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一、波木山

 まず拙作に目を留めて頂き、ありがとうございます。

 本作品はほんのりファンタジーも入っている、青春小説となっています。

 連載小説の形式を取っていますが、そこまで長くない小説となっていますので、お気軽にお読み頂ければと思います。

 では、読者様に少しでも爽やかな気分になって頂けますように――。

 遥か昔、ある山には繋がりを大切にしている神様が降り立ったと言う。

 その神様はすべての人々の心が繋がることを願ったが、それは一人では難しいことだった。

 そこで、その神様はまた別の二人の神様を産み落とすことにした――。



 * * *



 朝目覚めると、微かな光が目の中に入ってくる。それに刺激されて、糸川奈美はゆっくりと起き上がった。

 カーテンの隙間から漏れていた光は弱々しく、窓の外はどんよりとした雲で覆われている。幸か不幸か、数日間続いた雨は昨夜のうちに止んでおり、道路も少しずつ乾き始めている状態だ。

 外の様子を眺めていたが、しばらくしてから窓に背を向けて、携帯電話を取り上げた。その時、視界に入ったカレンダーには今日の日付に〝登山〟とはっきりと書かれている。それに関して、何か連絡はないかと受信メールを確認したが、中止や延期を促すようなものだけでなく、登山関係の連絡は一切入っていなかった。

「せめて雨の次の日は滑りやすいから気をつけるように、ってくらいメールで流しなさいよ」

 いつものことではあったが、少し気の使い方がなっていないことに溜息を吐く。

 秋も深まる季節、今日は奈美が所属している大学の部活動で、親睦を深めることを一つの目的としている登山が行われる。波木山(なみぎさん)という、大学から一時間程度バスで離れた所にある、標高約千メートルの山に毎年登っているのだ。

 奈美にとってはもう三回目の部での登山。体を動かし、自然を肌で感じられる登山は好きで、いまだに楽しみにしている行事である。だが、今回はいつもとは違っていた。

 夜から胸の動悸が治まらず、胸騒ぎがしてならないのだ。どこか体もだるく、気分が乗らない。もしかしたら、みんなの足に合わせて歩けないかもしれない恐れもあった。だから、今日登らないという連絡をほんの少し期待していたが、世の中上手くいかないものである。

 目覚めてからまだ数分しか経っていないのに、再び溜息を吐く。そして肩にかかるくらいの黒髪を振り払いながら、奈美は登山に適した服を引っ張り出し、そして机の上に置いてあった矢をリュックに入れながら、家を出る支度をし始めた。



 * * *



「おい、目的地に到着したぞ。みんな、バスから降りろ」

 朝も早かったため、バスの中でうとうとと眠りについていた奈美を起こしたのは、同じ三年生であり、部長の高瀬秀の声であった。その声はいつもよりぶっきらぼうで、どことなく苛立ちが感じとれる。そんな彼の様子を気にして立ち止っていたら、隣で座っていた友達の関根由宇に早く降りるよう促されたため、慌ててバスから降車した。

 バスから降りた瞬間、ひんやりとした空気がまず奈美たちを出迎える。バスは登山口の近くまで走らせたのか、目の前には壮大な山が目に飛び込んできた。

 波木山は他の山と比べると、さして高い山ではない。だが、それでも人間の視線と比べればかなり大きく、迫力がある。また入口から少し進んだ所にはロープウェイがあり、ハイキング気分で手軽に登り降りできる山として、近年登山客を増やしているのだ。

 山のほとんどが木々で覆われており、道中がどうなっているかはさすがにここからはわからない。入口は小さく、その先には鬱蒼とした森が続いていた。まるでこの先は危険であるから、くれぐれも注意して進むようにと呼びかけているようにも思えた。

 初めて来る一年生たちが歓声を上げているのに対し、思わず笑みを浮かべていると、秀が山をじっと見ながら、短い黒髪を手で掻いている。

「はあ、奈義さんたちの代もまたこんなことを行事なんかにして……」

 ぶつぶつと呟きながら嘆息を吐いていたが、すぐに気合いを入れ直すかのように表情を一転させて、みんなに声を投げかけた。

「静かにしてくれ。さて、これから登山を開始する。途中で休憩も入れるが、基本的には登り続け、昼を頂上で取り、それから下山して帰宅だ。何か質問はあるか?」

 特に質問はなく、首を横に振る。それもそのはずで、登山前にミーティングをしているため、すでに質問をする内容は出尽くされているのであった。

 秀は二十人以上もいる集団をざっと見渡して何もないことを確認すると、踵を返して入口へと向かい始めた。他の人々もそれぞれ促し、促されながら、歩を進ませる。奈美も周りの流れに合わせて歩き始めた。

