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美馬川芳彦の妻と孫を思うほっこり飯  作者: 修羅観音


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美馬川芳彦の妻と孫を思うほっこり飯

京都の地でIT企業を興し、30年以上にわたって守り続けてきた男、美馬川芳彦。


現在は社長の座を息子に譲り、自らは会長として、今なお第一線で辣腕を振るう経営者だ。

仕事は順風満帆、彼が築き上げた会社は、近年では「ホワイト企業」としての認定も受け、世間からは成功した経営者の模範として広く知られている。

私生活でも孫に恵まれ、傍目には誰もが羨むような幸福な晩年を謳歌しているように見えていた。


ただ、ここ最近、一つだけ懸念事項があった。

就職活動が思うようにいっていない孫の芳人と、少しばかり気まずい空気が流れていることだ。


だが、それも「内定さえ決まれば元通りになるだろう」と、芳彦は軽く考えていた。

自分の歩んできた道こそが正解であり、孫もいずれは理解するはずだという、確固たる自負があったからだ。



そんなある日の夜。

自宅の食卓で、妻の芳子が作ってくれた肉じゃがを口にした瞬間、芳彦は思わず眉をひそめた。


「……っ!」


舌の上を走る、予期せぬ激痛。

喉を焼くような辛さが、出汁の旨味を完全に塗りつぶしていく。

芳子が塩加減を間違えたのか、あるいは調味料をこぼしたのか。


不可解に思いながら咀嚼していると、口の中に何やら硬い異物を感じた。

芳彦がそれをつまみ出してみると、そこには真っ赤な鷹の爪が、まるごと一本身を潜めていた。


芳彦は箸を止め、向かい側に座る妻をそっと伺った。

芳子は、不機嫌な時や夫を嗜める時、料理の中にこっそりと刺激的なスパイスを忍ばせる癖がある。


「芳子、ワシはなんか、怒られるような事したかいな?」

芳彦は当惑しながら、首をかしげて尋ねた。


芳子は表情を一つ変えず、静かにお茶を啜った。

「私には、何もしてはりませんよ。私には、ね」


含みのある言い方に、芳彦は心当たりを探った。

「……もしかして、こないだ芳人を諭した事、怒っとんのか?」


「あれは諭したとは言いません。芳彦さんが、持論をぶつけただけです」

芳子の声は冷たく、それでいてどこか突き放すような響きを帯びていた。


「ワシは間違った事は何も言うとらんで。社会の厳しさを教えるんは親族の役目や」

芳彦が毅然とした態度で反論すると、芳子は箸を置き、夫の目を真っ直ぐに見つめた。


「正論やったかもしれませんね。そして、正しいとしたら、正しいだけです」

その言葉は、どんな罵倒よりも深く、芳彦の胸に突き刺さった。


「正しい事を教えたる事は、何も悪い事やないやろに……」

芳彦がなおも食い下がったが、芳子はそれ以上何も言わなかった。


「ええ、悪い事はありませんよ」

返ってきたのは、感情の読み取れない短い返答だけだった。


カチリ、と箸が器に当たる音が、妙に大きく響く。

夫婦の間に横たわる、何とも言えないぎくしゃくとした沈黙。


芳彦は、残りの肉じゃがに箸をつける気になれず、冷めかけた茶で喉の奥のヒリつきを流し込んだ。

外では夜風が木々を揺らし、窓ガラスを小さく叩いている。


成功者として歩んできたはずの芳彦の心に、正体不明の小さなささくれが、チクリと生まれた瞬間だった。


---

土曜日の昼下がり。

縁側から差し込む柔らかな日差しが、居間の畳を白く照らしていた。


昼食を終えた芳彦は、芳子が淹れてくれた熱い茶を啜りながら、ふと思い出したように口を開いた。

