出た。そこは道が三つに分かれている。どうやら合流地点らしい。

 最後にしっかりと涙を拭き取ると、地面をじっと見ている伊沢に話かけた。

「どうしたんですか?」

「いや、団体が通った形跡でもあるかと思ったが、ちょっとわからなかった。しょうがない、とりあえず神社まで――」

 伊沢の言葉を遮るかのように鈴の音が鳴り響いた。奈美は立ち止まっている。だから持っている破魔矢に付いている鈴が鳴るはずはない。だが、鈴の音は聞こえる。

 よく聞き取れば、森の奥から鳴っているように感じた。まるでこっちに来いと導いているかのように。

 伊沢もその音の方向に気づいたのか頷き、少し早歩きで向かう。

 着くと、そこには誰かがいた。光の当たり具合と木々に隠れているため、誰とは判断できなかったが、何かをしようと腕を伸ばしている。

 いったい何をしているのかと思った矢先、人の影が消えた。

 幻でも見たのかと思ったが、気が付くと伊沢が険しい形相をしながら奈美の横を通り過ぎる。

 それに反応した奈美も、怪我をしていることなど忘れて、駆け出した。

 伊沢は人の影が消えたところに辿り着くと、しゃがみ込んで、下に向かって手を伸ばした。

「そんな草木じゃなくて、僕の手に掴まって!」

 叫ぶと、伊沢の体が前乗りになる。誰かが滑り落ちたのを助けようとしているのだ。追いついた奈美は、その人物を見て、唖然とした。

「秀!」

 秀は険しい表情をしながら、呼ばれた方へと視線を向けた。彼の両足は宙を浮いている。一瞬で顔が真っ青になったが、すぐに救出作業を手伝おうと屈み込もうとした。だが、伊沢の声がそれを妨げた。

「君の力じゃ、足りない。誰か人を呼んできて!」

「でも誰も……」

「上に行けば神主さん、巫女さんもいる。とにかく早く!」

 強い言いように、追い立てられながら人を探し始めた。合流地点に戻ると、どこかの道から話し声が聞こえる。その方向に向くと、入り口付近で分かれた広樹を始めとする部員たちがいたのだ。

 広樹は奈美の姿を見ると、眉をひそめた。だがそんな行動にいちいち突っかかっている暇はない。左足の痛みが徐々に戻ってくるのを我慢して、駆け寄った。

「広樹!」

「何だよ、奈美。いったいどこで――」

「手を貸して。秀が崖から落ちそうなの!」

 広樹の眉がぴくりと動いた。

「そうか、それは危ないことだな」

「思ったことはそれだけ? 危険な状態なのよ、助けて!」

「どうして俺――」

「いい加減にしなさい!」

 圧倒された声に、その場にいた全員が口を開くのをやめた。

「こんなところでつまらない意地を張ってどうするの。あなたとあれだけ時を共にした人が死にそうなの。そんな状態なのに何も思わないの? 絆で結びあっているっていうのは、喧嘩しても、殴って傷つけあっても、何度でもやり直せる関係を言うのよ!」

 広樹の瞳が大きく見開かれた。それ一瞥して、奈美は秀の元へと戻り始める。

 足の痛みは確実に体力を削ぎ落としていた。進む速度は遅くなり、やや引きずりながら駆けていると、少し髪を茶に染めた男が脇を走り抜いていった。その男――広樹に続けと数名の男子が彼の後を追っている。

 そして伊沢が屈み込んでいる場所に着くと、悪態を吐きつつも、秀の救出作業を手伝い始めた。大の男が数名がかりになれば、軽いものである。

 すぐに秀は持ち上げられ、地上に戻ってこられた。崖から落ちるという、危機から脱することができたのである。呼吸は荒いが、特に異常はなさそうだ。

 それを見届けると、奈美もほっとして座り込んでしまう。気付けば、奈美の脇では由宇が追いついており、足をじろじろと見てきた。

「心配したよ、一人で秀を探しに行っちゃたから。それにしてもその足、怪我をしたのね。どうして連絡しなかったの」

「……したよ。連絡、一回入れた」

 ぶっきらぼうに言うと、由宇の目がパチパチと動いた。

「あ、ごめん。他の人と連絡を取ったりしていて」

 どうやら気づいていなかったらしい。表情からして、意図的に無視するつもりはなかったようだ。そのことについて追求する気はなかったので、あまり触れないようにした。

 はっとして意識を秀の方に向けると、広樹と対峙している。二人の表情は険しく、一触即発な様子だ。どのような展開になるか静かに見守りつつも、止めるときは止められるよう準備は万全とする。

