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白い結婚のまま3年、夫が愛人に贈った宝石の代金は私の持参金から出ていたので、婚姻無効と全額返還を請求いたします

作者: P作
掲載日:2026/07/18

「離縁したいなら好きにしろ。だが、『家を捨てた妻』にくれてやる金は一銭もないがな」


 夜会から戻った夫・レオンハルト伯爵は、香水の匂いのする女を腕にぶら下げたまま、玄関ホールでそう言い放った。


 女の胸元では、大粒のルビーの首飾りが揺れている。


 金貨三百枚。王都の宝石商モルガン商会、先月十四日付の納品。


 ——ええ、存じておりますとも。支払いをしたのは私ですから。


「かしこまりました、旦那様」


 私は完璧な角度で一礼した。


 レオンハルトが怪訝な顔をする。泣き喚くか、縋りつくか、少なくとも顔色のひとつも変えると思っていたのだろう。残念ながら、私の顔色を変えられるのは夫の浮気ではない。帳簿の数字が合わないことだけだ。


 そして今、我が家の帳簿は——三年ぶん、盛大に合っていない。


「ひとつだけ確認させてくださいませ。旦那様は今、『くれてやる金は一銭もない』とおっしゃいましたね?」


「ああ言った。それがどうし——」


「結構ですわ。いただく必要はございませんの」


 私は微笑んだ。嫁いできて三年、おそらく初めて、心の底から。


「返していただくだけですから」


   ◇


 私、エルディナ・フォルクハイムがこの屋敷に嫁いできたのは三年前。実家は爵位こそ子爵だが、王都で三代続く商会を営む、要するに「金はあるが家格が足りない」家だった。対するアルンベルク伯爵家は「家格はあるが金がない」。両家の思惑は綺麗に噛み合い、私は持参金——金貨八千枚とともに、この屋敷の女主人となった。


 婚礼の夜、レオンハルトは寝室に現れなかった。


 翌朝、彼は言った。「勘違いするな。俺が愛しているのはお前の家の金だけだ。妻の役目は果たさなくていい。目障りだから東棟から出るな」


 貴族の政略結婚など、そんなものだと聞いていた。だから私は傷つく代わりに、東棟の自室で趣味に没頭することにした。


 帳簿づけである。


 笑わないでいただきたい。商家の娘にとって、数字は音楽だ。収入と支出がぴたりと釣り合ったときの快感は、下手な恋物語よりよほど胸が高鳴る。私は執事に頼み込み、「奥方さまのお勉強のため」という名目で、屋敷の出納記録の写しを毎月受け取っていた。三年間、一日も欠かさず。


 最初の一年で、アルンベルク家の台所事情は把握した。派手な社交、見栄えのための馬車の新調、その裏で三月も滞る使用人の給金。二年目の冬、私は自分の宝石をひとつ手放して、遅配をこっそり解消した。


「奥方さま、これは……」


「帳簿を美しく保つためよ。給金の未払いという項目は、数字として大変に見苦しいの。……ああそれから、旦那様には内緒にね。私の趣味を笑われたくないもの」


 老執事のトマスは深々と頭を下げ、それ以来、出納記録の写しに小さな註釈を添えてくれるようになった。「モルガン商会、用途不明」「グラシュー香水商、奥方さま宛にあらず」——持参金勘定の明細まで、頼みもしないのに写しに含まれるようになったのも、その頃からだ。今にして思えば、あの几帳面な老人は、私よりずっと早くすべてに気づいていた。気づいた上で、証拠が積み上がるのを、静かに待っていたのだ。


 そして三年目のある日——私も、見つけてしまった。


 モルガン商会。ルビーの首飾り一式。金貨三百枚。


 支払元、フォルクハイム持参金勘定。


 手が止まった。持参金は法の上では妻の財産だ。夫が管理はできても、妻と家のため以外に費消することは許されない。まして、愛人への贈り物になど。


 私は三年分の記録を東棟の床いっぱいに広げ、蝋燭を三本灯し、夜を徹して洗い直した。


 出てくる、出てくる。仕立て屋レナール、婦人用夜会服、金貨百二十枚。香水商グラシュー、金貨四十枚。観劇桟敷の年間契約、金貨九十枚。行き先はすべて同じ女——男爵令嬢イヴォンヌ・カステル。夫が夜会で堂々と連れ歩いている、あの香水の匂いのする女だ。