「そういえば、最近の芳人はどんな感じや。就活はうまくいっとるんかいな。めっきり、顔出さんようになっとるし」


湯呑みをテーブルに置くコトリという音が、静かな部屋に響く。

芳子は茶柱が立つのをじっと見つめながら、穏やかな声で答えた。

「そうですねえ。最近、めっきり寄り付かなくなってしまいましたねえ」


「なんや、説教されたくらいで、不貞腐れとるんかいな」

芳彦は鼻で笑い、どこか得意げな表情を浮かべた。


「社会では、ちょっとしたことで折れてたら、話にならんのや。ワシは学生の頃は深夜までアルバイトしながら勉強しとったし、そこで人間性も磨いたもんや」

彼は自らの若かりし頃の苦労を勲章のように語り、胸を張る。


「そういう経験を活かして、30年以上も続くIT企業を経営し続けられてるんや。社員にも、技術も大事やがそれより人間性が大事やって教育してる」

芳彦の言葉には、長年の成功に裏打ちされた揺るぎない自信が漲っていた。

「芳人も、そういった人間性を磨いて、根性つけたらなあかんな」


ハハハ、と快活に笑う芳彦だったが、芳子の視線は冷ややかだった。

「芳彦さんは、きちんと芳人の事を見たうえで、言うてはりますの?」


「よう観てようわかっとるから、今の芳人はちょっと根性つけなあかんなって、わかっとるんよ」

芳彦は妻の問いを遮るように、断定的な口調で返した。


「ワシかて孫は可愛いし、孫が可愛いのはわかるけどな、厳しくすべきところは厳しく育てんとな。芳子はちょっと、芳人に甘いで」

自らの正義を疑わない夫の姿に、芳子は小さく息を吐いた。


「厳しさも時には大切です。でもね……」

芳子はそこまで言いかけて、言葉を飲み込んだ。


夫の瞳には、かつての自分を支えた「強さ」が、今は周囲を拒絶する「壁」となって硬くそびえ立っているのが見えた。

「今の芳彦さんに、上手く伝える方法を、私には無さそうです」


芳子はそう言い残すと、空になった湯呑みを盆に載せ、音もなく席を立った。

後に残された芳彦は、妻の言葉の真意を測りかね、ただ首をかしげた。


外では、乾いた風が庭の木々をざわつかせ、何かが崩れ始める予兆のように、不穏な音を立てていた。


---

その日の夕方のことだった。

プルルルル! と鋭い電子音を立てて、芳彦の携帯電話が鳴り響いた。

画面に表示されたのは、スーパーの店員を名乗る見知らぬ番号だった。


「芳子が……立ち眩みで転倒して、骨折を!?」


受話器の向こうから告げられた衝撃的な知らせに、仕事を終えたばかりの芳彦は血の気が引くのを感じた。

彼はすぐさまコートを掴み、運転手に急がせて病院へと駆け込んだ。


 病室の白いベッドに横たわる妻の姿を見つけ、芳彦は息を切らしながら駆け寄った。


「芳子! 大丈夫なのか!? 一体どうしたんや!」

心配で顔を歪ませる芳彦に対し、芳子は左手に包帯を巻きながらも、いつものように穏やかに微笑んだ。


「平気ですよ。ただ、手首の骨を折ってしまいまして。今日と明日は、念の為に検査入院して下さいって、お医者さんが言うてはりますから、家の事は頼みますね」


「ああ、任せときや。無理したらあかんで。家の事も仕事の事もええから、ゆっくり休むんや」

芳彦は力強く頷いたが、芳子は少し困ったように苦笑いを浮かべた。


「夕飯は……まあ、御自分で何とかして下さいね。早速、今晩からひもじい思いさせますけど」

「そんなん、気にせんでええよ。ワシ一人くらい、なんとでもなるわ」

芳彦はそう答えて、スーパーで芳子が買い込んでいた食材の袋を引き取り、ひとまず帰宅することにした。


 ガチャン、と鍵を開けて入った自宅は、驚くほど静まり返っていた。

芳彦はキッチンに向かい、冷蔵庫の前に立って、芳子が買った食材を袋から取り出した。


しかし、ここで彼は立ち往生することになった。

