二、糸川と伊沢
「秀、いったいどうして……」
「放っておけよ、あんなやつ」
振り返ると、眉をしかめている広樹の顔が真正面にあった。頬は腫れ上がっており、痛々しそうである。
「確かに秀が先に仕掛けたから、あっちの方が罪としては重いけど――」
「重いけど?」
「広樹が先に何か変なことを話しかけて、突き放したでしょ?」
正直、そのことを広樹に聞くことには、多少の躊躇いがあった。冷静になれていない彼が果たして答えてくれるかどうか、疑問だったからだ。
「変なことって、別にたいしたことじゃない」
「そう……」
予想通りの返答に、視線を地面に向けた。すると秀の携帯電話が落ちているのに気が付いた。それを拾い上げ、土を払った。いつも先生や部員と連絡を取り合っている電話。それがなければ、もし秀を追いかけた部員たちが出会えなかった場合には、連絡が取れない状況になってしまう。
視線を広樹に向けたが、すでにそっぽを向いている。もう秀のことなど、どうでもいいということなのか。
二人は常にお互いを高める存在であり、良い意味で好敵手。切磋琢磨にやる姿は周りも刺激を受けていた。
その二人の関係がこんなところで終わっていいはずが――ない。
ぎゅっと携帯電話を握りしめた。
そして道の先を見た。
この山の頂上は一つであるが、その前にいくつか分かれ道がある。どこを通っても地図があれば頂上に辿り着くことができるが、それぞれの道によって距離は違うし、一度分かれてしまったらしばらくは合流できない。つまり登りも下りも、他の人と出会わない可能性もあるのだ。だから一人でも多くの道を手分けして秀を追いかけるべきである。
「行きたければ、行けばいい」
突然、奈美に対して言葉を投げてきたのは広樹。だがその表情は覇気がない。
「もういいだろ、行事とか、親睦を深めるとか。適当に仲のいいやつと数人で、勝手に登って、勝手に降りればいい」
「それじゃあ、この――」
登山は何のために始まったのよ、と奈美は言おうとしたが、部員たちの周りにある糸が次々と切れたことに、気がいってしまった。
そして部員たちは思い思いの人たちと一緒に進み始めてしまう。広樹も奈美など放っておいて、歩き始める。
「奈美、早く行こうよ」
女子の集団で固まっていた由宇が話しかけてくる。
「けど秀が……」
「放っておけば、そのうち出てくるって。そういうものでしょ」
その言葉を聞き、周りの無関心さに気付いて、奈美は立ちすくんでいた。
一つの団体ではある。だがどこか繋がっていない団体。
それをまざまざと見せつけられて、愕然としていた。
どうにかしたいと心の底では思った。しかし、部内でもさほど影響力のない奈美が発言しても動かないだろう。ならば、先に手を出してしまった人間ではあるが、部長の秀を捕まえるのが一番いいのではないか。
その考えに至ると、足が動いていた。少し先に進んでいた個々のまとまりの間をすり抜け、決死の思いで駆け登る。ぬかるみに足を取られそうになったが、そこは頑張って踏み止まった。
自分のペース以上で登っているため、すぐに呼吸が乱れる。それにも関わらず、行けるところまで全力で進む。なぜならば、なるべく早く部員たちから離れたかったのだ。
いつしか奈美の目にはうっすらと涙を浮かべていた。だがそんな様子に気付かず、ひたすら駆け登る。そして分かれ道の所で、予定のルートではない右の方に逸れた。
やがて奈美は広樹たち、後方の集団が見えなくなるところまで、登っていた。
周りを見れば木々が勢い良く伸び盛り、風が草木を揺らしている。鳥のさえずりも聞こえてきた。人間の話し声などなく、一種の幻想的な雰囲気が漂う。
歩調を通常の速さに戻しながら、少し周りの景色を味わいながら見ていた。
だが突然、おかしなものが視界の隅に入ってきた。視線の焦点をそこに向ける。
その瞬間、奈美の顔が引きつった。
少し先に進んだ道に、一人の青年がいる。黒髪が爽やかに風によってたなびき、サングラスを掛けている。顔が見えないためはっきりと言えないが、二十代半ばくらいだろうか。だが、それより顔より下が問題であった。なんと、アロハシャツを着て、ズボンも丈が短いラフなものを着て立っているのだ。
赤い糸を見たのとはまた別の衝撃が奈美の体の中を走り抜ける。こんな山奥に、海に行くような格好をしている人は見たことがない。
そんなのお構いなしに、青年は奈美に気がつくと近づいてきた。
「おや、お嬢さん、そんなに血相を変えてどうしたんだい?」
見知らぬ人にたやすく言える心情ではない。それにこんな場違いな服を来た人など、それだけで引いてしまう。目を伏せて、さりげにその脇を通り抜けようとした。だが、彼の次の言葉には思わず立ち止まってしまった。
「赤い糸でも見たのかい?」
立ち止まり、振り返ると、青年はにこりと笑った。
「どうやら図星のようだ」
そう言うと、サングラスを外し、奈美をじろじろと見回してきた。奈美は少しずつ近寄ってくる彼に警戒をしつつ後ずさりをする。
「おや、そんなに警戒しないでくれ。別に僕は怪しいものではない」
