三、紡糸川
少しだけ奈美の表情に赤みが戻り、笑みを浮かべる。それと同時にポケットが振動し始めた。取り出すと、奈美の携帯電話が点滅している。先ほど分かれた由宇からの着信であった。慌てて電話に出る。
「もしもし」
『奈美? 今、どこにいるの?』
「今は周りに目印がないからはっきり言えないけど、途中の三つの分かれ道は右に行って、少し歩いた所にいる」
『右? そうか、私たちは左に進んでいる。先に秀を追いかけて行った人たちは真ん中の道に進んだらしいから、みんな違う道を通ったみたいね。まだ秀は見つかっていないから、そっちの方は任せた。何かあったら連絡ちょうだいね。それじゃあ――』
「ちょっと待って!」
切ろうとした彼女に対して、静止の言葉を投げかける。
「広樹の様子は、どう?」
言った瞬間、鼓動が急に速くなる。聞いてしまった後悔もあったが、聞かずにはいられなかった。
『広樹なら多少不機嫌そうな顔をしているけど、普通に話はしている。まあ秀と会ったらわからないけど』
「そうか、ありがとう。ちょっと気になっただけだから。――それじゃ、またね」
由宇が電話を切るまで、じっと耳を当て続ける。やがて切れたコール音が響くと、奈美も通話を切った。
熱を帯びている電話だったが、なぜかそれ以上の温かみも感じられたのだ。
「いいお友達をお持ちのようだね」
腕を組みながら、伊沢は待っていたようだ。
「まあ、いい面もありますけど、彼女、お節介の方が多いんですよ。――さて、これからどうすればいいのですか?」
気持ちを即座に切り替えて、自分のやることを明確にする。秀を見つけることももちろんだが、できるなら赤い糸を修復したい。
「僕が聞いた話によると、赤い糸はある人が結びを作っているそうだ。その人に会えば、どうにかなるかもしれない」
「その人ってどんな人なのですか?」
「さあ、僕は噂として聞いたことがあるだけで、具体的にはわからない。けど実在するらしいから安心して。さて、まずは手がかりがあると言われている、川まで目指そうか」
「どこにあるのですか?」
「この先を道なりに進めばある。さあ、行こう」
伊沢にそっと促されながら、奈美は歩を進め始めた。だが、まだ完全には信頼したわけではないので、多少の距離をあける。
道は今まで歩いた道と同様にぬかるんでおり、歩きにくい。その上、徐々に斜面も付き始めたのだから、なおさらだ。足下には十分注意をして、手も使いつつ、着実に登る。
一方、伊沢は海に行くような服装でありながら、そんなことも感じさせずに進んでいく。それを見て、奈美は乾いた笑いを出す。
「今更な疑問なのですが、あなたはいったい何者ですか?」
「僕はただの通りすがりの登山者。山を純粋に愛し、海も大好きな青年さ。この山も何度も登ったことがある。……あ、今、僕のことを変人だと思ったでしょう」
「はい」
遠慮などせず、そのまま本音を出した。だがそれが返って奈美への印象をよくしてしまったらしい。怒りもせず、笑顔である。
「素直でよろしい。まあこんな恰好で登山なら何回かしたことはあるから、心配しなくていいよ」
「誰も心配していません。ただあなたが転がり落ちたら、こちらが迷惑なだけです。気をつけてください」
「ご忠告ありがとう。優しいね、奈美ちゃんは」
ちゃん付けで呼ばれて、頬に熱が帯びる。
「初対面に近い人に、そんな呼び方しないで下さい!」
「それじゃあ、奈美りんがいい? 奈美っちでもいいけど」
「そんな風に口を開く余裕があるのなら、早く進んで下さい。遅いです」
そう言いながら、奈美は伊沢の横をすまして抜かそうとした。だが彼はそれを遮るかのように、慌てて足の回転を速める。その行動に首を傾げたが、多少はこの山の地理関係に不安があったので、先に行って道を示してくれるのなら、それはそれでいい。
それからは伊沢が何気ない話題を持ち出してくるのを、奈美が突っ込んだり、切り捨てたりといった会話が繰り広げられていた。まったく変な人と出会ってしまったと思ったが、内心はこういうどうでもいい会話が少し楽しい。
部活内の三年生と言えば、四年生はほぼ引退の身であるため、実際に部を引っ張っていかなければならない代。後輩たちを指導しつつ、自分たちも練習をするため、いつも気を張っていなければならなかった。また頼られるのは嬉しいが、言葉を押しとどめて耐えなければならない時期もあるので、自由には動けない。
だが、今はそんなことを気にする必要はないようだ。見知らぬ人で少し一歩下がって接しているが、気を使わなくてもいいという風に会話からして感じられる。
やがて急な勾配が続いた後、再び平坦な道が続く途中で、どこからせせらぎが聞こえてきた。伊沢の足の進みが若干速くなり、それとともに奈美も駆け足気味になる。
そしてそこに探していたものがあった。岩と岩の間から少しずつ流れ出る水。それが徐々に集まり、一本の川となっているのだ。
「これが言っていた川ですか? こんな川、初めて見ます」
率直な感想をこぼすと、伊沢は顔をほころばした。
「この道は一番歩きにくい場所だし、脇道だからあまり人は通らない。ほら、雨が降ってぬかるんでいるからわかると思うけど、今日通った人はまだいないだろう?」
そういえばと思い、通ってきた道を振り返る。伊沢の後ろをただ付いていくだけだったのでその時はわからなかったが、時折ある石の段差に靴の跡がなかったのを思い出す。そして歩きにくかったという事実も全然気づかなかった。
――もしかして、この人はそれを考慮して先に進んで、歩きにくさを気にさせないために、たくさん話しかけてきた?