「野菜は……この下の引き出しでええんか? いや、納豆はどこや。卵はここか?」


開け放した冷蔵庫から、ピーピーと警告音が鳴り響く。

野菜一つをしまう場所すら分からず、芳彦は手に持った人参を見つめたまま固まった。


「……ワシ、家の事、もしかして芳子に任せっぱなしやったんちゃうか」


30年以上、会社を経営し、何百人という社員を動かしてきた。

それなのに、自分の家のキッチンのルールすら把握していないという事実に、今更ながらに気づかされた。


「それに、料理もからっきしやってきいひんかったし……ワシ、家事をちゃんとやってきいひんかったんやなあ」

芳彦は自嘲気味に、ふっと苦笑いを漏らした。


ホワイト企業の会長として、ワークライフバランスを説いてきた自分が、家庭という現場では全くの無能だった。

無理に自炊をしようとしても、包丁の場所すら怪しい。

彼は諦めて食材を適当な隙間に詰め込み、冷蔵庫の扉を閉めた。


 ぐう、と腹の虫が鳴った。

妻のいない家は、灯りをつけていてもどこか寒々しい。


「とりあえず、今日の夕飯はどこか食事処へ食べに行くか……」

芳彦は再び上着を羽織ると、重い静寂に包まれた家の鍵をかけ、夜の京都の街へと歩き出した。

独り身の心細さと、空腹がじわりと身に沁みる、そんな夜の始まりだった。


---

芳彦は、ふと息子夫婦の家へ行こうかと足を止めかけた。

しかし、たかだか夕飯一食のために息子たちに気を遣わせ、世話になるのは、長年会社を率いてきた経営者としてのプライドがどうしても邪魔をした。


「ワシがそんなことで、わざわざ頭を下げるわけにはいかん……」

独り言を呟き、彼は再び冷たい夜風が吹く京都の街を歩き続けた。


すると、街灯が寂しく並ぶ路地の向こうに、一人の不思議な少女が立っているのが見えた。


台形の形をした口をぽかんと開き、まん丸の目でこちらをじーっと凝視している。

黒いベレー帽に、古風な黒のセーラー服。


芳彦は、こんな夜更けに子供が一人でいることが気になり、思わず足を止めて声をかけた。

「なんや御嬢ちゃん、こんな夜遅くに外出てたらあかんがな。はよ帰り」

経営者らしい、諭すような口調だった。


すると、御嬢さんはまばたきもせず、一言こう返した。

「えらいこっちゃ」


「そや。攫われたりでもしたら、えらいこっちゃやで。世の中は物騒なんやからな」

芳彦が頷くと、御嬢さんは淡々と自己紹介を始めた。


「ウチは、えらいこっちゃ嬢とか、えらいこっちゃんって呼ばれてる、えらいこっちゃ嬢や」


「……ほな、えらいこっちゃん。はよ帰りなさい」

芳彦が促すと、えらいこっちゃ嬢は首を横に振った。

「今から食堂仕事で、えらいこっちゃ」


「これからバイトか? ワシも学生の頃は、深夜までバイトして勉強代を稼いだもんや。苦労は若いうちにしとくもんやからな。ほな、頑張ってきいや」

自分の過去の努力と重ね合わせ、芳彦は満足げに目を細めて笑った。


だが、えらいこっちゃ嬢はその場を動こうとしない。

「夕飯食べにおいない。夕飯抜きは、えらいこっちゃ」


「……」

図星を突かれ、芳彦は言葉に詰まった。

確かに、今夜の夕飯をどこで済ませるか、何を食べたいのかすら決まっていない。


「特に行く店も決めてなかったからな。ほな、御嬢ちゃんの店で食べよかな」

軽い気持ちでそう答えた瞬間だった。


えらいこっちゃ嬢は、芳彦のごつごつとした大きな手をぎゅっと握りしめた。

「えらいこっちゃ御一名!」

その小さな掌は驚くほど力強く、そして温かかった。


「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」