 まず口を開いたのは秀だった。

「広樹……、ありがとう」

「礼を言うなら、あの人に言ったらどうだ」

 いつのまにかその場から少し離れ、伊沢は秀たちに背を向けて、服を整えていた。

「そうだな。けど、お前もいなかったら、二人とも落ちていたはずだ」

「そもそも、何でこんなぎりぎりまで崖に近寄っているんだ。子供だってしないぞ」

 広樹が深々と溜息を吐くと、秀は握りしめていた左手を開き、そこにあるものを見せたのだ。

 それは写真であった。秀と広樹が笑顔でツーショットを撮られている写真が。

「山の中を歩いていたら、急にこの写真が見たくなって、見ていたら風が吹いて、木の枝に引っかかってさ。取ろうとしたら、滑った」

「……お前、やっぱり馬鹿だろう。そんな写真、いくらでもデータで残っている」

「その通りだ。本当に目の前のことしか見えない、単純人間が上に立っていて悪かったな」

 そして二人は声を上げて笑った。含みもない純粋な笑いを。

 その間に切れていた赤い糸が、少しずつお互いの糸に向かって伸びていく。他の人たちと切れていた糸も伸び始めていた。

「――悪かった」

「何が?」

「さっき酷いことを言って。お前に部長なんか務まるはずがないなんて」

 まあ秀にとって根幹的なことを広樹は言い放ったものだ。

 ふとしたときに思って飲み込んでいたことを、何かの拍子にでてしまったのだろうか。

 それともこの山の不思議な空気が無理矢理引き出してしまったのか。

 どちらにしても、不可抗力のことだったのかもしれない。しかし、そんなことは世の中いつでもどこでも起こることだ。大事なのはその起こった後の行動だろう。

「いや、広樹の言っていることは半分正しかった。だから少し一人になって頭を冷やそうとしたんだ。そして思ったのは、俺は上に立つ立場としては、まだまだ未熟な部分がある。だから――」

 姿勢を正して、視線を広樹だけでなく、後ろにいた奈美や由宇を始めとする、部員たちをざっと見渡した。

「助けてほしい。俺が立派に一人できるように。お前や部員たち、そして必死に一人で走り探しまわってくれた奈美がいれば、きっとこの部は繋がっていられるはずだから。お願いだ」

 深々と礼をした。それを見た部員たちは、ざわざわと声を上げる。上に立つ者がそんな態度を取るなんて、例を見たことがないからだ。

 奈美が慌てて秀の顔を上げさせようとすると、その前に広樹が立ちはだかった。

「まずは自分が頑張れよ。俺たちが付いて行くのはその後からだ」

 頭を上げさせると、ふっと笑みを浮かべた。それにつられて秀の表情も緩む。そしてお互いにしっかり右手で握り合う。

 その瞬間、秀と広樹の赤い糸はしっかりと結びあった。その糸は前よりも太く、強固なものになっているようだ。

 そして他の切れていた糸も伸びていき、それぞれが繋がり、また一本の糸となった。

 赤い糸たちはまるで布のように広がる。その光景が奈美にとってはむしろ微笑ましいことになっていた。

 切れていたものが繋がると、その糸たちは少し霞んで見えるようになる。その光景に首を傾げた。今まではそういう現象がなかったのだ。

 その理由を聞こうと、一番事情を知っていると思われる伊沢を見た。まだ背を向けたままだ。さすがの彼も立場から自嘲して、この集団から離れているのだろう。その気持ちは有難いが、話したいこともあるので、立ちあがって聞こうとした。

 だが、何の前触れもなく広樹と秀が怪訝な表情をしながら、伊沢の方へ振り返ったのだ。

奈義(なぎ)さん、そんなところで一人でいないで、こっちに来たらどうですか?」

「そうですよ。俺の命の恩人なんですから、遠慮することないじゃないですか。奈義さんがいなかったら、俺、今頃、生きていないかもしれないのに」

 その気軽な投げかけに、奈美は絶句した。

 秀も広樹も、奈美の驚きなど意に反さず、伊沢を呼び続ける。

「奈義さん、久々に会ったのにどうしたんですか? いつものおちゃらけさは――」

「秀、おちゃらけとは心外なことを言うな。僕はいつだって真面目だ!」

 伊沢ははっきりと言い放ち、頬を膨らませながら振り向き、二人をじろりと見る。その様子は、紛れもなく伊沢の姿。三人で談笑といかないまでも、親しく喋っている。それを見て、心の中で絶叫した。

 ――ちょっと待って。何がどうなっているの!

 呆然としてその様子を眺めていたが、ふと伊沢が奈美の方に視線を送った。

「そうだ、秀に広樹、奈美ちゃんが左足を怪我しているから、とりあえず神社の方まで連れて行ってくれないか? 僕だと彼女照れちゃって」

「照れていません!」

 反射的に突っ込みを入れる。それをその場にいた全員が目を丸くして、奈美を見てきた。集団の視線に気づき、頬を赤くする。

 顔を伏せていると、やれやれと肩をすくめながら来たのは秀だった。

「俺のせいだって聞いた。ごめんな。とりあえず背中乗るか?」

「……肩だけ貸して」

 それだけぽつりと言った。支えられながら立ち上がらせてもらう。そっと奈美の左手を秀の右肩に乗せると、半ば足を引きずりながら歩き始める。見守っていた部員たちもその後に続けと、止めていた足を動かしだす。

 その様子を一番後ろから眺めていた伊沢奈義は、安堵した表情を浮かべて、その集団の後ろに付いて行った。



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