 三年間の合計、金貨二千百三十枚。


 私の持参金の、およそ四分の一。


 夜が明ける頃、私は静かに筆を置いた。怒りは、不思議となかった。あったのは、帳尻を合わせなければならないという、ほとんど職人的な使命感だけだ。


 そして私は思い出したのである。嫁入り前に読み込んだ、教会法の一節を。


 ——第十七条。婚姻の実態なきこと、すなわち夫婦が一度も褥を共にしていないことが証されたる場合、教会は婚姻を無効と宣し得る。婚姻無効の場合、持参金はその全額を妻の家に返還されるものとする。


 白い結婚。世間ではそれを妻の恥だと言う。


 とんでもない。これは切り札だ。


   ◇


 王都の法務院は、羊皮紙とインクの匂いがした。良い匂いだ。


「婚姻無効の申し立てを」


 窓口でそう告げると、応対に出たのは法務官の制服を着た長身の男だった。歳は三十前後。眼鏡の奥の目は冬の湖のように愛想がなく、「またか」と言いたげな溜め息を隠しもしない。


「ギデオン・マルローです。……先に申し上げておきますが、奥方。婚姻無効の申し立ての九割は、証拠不十分で却下されます。夫の浮気に腹を立てた、というだけでは——」


「腹は立てておりませんわ」


 私は持参した鞄から、紐で綴じた書類の束を三つ、机に置いた。


「一つ目。婚姻から三年間、夫婦の寝室が別であったことを示す屋敷の見取り図と、使用人十二名の署名入り証言書。寝具係の証言もございます。旦那様の寝室の敷布から、私の髪が一本たりとも出たことはないそうです」


 ギデオン様の眉が、僅かに動いた。


「二つ目。三年分の出納記録の写し。持参金勘定から支出された金貨二千百三十枚について、日付、金額、納品先、品目をすべて一覧にしてございます。三つ目は各商会の納品記録との突合表。ご確認くださいませ」


 沈黙が落ちた。ギデオン様は一枚、また一枚と書類をめくり、やがて眼鏡を外して私を見た。


「……完璧な帳簿だ」


「まあ。法務院の方に褒められるなんて」


「褒めています。ここまで揃えて来る依頼人は、十年勤めて初めてです」彼はもう一度書類に目を落とし、それから、ごく僅かに口の端を上げた。「奥方。ひとつ足りないものがあります。愛人側の受領記録——貰った側が『確かに受け取った』と認める証拠があれば、横領の立証は完璧になる」


「あら」


 私は鞄から最後の一枚を取り出した。


「イヴォンヌ・カステル男爵令嬢は、贈られた品をすべて宝飾ギルドの保険台帳に登録しておいででした。『アルンベルク伯爵より贈与』と、ご自分の署名入りで。……盗まれたときに補償を受けるためでしょうね。堅実な方ですこと」


 ギデオン様は数秒固まり、それから、こらえきれなかったように短く笑った。無愛想な冬の湖に、初めて陽が差した。


「受理します。査問は二週間後。——奥方、貴女は」


「はい?」


「いえ。……当日は、私が立ち会います」


   ◇


 査問までの二週間、ギデオン様は三度、伯爵邸の東棟を訪れた。証拠の原本確認のため、というのが表向きの理由である。


 一度目、彼は私の帳簿の綴じ方を見て「王立文書院の規格より丁寧だ」と言った。


 二度目、彼は突合表の誤差——金貨二枚ぶんの端数を指摘した。私が「両替時の手数料ですわ。付録の三頁目に」と返すと、彼は本当に悔しそうな顔をした。法務官というのは、存外わかりやすい生き物である。


 その日は雨で、帰りの馬車を待つ間、私たちは応接間で茶を飲んだ。会話の種などないと思っていたのに、気づけば一刻が過ぎていた。彼は王立文書院の綴じ紐の規格改定に十年反対し続けている話をし、私は父の商会で十二歳のとき初めて任された帳場の話をした。世間ではきっと、これ以上退屈な男女の会話もないだろう。