呪文のように呟きながら、少女は迷いのない足取りで、芳彦の手を引いて闇の向こうへと歩き出した。

芳彦は戸惑いながらも、その不思議な熱量に導かれるまま、夜の静寂しじまに包まれた見知らぬ路地の奥へと足を踏み入れていった。


---

えらいこっちゃ嬢の力強い足取りに引きずられるようにして歩き続けると、やがて霧の向こう側に一軒の建物が姿を現した。


「摩訶不思議食堂」


重厚な一枚板の看板に、魂を揺さぶるような力強い墨文字が躍っている。

建物は伝統的な京町家を思わせる木造の美しい佇まいでありながら、どこか洗練された最新のデザイン性をも兼ね備えた、えも言われぬ威厳を放っていた。


えらいこっちゃ嬢は迷いなく木製の引き戸をガラガラと開け放つ。

「えらいこっちゃ御一名!」

高らかな宣言と共に、芳彦は促されるままカウンター席へと腰を下ろした。


すると、カウンターの奥からにゅっと、穏やかな微笑みを湛えたお地蔵さんが顔を出した。

「いらっしゃいませ。私はここの店長をさせて頂いております。皆さんからは、地蔵店長と呼んで頂いております」

地蔵店長は、拝みたくなるような柔和な表情を崩さず、深々と頭を下げた。


芳彦はその浮世離れした姿に一瞬気圧されたが、持ち前の経営者らしい落ち着きを取り戻して挨拶を返した。

「どうも、今晩は。……それで、メニューはどこにありますかな?」


「メニューは御座いません。今、特に食べたいものは御座いませんか?」

地蔵店長は、すべてを見透かすような、けれど温かな眼差しで問いかけた。


芳彦は、こだわり抜いた創作料理の店なのかと思い至り、ふと脳裏を掠めた家庭の味を口にした。

「ああ、お任せの店でしたか……。それじゃあ、その、肉じゃがとかって出来ますかいな?」

妻の芳子が作った激辛の肉じゃがを思い出し、喉の奥が微かに疼いた。


本当は、あんな刺激物ではなく、穏やかで優しい家庭の味を胃に納めたかったのだ。


「畏まりました。では、御用意致します」

地蔵店長は恭しく一礼して厨房の奥へ引っ込んだ。


入れ替わるようにして、一人の女性がひょっこりと姿を現す。

艶やかな黒髪に、頭頂部にはぴんと立った本物の猫耳。


割烹着を身に纏った彼女は、言葉を発することなく、ジーっと芳彦を観察するように眺めた。

その棒のように細い目が、芳彦のこれまでの人生の履歴すら読み取ろうとしているかのような、奇妙な圧を放っている。


「おいでやす、おこしやす。私は猫子言います。ほな、肉じゃがを作らせて貰いますさかい、少々お待ちくださいませ」

猫子はにこやかに、京都特有の柔らかなイントネーションで告げると、音もなく厨房へと消えていった。


あまりに不思議な空間に圧倒されていた芳彦の前に、いつの間にか作務衣に割烹着を着込んだえらいこっちゃ嬢が立ちふさがる。

彼女はシュッ、と手際よく白い布を差し出した。

「御絞りで手を拭いて清潔にせんと、えらいこっちゃ!」


「ああ、有難うさん」

芳彦は差し出された温かな御絞りを受け取った。


立ち上る清涼な蒸気が、家を飛び出して以来、強張っていた顔の筋肉を僅かに解きほぐしていく。

丁寧に指先から手のひらまでを拭いながら、芳彦はカウンターの向こう側から聞こえてくる、野菜を刻む小気味よい音に耳を澄ませた。


---

暫くして、厨房から漂う甘辛い醤油の香りと共に、熱々の肉じゃがが運ばれてきた。


えらいこっちゃ嬢がお盆を慎重に運び、芳彦の目の前にそっと置く。

「熱々を急いで食べたら、舌がえらいこっちゃ!」

彼女は台形の口をすぼめ、芳彦の顔を覗き込むようにして注意を促した。


芳彦は思わず顔を綻ばせ、温かな湯気を掌で受け止める。

「有難う、気を付けて食べるさかいな」


芳彦は箸を取り、丁寧に面取りされたジャガイモを一つ掬い上げた。

