四、繋累岩
紡糸川を飛び越え、伊沢まで近づくと、彼も再び歩き始めた。
ここから先の道は、緩やかな道が続くところもあるが、基本的にはアップダウンが激しい登り坂である。適度に休憩を入れて、水分補給をしながら進んだ。
一方、伊沢は多少息が切れているものの、あまり疲れたようには見えない。意外に体力があるのだなと感じてしまう。山が好きというのはあながち嘘ではないみたいだ。
ふと、平坦な道が続くところで、時計に目をやる。
気が付けば他の部員たちと分かれてから、二、三時間ほど経過していた。奈美自身が先に単独で行動をし始めたのにも関わらず、それを気にしてくれる部員たちがいて少し明るい気分になれる。
本当は赤い糸なんか存在してなく、すべて幻想であり、あの秀と広樹の殴り合いも何かの間違いだったのかもしれないと思えてきていた。
「奈美ちゃん、君の体の左から出ているもの、見える?」
しばらく黙っていた伊沢が急に奈美に話しかけてきた。それを聞いて、恐る恐る視線を下ろす。そこには赤い糸があり、他と結ばれるのではなく、棚引かれていた。それを見て、愕然とする。
「物事は根本をどうにかしなくては、解決にはならない。まだ糸はほとんど切れたまま。電話一本で感情を左右されない方がいいよ」
その言葉にむっとした。鋭い目つきで伊沢を見る。
「何ですか、その言いぐさは。少しは上向きにいっていると思って悪いですか」
「いや、悪くないよ。ただ、数回の声のやりとりという、上辺だけで判断するのは危ないと言っただけ」
「それでも何かを言ってくれることが嬉しいじゃないですか。言葉として出してもらうことが嬉しいんですよ!」
吐き出した後で、すぐに我に戻った。こんな出会って数時間しか経っていない人に、言うことではない。それに他の人にも言ったことがない想いを口に出すなんて。
後悔しながら地面を見つめ、立ち尽くしていると、伊沢が顔を曇らせて歩み寄ってきた。
「ごめんね。変な風に言い返して。けどそういう風に、本音をはっきり口に出すのもいいと思うよ」
「はっきり言うことがすべての最良のことではありません。――早く行きましょう。糸が繋がって、部が元通りに戻るのなら、それでいいのです、私は」
表面的な感情をきっぱり言いのけて、伊沢の顔を見ると憂いの表情をしていた。だがすぐにそれはなくなり、にこりとしながら、背を向ける。
「そうだね、わかった。それじゃあ、進もうか」
深く追求することなく、前に進むことを促してくれた。その背中が少しずつ小さくなっていく。それを小走りで追いかける。それと同時に、なぜか乱れた心が落ち着いていった。
雄大な自然の景色を楽しみつつもひたすらに上を目指す。
時々見る景色として印象に残ったのは、樹齢何百年とも言える木であった。その巨大な木の周りは苔で覆われており、歴史を感じさせるものがある。過去から今まで佇んでいたその木は、きっと未来までも見守り続けていくのだろう。
しばらく歩いていると、視界に木々だけでなく、苔や草などで覆われた何かが見えてきた。
「ほら、次のポイントの岩だ。もう少し近づいてみよう」
その岩はやがて奈美の視界以上のものとなって、目に飛び込んできた。五メートル以上の高さはあろう大きな石が道の左右にある。そして上の方を草木が繋ぎ止めていて、アーチ上になっているのだ。
「これは繋累岩というんだ。繋ぎ留める岩という意味」
「けいるい……。岩と岩を繋ぐもの」
ゆっくりと観察をしながら、真下まで移動して、顔を上に向けた。
緑で覆われた頭上。その隙間から漏れ出る、太陽の光。強固に繋がれた緑。
岩に触れてみると冷たいが、むしろ落ち着くような感じである。
「元は岩と岩で繋がれていたらしいけど、壊れてしまったらしいんだ。だけどその前に草木が両岩を繋いでいたから、今も繋がっているように見えるわけ」
「すごいですね。こんな状態になっても繋がりを意識しているなんて……。それで、この岩のどこが手がかりなのですか?」
幻想的で綺麗ではあるが、それから何が導かれるかはよくわからない。まさかこれを通り抜けるだけで、解消されるとか、そんな簡単な話ではないと思う。
「ねえ、奈美ちゃんはカメラを持っている?」
「持っていますけど」
「ちょっと貸して」
訝しげに思ったが、素直にデジカメを伊沢に渡す。もしかしたら写真を撮ることで、何かが写り、その何かが関係あるのかもしれない、と言い聞かせた。伊沢が岩全体をレンズに納めようと、後ろに下がっている。それを見た奈美は岩から離れるために、通り抜けようとした。