「……不思議な方だ」帰り際、彼はぽつりと言った。「貴女は三年間、あの屋敷で。……お辛くは、なかったのですか」


「あら。辛いという項目は、記帳しない主義ですの」


 私は笑ってみせたけれど、ギデオン様は笑わなかった。ただ、雨音の中で少しだけ目を伏せて、「では、これからは記帳する価値のある日ばかりになるといい」と言った。


 馬車が出たあと、私はその一言を、うっかり三度も読み返すように反芻してしまった。帳簿なら一度で頭に入るのに、おかしなこともあるものだ。


 三度目、帰り際に彼は玄関先で足を止め、妙に改まって訊いた。


「奥方は……査問が終わったら、どうなさるのです」


「実家に戻りますわ。商会の帳場が万年人手不足ですの。父は昔から、私を嫁に出したことを世界で二番目に後悔しておりますし」


「二番目? 一番は」


「私に算術を教えたこと、だそうです」


 ギデオン様は口元を押さえ、肩を震わせた。この人は笑うのを我慢するとき、眼鏡の位置を直す癖がある。二週間で、私はそんなことばかり覚えてしまった。


 帳簿の外の数字を数えるのは、初めてだった。彼が来た回数、三回。眼鏡を直した回数、七回。私がその夜、理由もなく綴じ紐の色を選び直した回数——記録しないことにする。


   ◇


 査問の日。教会の広間には、司教様、法務院の立会人としてギデオン様、両家の親族、そして当のレオンハルトとイヴォンヌ嬢が顔を揃えていた。


「茶番だ」開口一番、レオンハルトは吐き捨てた。「妻が嫉妬で騒いでいるだけのこと。司教様、お忙しい中お集まりの皆様、誠に申し訳——」


「では始めましょう」


 私は立ち上がり、一礼して、一枚目を読み上げた。


「使用人十二名の証言書。婚姻より三年、夫妻の寝室は一度たりとも共にされておりません」


「そ、それは……妻の体が弱く」


「まあ。私、乗馬で朝駆けするのが日課ですけれど」


 広間に小さな笑いが漏れた。レオンハルトは首筋を赤くし、今度は矛先を変える。


「だ、大体、使用人の証言など当てになるものか! 主人を裏切る雇い人の言葉を、教会は信じるのか!」


 そのとき、証言席の老執事トマスが、ゆっくりと立ち上がった。


「僭越ながら。私はアルンベルク家に四十年仕えてまいりました。先代さまの代から、一度たりとて偽りを申したことはございません」トマスは背筋を伸ばし、静かに続けた。「この三年、屋敷の者が冬を越せたのは、旦那様のお蔭ではございません。……私どもは、裏切ってなどおりません。仕えるべき方に、仕えているだけでございます」


 レオンハルトは、何かを言いかけて、言えなかった。給金の遅配のことなど、彼は知りもしないのだ。自分の家の帳簿を、一度も開いたことがないのだから。


 私は二枚目を出す。


「持参金勘定よりの支出一覧。三年間で金貨二千百三十枚。納品先はすべて、そちらにおられるカステル男爵令嬢です」


「で、伯爵家の金をどう使おうと当主の自由——」


「三枚目。持参金は教会法の定めにより妻の財産です。あわせて、婚礼翌朝の旦那様のお言葉——『愛しているのはお前の家の金だけだ。妻の役目は果たさなくていい』——を、当時廊下に控えていた執事トマスの証言として添えてございます。三年間の白い結婚が偶然でも不和の結果でもなく、当初からの旦那様のご意思であったこと。第十七条の立証を補強するものですわ」


「い、言っていない! そんな言葉、誰が証明——」


「では、四枚目」私は最後の一枚を、司教様の前へ滑らせた。「カステル男爵令嬢ご本人の署名入り、宝飾ギルド保険台帳の写し。『アルンベルク伯爵より贈与』。受け取った側が、贈与の事実を認めておいでです」


 レオンハルトの顔から、音を立てて血の気が引いた。彼は勢いよくイヴォンヌ嬢を振り返る。


「イヴォンヌ、お前、なぜそんなものに署名を……!」


「え、だって、失くしたら弁償してもらえないじゃない」


 イヴォンヌ嬢は心底不思議そうに言った。ある意味、あの女は私の同類なのかもしれない。数字に、とても誠実だ。


「い、妻が! 妻が承諾していたのだ、そうだ、贈り物のことは妻も知って——」


「まあ。ではなぜ先日、私に『くれてやる金は一銭もない』と? 妻が承諾した支出なら、堂々とお認めになればよろしいのに」


「ぐ……っ」


 司教様が重々しく咳払いをし、羊皮紙に向かった。


「教会法第十七条に基づき、当婚姻を無効と宣する。持参金金貨八千枚は全額、フォルクハイム家に返還されるべきものとする。うち費消済みの二千百三十枚については、レオンハルト・アルンベルク卿が私財より補填し、返還に充てること。……卿、法務院より横領についての調べもあると心得よ」


 どよめく親族。真っ白になる元・夫。その隣で、イヴォンヌ嬢がそっと席を立つのが見えた。弁済義務を負った男に用はない、ということだろう。後日聞いた話では、彼女は台帳の宝石をすべて売り払い、隣国へ渡ったそうだ。最後まで、数字に誠実な方だった。