ホクホクとした食感の後に、肉の旨味と出汁の優しさが口いっぱいに広がる。

柔らかな肉、程よく火の通った人参。

栄養価まで計算し尽くされたようなその味付けは、驚くほどに妻・芳子が作る肉じゃがと瓜二つだった。


「芳子も、この店に来てたりしてな……」

芳彦は、ふとそんな空想を抱きながら、懐かしい味を噛み締めていた。


しかし、その安らぎは突如として破られた。


「……っ!?」


奥歯で何かを噛み潰した瞬間、舌の上を猛烈な刺激が走り抜けた。

喉の奥を焼くような、あのよく知る非常に辛い感触。


不審に思った芳彦が口の中からそれを取り出してみると、指先には真っ赤な「鷹の爪」が乗っていた。

芳子が何かを仕掛けた時、あるいは自分を厳しく叱る時にだけ忍ばせる、あの沈黙のメッセージだ。


芳彦は驚きで目を見開き、カウンターの奥に立つ地蔵店長を見つめた。

「……あの、ワシと同じくらいの年の女性が、常連で来てませんか?」


地蔵店長は、拝みたくなるような慈愛に満ちた笑顔を浮かべたまま、静かに首を横に振った。

「いえ、お会いした事はありませんねえ」


「そ、そうでしたか……。でも、この味、そして何よりも、この鷹の爪……」

偶然にしては出来すぎている。

芳彦は戸惑いながら、皿の隅に置いた赤い実を見つめ直した。


地蔵店長は、まるですべてを知っているかのように、穏やかな声で解説を加えた。

「鷹の爪を入れるのは、塩分控えめにしつつも、辛味を出すための、いわば隠し味的な使い方をしております」

ニコニコと微笑む店長に対し、芳彦はなおも釈然としない表情を浮かべる。


すると、地蔵店長はさらに含みのある言葉を続けた。

「後は、そうですねえ……。鷹の爪を、あえてそのまま入れてお出しするという事は、何かしらのメッセージとして入れる方も、いらっしゃるかもしれませんねえ」


「え?」

芳彦は、持っていた箸を止めて絶句した。


「メッセージ」という言葉が、昨夜の妻とのぎくしゃくした会話と、そして自分が孫に放った正論という名の凶器を、鮮烈に繋ぎ合わせていく。

この肉じゃがを作ったのは猫子だが、そこにはまるで妻の意志が宿っているかのような、奇妙な符号があった。

芳彦の背中に、冷や汗がじわりと滲み出した。


---

芳彦は、皿の隅に置いた赤い実を見つめ、苦笑いを浮かべながら目を細めた。

「肉じゃがに忍ばせる鷹の爪……ワシは、この鷹の爪の不意打ちを喰らう事がありましてな」


経営者としての威厳は鳴りを潜め、そこには一人の困惑した夫の顔があった。

「それは、決まってワシが何かやらかしたり、妻を怒らせたり、機嫌を損ねたりした時なんですよ」


芳彦は残りの肉じゃがを一口ずつ、噛みしめるように食べ終えた。

えらいこっちゃ嬢が絶妙なタイミングで差し出した温かな茶を受け取り、ふう、と息を吐いてから一口飲む。


湯呑みをカウンターに置くと、その陶器の触感を確認するように指先を滑らせた。

「ワシは、今回は何をしでかしたのか、さっぱりわからんのですわ。今までは、どうしてもわからんかったら、最後は教えてくれるんやけどな。今はちょっと妻が怪我してしもうて入院中でして、聞く機会を逃してしまいましてな」


芳彦の独白は、静かな店内の空気に溶けていく。

「多分、孫に説教した事が関係してるんやとは思うんやけど……間違った事はしてへんかったし、間違ったことは言うてへんかったし、今回も何があかんかったんか、まだわからん状態なんですわ」


彼は自分に言い聞かせるように、言葉を継いだ。

「うちの孫、芳人って言うんですけどね。就活で行き詰ってて、弱音吐いて逃げ腰やったから、根性つけたったんやけど……そりゃまあ、厳しい事を言うてるかもわかりませんけどな、社会に出たらもっと厳しいでっしゃろ?」