 ふと意識を自分自身に戻すと、後ろの方から鈴が鳴り響いている。後ろを振り返ると、奈美のリュックから矢が飛び出していた。ああ、これも今回の目的の一つであったのだと改めて思い出す。

 先日の部室の大掃除で奈美が見つけてしまった破魔矢。いったい何年前なのかは定かではないが、埃をたっぷり被っており、買ってから数年も経っているのは目に見えていた。そこら辺で処分するわけにもいかず、この矢を買った波木山の頂上にある神社に納めに来たのだ。

 なるべく鳴らないように、鈴の部分は布で覆ったはずだが、まだ微かに聞こえるくらいまで鳴り続けているらしい。しかし特に周りの人が気にしている様子はないため、このままの状態で登山をすることにした。

 登山口に着くと、おもむろに道の先を見上げた。木々の間からはか細い光が漏れている。いつもはむしろ眩しいくらいだったはずなのに、いったいどうしたことだろうか。天気があまり良くないのもあるが、それでもどことなく暗かった。首を傾げつつも、奈美は波木山へと足を踏み入れる。

 だが今まで感じた様々な疑問は一瞬で吹き飛ぶ。

 山の中に入った瞬間、奈美の視界には異質なものが広がったのだ。

 赤い糸のようなものが一面、至る所に飛び出していた。あるところでは、その糸の量が半端ではなく、もはや布と言ってもいいかもしれない。触ろうとするが、空を切ってしまい、何の感触も残らなかった。

「奈美、何しているのよ。早く進みなさいよ」

 少し茶色に染めた長い髪を結んでいる由宇が、呆然と立ち尽くしていた奈美に進むよう促す。いつもと話している調子が変わらない彼女に、奈美は目を丸くした。

「え、見えないの? この奇妙な空間を」

「何を言っているのよ。毎年登っている山の風景と同じじゃない。早く歩きなよ。後ろが詰まっているから」

「わ、わかった」

 由宇に突かれながら、ぞろぞろと続く集団の後ろに付き、不慣れな土の上を歩き始めた。だがそれ以上に衝撃的なことであったため、そんなことを気にする余裕はない。

 視界に広がるものは何かの見間違いだと思い、何度か目を擦ったり、まばたきをしたりして、改めて見てみたが、変わらず赤い糸は蔓延していた。

 奈美は少し前を歩いている由宇を覗き見た。機嫌がいいのか、ほのかに笑みを浮かべて、隣にいる後輩と話をしている。この明らかにおかしい様子が見えていないのか。

 顔が青ざめつつも、奈美は視線を先に進んでいる集団へと移した。だが、すぐに逸らしてしまう。

 一面赤い糸。異質すぎる空間。

 一応、確認のために、言葉を選びながら、周りの人に何か奇妙な光景が広がっていないかと尋ねる。しかし奈美の心の叫びに反して、誰もが首を傾げていた。

 何が何だか分からなく、気分が悪くなりそうだ。引き返したいと思ったが、歩き始めてしまった今では、それは難しいだろう。

 最低限の防衛策として、なるべく視線を下げながら、その糸を見ないようにした。

 しかし、何気なく緑が広がっている森の方を見ると、そこに赤い糸はなかったのだ。その光景に目を丸くして、再度、人々の背中がある正面を見ると、依然として糸はあった。

 眉をしかめながら、その現象に首を傾げる。だがよく見てみれば、その糸は人々の体を中心として出ており、それが他の人へと繋いでいるかのように伸ばされていた。だから人が密集している所では糸が濃くなっているのだ。

 ――この赤い糸は、人の周りにしか出ていない?