「あ、動かないで!」
「はい?」
思わず足を止めて振り返る。するとシャッター音が響いた。呆気にとられている奈美を差し置いて、伊沢は何枚もシャッターを押しまくっている。
しばらくして気が済んだのか、ニンマリ笑いながら、カメラを返しにきた。
「ありがとう。いやあ、いいカメラだね。すごく綺麗に写っていると思うよ」
「あの、写真が何か関係あるのですか?」
「まあね。いずれわかるから。お、いいものが落ちている」
奈美が困惑しているのにも気にせず、しゃがみ込み、何かを拾い上げる。そしてそれを奈美に見せた。
手のひらでようやく持てるくらいの割と大きめな石。よく見ればただの灰色一色ではなく、ほのかに煌めきがある。
「いい色だろ。この岩の欠片だ。どんなに時が過ぎても、大きな変化が起こらないのが石だ。そう、永久不変っていうもの。役に立つはずだから、持っているといい」
「わかりました。ありがとうございます」
繋累岩の欠片が奈美の手のひらに乗る。ほのかに温かいそれをぎゅっと握りしめた。
さて、赤い糸を関連があると思われるところを、二カ所ほど回ったが、正直な話、奈美は伊沢が何をしたいのかよくわからなかった。
水と石を手に入れて、何が起こるのか。
比較的険しい道で手に入れたものとはいえ、誰もが手に入れられる品である。だから手に入れただけで、赤い糸と絆の関係という、不可思議なものが変わるとは思えられない。
だが、そのようなことを抜きにすると、他の部員たちにも見て、感じてもらいたい景色でもあった。
眼下を見渡して、溜息を吐いてしまうことがある。この大自然が広がる山で、人間なんて本当に小さなものだということに。何百年もそこに置かれた岩、流れ続けている水、そして樹齢何百という木々。
人間が争いを起こして数日が経過するのと比べると、なんて長い期間なのだろうか。
時代を超えて、手に入れた水と石。絆とかと別にして、何かあるのかもしれないが、今はまだ半信半疑である。
「奈美ちゃん、最後のポイントに行こうか」
「そこのポイントに行くことで、何かが変わるんですね」
「まあきっかけは作れるだろう。最後はまあ、繋ぐ人自信の問題」
「繋ぐ人とは?」
「現れるんだよ、赤い糸を繋ぐ人が。急がないとみんなが下山を開始してしまう。少し急ぐよ」
「わかりました」
伊沢は少し足を速く動かす。奈美もその速さに負けずと進み始める。
ふと、繋ぐ人とはいったいどんな人なのだろうかと、考えていた。
巫女さんみたいな人か、それとも霊とかそういう類だろうか。その人自身にも興味があるし、糸が繋がり、以前の通りに結びつきが戻ると思うと、自然と疲れはどこかに消え、足取りはしっかりしていった。
繋累岩から先の道は、急な勾配が続いていた。いよいよ登山という感じだ。足場がしっかりしていそうなところを探しつつ、滑らないように気をつけてさらに登る。
途中で登っていた石と石が大きく開いている場所があり、奈美は少し渡るのを躊躇っていた。それに対し伊沢は手を伸ばして来るよう促す。その行為に一回は手を引っ込めたが、意を決し握って飛び越え、無事に降り立った。
伊沢はただ微笑んだだけで、何事もなかったかのように進む。その後ろ姿をぼんやりと眺めた。
一瞬だけ力強く握られた感触がまだ残っている。あんな行動をすれば、彼は調子に乗って口を動かすと思っていたが、何も触れなかったのが、不思議であった。
――本当に変な人。
だが、その言葉の意味合いは少しずつ変わっていた。
「それにしても聞かないんですね、私が何故赤い糸の繋がりを気にしているか」
不思議だった。何気ない会話はあったが、奈美と赤い糸の関係は一度も聞いてきていない。質問に対し、伊沢は大きく背伸びをしながら答えた。
「何か切れるような事件でもあったんでしょ? 例えば、誰かの喧嘩とか」
一発で理由を当てられるという、虚を突かれて、立ち止ってしまう。その様子を意外そうな顔で眺められる。
「何か変なことでも言った?」
「いえ、あまりにも当たっていたから驚いて。一緒に行動していた男子が二人、喧嘩をして、そのうちの一人が喧嘩をひと蹴りつけると、山を一人で登り始めて。それで今は彼を探している途中なのです」
「そうだったんだ。……なかなか嫌な思いをしたわけだ」
率直な感想を言われて、少し顔を俯かせた。嫌を通り越して、寂しかったのが本音である。
それ以後も、伊沢はそのことに関してはまったく触れようとしなかった。それは奈美の表情に無意識に出ている落ち込みように、彼なりに気遣った結果なのかもしれない。