芳彦の語り口には、長年荒波を乗り越えてきた自負が滲んでいた。

「そやから、今の内からそんなんでどないすんねんって、しっかりと教育したんやけど……それでへそ曲げたみたいで。今、孫とも会えてへんで、そんな感じで妻ともその事が原因やと思うんですけど、ぎくしゃくしてしもてて」

地蔵店長は、そのすべてを包み込むような笑顔のまま、一言も発さずに聞き入っている。


芳彦は、ふと我に返ったように短く笑った。

「ははは、いや、すんませんな。家庭の問題を他人様に言うても、しゃあないですわな」


自嘲気味に頭を掻く彼を見て、傍らにいたえらいこっちゃ嬢が、これまでにない真剣な顔で口を開いた。

「えらいこっちゃ」


「そやな。今の夫婦間と孫との関係は、えらいこっちゃやな」

芳彦が相槌を打つと、えらいこっちゃ嬢は勢いよく両手を腰に当て、芳彦を真っ向から指差した。


「鷹の爪が全く効かん鈍感さが、ほんにえらいこっちゃ!」

その台形の口から飛び出した言葉は、芳彦の心に、鷹の爪の辛さよりも鋭く突き刺さった。



---


「え……?」

芳彦は、あまりに意外な指摘を突きつけられ、思わず呆けたような声を漏らした。


カウンターの奥で、猫子が棒のような細い目をさらに細め、諭すような柔らかな笑みを浮かべて語りかける。

「塩分控えめにしながら、程よい辛味も味わえる。それは奥さんの、芳彦さんのお体を労わるお心遣いやったんです。……お気づきではありませんでしたか?」


「高血圧予防にもなるし、塩分控えめでも味を楽しめる工夫……。そんな意味があったというのは、今日初めてここで聞いて知りましたわ……」

芳彦は、自分が皿の隅に放り出した赤い実をまじまじと見つめた。


それは単なる「不意打ちの攻撃」ではなく、自分を支える妻の、何十年にもわたる献身の形だったのだ。

「ああ、そうか。妻のそういう気遣いに気づく事無く、ただ漫然と食べていたのは、確かに鈍感やったな。えらいこっちゃんの言う通りや」

芳彦はきまり悪そうに、ごつごつした手で白髪混じりの頭を掻いた。


「でも……それも鷹の爪を入れる一つの理由やろうけど、ほな、芳子が未だ不機嫌なんは、何でやろ?」

芳彦は再び腕組みをし、眉間に深い皺を刻んで考え込んだ。


すると、隣で身を乗り出していたえらいこっちゃ嬢が、痺れを切らしたように言い放った。

「塩分控えめ作戦も大事やけど、もっと大事な事に気づかんのが、最早えらいこっちゃ!」


「え?」

芳彦が再び驚きに目を丸くすると、地蔵店長が静かに、波一つない水面のような笑顔で問いを投げかけた。

「先程、お孫さんの芳人さんを『教育』されたという話でしたが……その時、芳人さんはどのように反応されましたか?」


「あいつは、そのまま泣きながら外に飛び出して行きましたんや」

芳彦は、あの日の孫の弱々しい姿を思い出し、吐き捨てるように言葉を続けた。


「まあ、就活で連敗続きで気持ちが弱ってたんはわからんでもない。けど、実社会ではそんなんじゃ通用せえへんのです。そんなんでいちいち弱っとったら、仕事にならんで」

自分の正論に疑いを持たない芳彦の言葉は、静かな店内に硬く響いた。


その響きを飲み込むように、地蔵店長は穏やかな調子を変えずに提案した。

「デザートは、御所望でしょうか? デザートと言っても、甘味、和の食ではありますが」


「え? ああ、頂きます。口の中をさっぱりさせたいですしな」

芳彦が頷くと、地蔵店長は厨房へ向かって、凛とした声をかけた。

「畏まりました。猫子さん、それでは、善哉を2種類、お願いしますね」