 あまりの不可思議な出来事に対して、極力冷静になって出そうと思った奈美の推測だ。その推測が正しければ、なるべく視線を人からそらし、木々や地面の方に向ければ、この状況を上手く乗り切れるはずである。

 登山に対する後ろめたさが、少しだけ前に向けられた。

 だが、そんな明るい感情はすぐにかき消される。

 小さな音が耳の中に飛び込んできた。何かが切れた、不可解な音が。

 その音の出所を見ようとすると、速度を調整しながら先頭を歩いていた秀の背中にぶち当たる。そして彼の背中を見て、目を瞬かせた。

 彼からも赤い糸が出ているが、それがぴんっと張っている状態ではなく、出ていない方の部分が重力に従って落ちているのだ。そんな糸の様子は初めて見る。

 その様子が気になり、歩調を速めて、秀に近づこうとした。一方、その秀に対し、同学年である山浦広樹も近づいている。普段は秀と一緒にくだらないことで盛り上がっている彼であるが、今は酷く機嫌が悪そうな表情で迫っていた。疑問に思いつつも、よく見れば赤い糸が垂れ下がっていることに気づく。

 広樹が隣に着くと、秀に向かって何かを話し始めた。するとみるみるうちに秀の眉間にしわが寄っていく。始めは落ち着きがあった会話であったが、次第に熱くなり、声を荒げ始めている。お互いの表情も険しくなり、緊張感が漂い始めた。

 後ろで雑談していた人たちも穏やかならぬ雰囲気に気付いて、見上げている。

 やがて、事件は起こった。

 広樹が秀の肩を軽く押す。何かの会話の最中にそれとなく出てしまったものだろう。だがそれをきっかけとして憤慨した秀が広樹の頬に向かって、拳を向けたのだ。

 その反動で、広樹は足場を崩され、その場に転んでしまう。秀は鼻息を荒く吐きながら、再び歩き始めた。しかし、すぐに起きあがった広樹によって、殴り返される。

 それをきっかけとして、二人は殴り合いを始めた。

 攻めようとすればかわし、守ろうとすれば攻められるなど、絶妙な具合での攻防が、次々と入れ替わりながら進んでいく。時に足を滑らせつつも、お互いにやめようとはしない。

 人々は固唾を呑んで、成り行きを見守っていた。だが、時間が経つにつれて、攻撃が相手に当たるようになり、二人の顔や全身にあざができ始めると、さすがに傍でおろおろしていた後輩たちが何人かでまとめて、その喧嘩を止めに入る。拳が体に当たろうが必死に制止を試みていた。

 それを眺めながら、奈美は溜息を吐いていた。

 ――こんな道が悪い中で、しかも登り途中で喧嘩を起こすなんて、何て考えが無い行動を。お願いだから、早く終わって。二人ともこの場を考えてよ!

 声に出して叫んでしまいたいと思ったが、そんな度胸はない。そっとその想いは胸に秘めておく。

 やがて、数人がかりで、どうにか二人を引き離した。離れた今でも息は荒く、鋭い目つきでお互いを睨み合う。

 冷静に物事を見ている人はその付近にはいないのか、宥め、事情すら聞こうとはしない。由宇に仲裁を頼もうとしたが、彼女は他の人と遠目から眺めているだけだ。しかたなく、肩をすくめながら奈美は近寄った。

「秀も広樹も何をしているの。ここは公共の場。他の人も大勢通っている道なのよ?」

 半ば飽きれ気味に言う。ただでさえ、奇妙なものが視界に広がって気分も辛いのに、これ以上面倒なことを起こされるのは、ごめんである。

 だが、そんな奈美の気持ちなどお構いなく、秀と広樹が次々と噛みついてきた。

「これは俺たちだけの問題だ。放って置いてくれ!」

「そうだ。秀が悪いのにどうして俺までそんな言われ用をされなければならないんだ」

「何だと、広樹?」

「ああ? 先に仕掛けてきたのはお前だろ!」

 また二人は手を出そうとしている。その姿を見て、もう勝手にしてくれと言いたくなっていた。

 しかしいつまでも立ち往生をしていては、様々な人に迷惑がかかってしまう。それを打破するために、どうすればいいのか考えこんだ。

 そんな中、秀を抑えていた手が緩む。それを好機と捉えた彼は、無理矢理拘束を解いて、いまだに動けなくされている広樹の頬に拳を一発入れた。

 その瞬間、周りから秀へ冷たい視線が集まる。それに奈美が気づいたのと同時に、秀の周りにあった赤い糸が大量に切れた。

 秀ははっと顔色を変えて周囲を見渡す。そして何か言いたそうではあったが、それを飲み込んで背を向ける。視線を背中で浴びる形となって、一人山へと駆け登り始めた。

 見る見るうちに彼の背中は小さくなっていく。かなりの距離が空いてしまった後で、秀と親しかった数名の男子部員たちは大急ぎで後を追い始めて、彼らもすぐに見えなくなってしまった。



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