伊沢を改めて見たが、彼はさっきまでいた場所にはいなく、気が付けば川の水を無邪気に触り始めていた。その姿は青年というより、少年という方があっている。純真無垢で自分のことしか考えていない様子だ。
「私に気を使いながら進んでいたなんて、それはないか。ただのお調子者なだけね」
奈美は自分の考えをあっさりと捨て去った。
とにかく少しでも手がかりを得ようと、川のすぐ傍にまで寄る。すると伊沢が場所を空けてくれた。
「この川は紡糸川と言うんだ。冷たくて、気持ちいいよ」
嬉しそうに流れ出る水を触っている。それにつられて、奈美も触れてみた。
ひんやりしており、ほんの少し触れただけで、指先から全身にかけて、一気にその冷たさが駆け抜ける。
自然と心が和んでくるその水の誘惑にかられて、気が付いたら両手ですくい、口の中に入れていた。
体内に入った瞬間、全身が清められたような気分に陥る。ただの湧き水であるはずなのに、それ以上のものであるように感じられた。
「この川、あまり知られてはいないけど、ここをモチーフとした和歌があるらしいよ」
「どんなのですか?」
「正確には覚えていないけど、糸を紡ぐことと時が経つにつれて深まる絆を合わせた感じだった。いやあ、昔、少しかじった時に知った話だから、間違っているかもしれない」
「和歌が作られたということは、昔から魅力的な川なのですね」
音だけを聞いていても心地がいい。見ているだけでも、心が穏やかになる。癒しの効果がある川なのかもしれない。
感慨深くふけっていると、隣ではその水を何度もすくい上げて飲んでいる人がいた。その人を呆れた顔をしながら横目で見る。
「それで、この川と糸は何が関係あるのですか?」
伊沢は口元を拭いながら、立ち上がる。
「この川の上流に行けばさらなる手がかりがあるらしいけど、今回は水を頂くってところで終わりかな」
「はい?」
目を丸くする奈美など気にせず、伊沢は背負っていたリュックサックから、ペットボトルを取り出し、水を入れ始めた。透明のボトルに、見る見るうちにあの神聖な水が入っていく。ただのペットボトルが違ったものに変わっていくようだ。やがて満杯になると、満足そうにキャップを閉めた。
「あの、それを――」
「はあ、これで飲み水が確保できた!」
それを聞いた瞬間、奈美は拳を握りしめる。そして険しい表情をしながら、ゆっくりと近づいた。その異変に気付いたのか、伊沢は慌てて首を何度も横に振った。
「じょ、冗談だって! この水が必要なんだよ、糸を繋ぐためには。ほら何でも神聖なもので清めてから、何かを行うじゃないか」
「それは本当のことを言っているのですか?」
「本当だって! そのために空のボトルを持ってきたんだよ。もしこれを飲もうとしていたら殴ってもいいから、信用してくれ」
目で必死に訴えられ、さらにそこまで言われては、さすがにこれ以上何かをすることはできない。奈美は自分の拳を開き、表情を緩める。そして殺気から逃れた伊沢は胸を撫で下ろした。
緊張も緩んだところで、伊沢はペットボトルをリュックに入れて、道の先を指で示した。
「さあ、次の場所に行こうか」
「どこですか?」
「岩さ。この神聖な山にぴったりで素敵な岩があるんだ」
そして伊沢はまた先に歩き始めた。奈美はやれやれと思っていると、またポケットが振動していることに気づく。秀を追った男子の一人であった。伊沢が立ち止まって、出ろと促している。それに感謝をしつつ、通話ボタンを押した。
「もしもし、糸川です」
『奈美さん? 秀さん、見つかりましたか?』
「いえ、まだ。そっちはいた?」
『全然見つからないです。かなりペースを上げて登っているのですが、影すら見あたらなくて』
「分かれ道が多いから、すぐに見つからなくて当然よ。合流するまでは、そっちのほうをくまなく探してね」
『わかりました。見つかったら連絡します! あと奈美さん、足下には気をつけて下さいね。さっき派手に転んだやつがいたから』
「私は大丈夫よ。そっちこそ気をつけてね。それじゃ」
通話ボタンを切ると、表情を緩めた。わざわざ心配して連絡してくるとは、嬉しいものだ。現実的な状況は変わっていないように見えるが、他の場面では何かが変わろうとしているのは垣間見えた。