「畏まりました。それでは少々お待ちくださいまし」

猫子はにこやかに一礼すると、音もなく厨房へと消えていった。


カチャカチャ、という調理器具の触れ合う繊細な音が、カウンター越しに心地よく響いてくる。

二種類の善哉。それが何を意味するのか、芳彦にはまだ知る由もなかった。


---


カタッ、とお盆が木のカウンターに置かれる心地よい音が響く。

二種類の善哉ぜんざいを丁寧に乗せたえらいこっちゃ嬢が、真剣な面持ちで芳彦の前に器を並べた。


「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ。こっちは優しさ、こっちは厳しさ。どっちも逃さんと食べてや、えらいこっちゃ」

芳彦は「有難う」と短く返し、まずは一つ目の器を手に取った。


木のスプーンで掬い上げた小豆は、見るからにふっくらと艶やかだ。

口に運べば、ふわぁ……と優しい甘みが広がり、小豆は舌の上でホロリとほどけていく。


「……旨いな。これは、まさに芳子の味や。あいつが芳人によく作ってやってた善哉と同じ、芯まで解けるような温かさがある」

芳彦は目を細め、かつてリビングで笑い合っていた妻と孫の姿を思い出した。


「やっぱり芳子は、この店の常連やったんちゃうやろか。この味、芳子の味や……」

懐かしさに胸を熱くしながら、芳彦はもう一つの器へと手を伸ばした。


ところが、二つ目の善哉を口にした瞬間、芳彦の眉が微かに動いた。

見た目は同じように美しい小豆なのだが、噛み締めた瞬間に「グニッ」とした想定外の抵抗感がある。


食べられないほどではない。味もしっかりと甘い。

だが、一粒一粒の芯が頑固に硬く、歯を押し返してくるような質感だった。


「……? どちらも美味いし、甘さも同じや。けど、こっちは小豆の硬さが全然ちゃいますな。歯の悪い人やったら、ちょっと厳しいかもしれん」

芳彦が不思議そうに器を見つめていると、厨房から猫子がひょっこりと顔を出し、棒のような細い目をにこやかに細めた。


「小豆が柔らかい方は、芯までじっくり柔らかくなるまで煮込んでから、最後に砂糖を入れたんですえ」

猫子は割烹着の袖を軽くまくり、丁寧に解説を始めた。


「一方の硬い方は、小豆が柔らかくなる前に、早う味をつけようと思って砂糖をドバッと投入したんです。そうすると、砂糖の強い脱水作用で小豆の水分が抜けてしもうて、それ以上どうしても柔らかくならんようになる。これを『煮え渋り』と言いますねん」


「煮え渋り……。初めて知りましたわ。タイミング一つで、こんなに変わるもんですか」

芳彦は驚き、硬い小豆をもう一度噛み締めた。


地蔵店長は、拝みたくなるような慈愛に満ちた笑顔を崩さず、静かに言葉を添えた。

「硬い方がお好みの御客様もいらっしゃいますから、どちらも御用意させて頂いております。……ですが、芳彦さん」


店長の瞳が、一瞬だけ鋭く、それでいて深く芳彦の心を見つめた。

「あなたが『栄養』となる教え……いわゆる『教育』を、お孫さんの芳人さんに授けようとした時。彼は、どのタイミングにおられたんでしょうかねえ」


「え……?」

芳彦の手が止まった。


地蔵店長は、諭すような穏やかな口調のまま、逃げ場のない問いを投げかける。

「芳人さんが、最高の状態で教えを受け取れるまで、じっくりと温まるのを待ってから砂糖を入れられたのか。それとも、彼がまだ硬く、必死に熱に耐えている段階で、正論という名の砂糖を一気にぶつけてしまわれたのか。……だからこそ、彼は『煮え渋り』を起こして、心を硬く閉ざしてしまったのではないでしょうかねえ」