「待て、エルディナ……待ってくれ! 二千百三十枚など、今の伯爵家に払えるはずが……そうだ、話し合おう。夫婦なのだから」


「元、をお付けくださいませ。たった今、無効になりましたでしょう」


「や、やり直せる! 俺が悪かった、これからは妻として、ちゃんと——」


「旦那様」


 私は初めて、彼の目をまっすぐに見た。三年前、婚礼の朝以来だ。


「三年前のあの朝、あなたは『愛しているのはお前の家の金だけだ』とおっしゃいました。私、あの言葉だけは感謝しておりますの。お蔭さまで期待というものを一度もせずに済みましたし——何より、証言として大変に有効でしたから。先ほど司教様が頷かれたの、ご覧になりました?」


 レオンハルトが、崩れるように椅子へ落ちた。聞けば彼は後日、親族会議で爵位継承権を甥に譲らされ、領地の外れの離れで「支出には親族会の承認を要する」生活を送ることになったという。帳簿に縛られて生きるのだ。彼が生涯、一度も開かなかったあの帳簿に。


「以上でございます」


 私は書類を揃え、とん、と机の上で角を合わせた。


「ああ——旦那様。利息もお忘れなく」


   ◇


 それから、ひと月。


 返還された持参金の、最後の一枚まで検算を終えた夜のことだ。


 燭台ひとつの部屋で、私は三年分の出納記録の写しを膝に載せていた。もう用済みの紙の束だ。暖炉にくべてしまえばいい。そう思って立ち上がり——くべられなかった。


 代わりに、頬を何かがひとつ伝って、写しの余白に小さな染みを作った。


 ……おかしい。悲しくはない。悔しくもない。怒ってさえいない。全部、帳尻は合ったはずなのに。この一滴だけ、どうしても——勘定科目が、見つからない。


 私は染みのついた一枚をそっと束に戻し、その夜は、何も記帳せずに眠った。


 翌朝から、実家に戻る荷造りを始めた。三年間で増えた荷物は、ほとんどが帳簿だ。我ながら、色気のない嫁入り道具の逆戻りである。


 トマスをはじめ、使用人の半数はフォルクハイム商会が引き受けることになった。「四十年ものの執事が市場に出ることなど、まずございませんよ」と父に耳打ちしたら、即決だった。父は昔から、掘り出し物に目がない。


「奥方さま。……いえ、お嬢さま」トマスは荷馬車の前で、深く、長く頭を下げた。「この老骨の最後のご奉公、どうか帳場の隅で」


「隅だなんて。あなたには給金台帳をお任せするつもりよ。——今度こそ、一日も遅配のない台帳を」


 老執事の目元が、少しだけ光った気がした。見なかったことにして、私は最後の帳簿を革紐で括る。


「エルディナ・フォルクハイム殿」


 振り返ると、玄関先にギデオン様が立っていた。法務官の制服のまま、なぜか少し、居心地が悪そうに。


「婚姻無効の書類、本日すべて受理・完了しました。つきましては——最後にご確認いただきたい書類が一枚」


「あら、まだ何か不備が?」


「不備しかありません。何しろまだ、署名が一つも入っていない」


 差し出された羊皮紙を受け取り、私は目を走らせ——止まった。


 婚姻契約書、だった。夫の欄に、ギデオン・マルローの名だけが先に記されている。


「……法務官様。これは」


「十年、契約書ばかり見て生きてきました。破られる約束と、破られない約束の違いなら、誰よりも知っているつもりです」彼は眼鏡の奥の目を、まっすぐ私に向けた。「貴女とする契約なら、生涯かけて履行したい。条項は白紙です。貴女が、好きに書き込んでいい」


 まあ。


 まあ、まあ、まあ。


 私は羊皮紙を裏返し、表に返し、透かして見て、それから観念して笑った。頬が熱いのを、帳簿のせいにはできそうもない。


「……では、第一条」


 私はペンを受け取り、白紙の条項欄に、震えないよう気をつけながら書き込んだ。


 *第一条。寝室は、同じにすること。*


 書き終えた瞬間、あの夜の一滴を、どの科目に付ければよかったのか——ようやく、わかった気がした。


 ギデオン様が息を呑み、それから、あの冬の湖が春になるみたいに笑うので——第二条以降は、当分白紙のままでいいと思った。


 帳尻なら、これから二人で、いくらでも合わせていけるのだから。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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