「こんな場所で、そのような格好をしていて、その上自分で怪しいものではないって言っているのを、真に受ける人がいますか!」
「けど赤い糸を見て、困惑した状態なのだろう? 僕は知っているよ、その糸のことを」
糸の存在を話題に出されて、息を呑んだ。ずっと頭の中で回っている、突然現れたあの糸の存在。もし少しでも何かを知っているのなら、それは聞き出したい。
「ふむ、少しは信用してくれたようだね」
「信用はしていません。ただ聞いた内容によっては考え直します」
あくまで奈美自身の方が優位に立とうとした。だが、状況によっては一目散に逃げようとは決めている。
青年は腕を組みながら、少しだけ距離を取って立ち止まった。
「まあそういうことにしておこう。ああ、まずは自己紹介だね。僕は伊沢。よろしく」
悪意のない表情を浮かべていた。その姿に思わず心を許してしまいそうだが、必死に引き留める。伊沢は若干肩をすくめながら話を続けた。
「さて単刀直入に言うと、赤い糸は人と人の絆を繋ぐものだ」
「絆?」
「そう、人と人は目に見えないが、糸のように繋がれていると言われている。その結び合いを絆と呼んでいてね。それを具現化したものが、君が見えていた赤い糸」
伊沢は自分の体から出ている赤い糸を指で示すと、それがまるで生きているかのように、奈美へと近づいてきた。避けようとしたが、むしろ奈美から出ていた赤い糸がそれを受け入れようとしている。あっと言う間にその二つの糸は結びついた。
「ほら、これで僕と君は見知らぬ人から、少し関係が持ったように変わったんだ。より親しい仲になれば、この結びつきは強くなる」
突然の事実を聞いて、唖然としてしまう。内容が現実味を帯びなさ過ぎて、上手く理解ができない。
「けど、こんなの私、今まで見たことがなかったのに!」
「見え始めたのは、波木山に入ってからではないのかい?」
「そうですけど……」
「この山の中で糸が見える人がごく稀にいるらしい。この山はもともと古くから様々な伝説が言い伝えられている神聖な場所。そのような場所では、奇怪なことが見えやすいのだよ」
そういうことならば、何故山に入ってから見えたのかということは納得がいく。だが、もう一点腑に落ちないことがあった。
「仮にそうだとしても、私はこの山に登るのは三回目なんですよ? 今までは見えたことがなかったのに、どうして今年は……」
伊沢はちらりと奈美を眺める。途中で目を細めたが、すぐに質問に答えた。
「まあ見えるか見えないかは、その人のその時の状況や持ち物で変わるらしい。ただ、よく言われているのは、その見えるという現象は偶然ではなく必然的に起こること。この山に入ってから、何かおかしいことはなかったかい?」
そう尋ねられると、すぐに秀と広樹のことが思い浮かんだ。あの出来事をおかしいと言っていいのかわからないが、奈美にとっては普通ではないと思っていた。
「どうやら何かあったようだね。それが原因だろう」
「つまりおかしな出来事と赤い糸の出現には、関連があるということですよね。それなら、赤い糸をどうにかすることで、その出来事は解消できるのですか?」
何を言っているのだろうと、思わず失笑してしまう自分もあった。だが、どうにかしてあの状況を打破したいという思いが強くなっている。可能性があるのなら、聞き、試してみる価値はあるかも知れないと思ったのだ。
伊沢は意外にも奈美の食い付きがよかったのか、少し嬉しそうである。それを見ると、何故か癪に障った。
「何ですか」
「いや、いい推測だと思う。赤い糸の繋がり、つまり絆の繋がりを戻すということでいいのかい?」
「……そういうことになりますね」
仲のいいコンビである秀と広樹の関係、そしてバラバラになってしまった部としてのまとまりを戻したい。奈美は自分自身では力はないと思っている。だからこそ目の前に突き付けられた好機をしっかり使いたいのだ。
正直に言ってしまえば、空を掴むような話で、まったく無茶なことだと思う。だがそんな気持ちを伊沢は笑いもせず、ただ意外な言葉で返してきた。
「ねえ、それに対して僕もお手伝いしていいかい? いくつか心当たりがあるんだ」
気が付けば、伊沢は奈美の近くにまで寄っている。微笑みながら近寄ってくる彼がいた。
「人手が多い方が、助かると思うけど?」
「出会って間もない人に、頼むのは――」
「いいんだよ。旅は道連れ、世は情けって言うだろう? 僕としては、赤い糸と絆の因果をはっきり見てみたいんだ」
「あれだけ言いきっているのにも関わらず?」
「仮説と実際は違うんだ。だから、お願い、手伝わせて」
そして頭まで下げられた。そこまでされては、断りにくくなってしまう。だが本音を言ってしまえば、断る理由があまりない。むしろ知識や情報を得ているこの人といたほうが、何かといいことがあるだろう。
やがて何度か頭の中で試案をし、頭を上げさせると、奈美は口元を緩めた。
「糸川奈美です。変なことをしたら、すぐに蹴り落としますからね。しばらくの間、よろしくお願いします」
「蹴り落とされるのは嫌だなあ。するときはお手柔らかにお願いします」
軽口を叩きながら、白い歯がきらめいた。