「煮え渋り……」

芳彦は、器の中の硬い小豆をじっと見つめたまま、言葉を失った。


自分は良かれと思って、正しいことを、正しいタイミングで言ったつもりだった。

だが、それは相手が受け取れる状態だったのか。


芳彦の脳裏に、泣きながら飛び出していった孫の、あの「煮え渋った」ような強張った顔が、鮮烈に焼き付いて離れなかった。


---


芳彦が「煮え渋り」という言葉の余韻に浸っていたその時、隣から激しい音を立ててえらいこっちゃ嬢が動き出した。


「まだわかっとらん! えらいこっちゃ!」

そう言い放つと、彼女は小皿に乗った1つのゆで卵を、芳彦の目の前に置いた。

「ここでわからんと、他人様の命取りよる傲慢な老害になり果てよる! えらいこっちゃ!」


「命取りよるって……御嬢ちゃん、ワシはそこまでひどい男やないよ。それに、なんで今度はゆで卵なんよ。まあ、肉じゃがと善哉だけやとまだ腹も六分目やから頂くけどな」

芳彦は苦笑いしながら、卓上のゆで卵を手に取り、コンコンとカウンターの角で殻にヒビを入れた。


「地蔵店長、流石にこの子の言うことは大げさやと思いますやろ?」


しかし、地蔵店長は拝みたくなるようなニコニコ顔を崩さず、静かに、けれど逃げ場のない口調で返した。

「いいえ。全くもって、大げさではありませんよ」


「え……?」

芳彦の手が止まった。本日何度目か分からない驚愕が、彼の顔を支配する。


「その答えは、えらいこっちゃんが出してくれたその卵がヒントです」

地蔵店長はにこやかに、教えを諭す教師のように問いかけた。

「芳彦さん、鳥の雛が卵から出るのは、どういう場面か御存じでしょうか?」


「え? そりゃまあ、親鳥が外からコツコツと突っついて、殻を割ってやるんでしょ?」

芳彦は殻を剥き進めながら答えた。バリ、バリという殻の剥がれる乾いた音が店内に響く。


「確かに、親鳥は外から殻を突っつきます。ただ、やみくもに突っついたら、雛は生まれる前に絶命します」

地蔵店長の言葉に、芳彦の背筋に冷たいものが走った。

「禅の言葉に、『啐啄同時そったくどうじ』という教えがあります」


---


啐啄同時そったくどうじ


地蔵店長は指を立てて、その意味を噛み砕くように話し始めた。


そつ」:雛が内側から殻を破ろうとして突っつく音。

たく」:親鳥が外側から殻を突っついて助けること。


「これがもし早すぎれば、未熟な雛は外気に触れて命を落とします。遅すぎても、雛は殻の中で窒息して絶命します。内側からの微かな音を聞き逃せば、命は生まれません。そして、まだその段階ではないのに、親鳥が勝手に良かれと思って外から殻を叩き壊せば、それは助けではなく『殺生』になるのです」


地蔵店長は、優しく、しかし確かな重みを持って芳彦を真っ直ぐに見つめた。

「事程左様に、教え伝える、伝え導くタイミングを誤れば、場合によっては相手の心を殺し、死に繋がることがある……。そういうことなのです」


---


芳彦の手の中で、つるりと光り輝く、真っ白なゆで卵が姿を現した。

非の打ち所のない、完璧な白。

しかし芳彦は、その美しさを愛でる余裕などなかった。


あの時。


就活に失敗し、自分を否定され、ボロボロになって「助けてほしい」という音を内側から微かに立てていたはずの芳人。

自分は親鳥として、その音をじっと待ってやっただろうか。

それとも、雛がまだ力を蓄えてもいないのに、「社会の厳しさ」という名の正論で、外から乱暴に殻を叩き壊してしまったのではないか。


芳彦が「正しい」と信じて放った言葉。

それは、まだ殻を破る準備さえできていなかった孫にとって、命を脅かすほどの暴力だったのではないか。


剥き終わった卵を見つめる芳彦の指先が、微かに、けれどはっきりと震えていた。


---


地蔵店長は、剥き出しになった真っ白なゆで卵を見つめる芳彦に、慈愛に満ちた眼差しを向けた。


「確かに、現代社会は厳しい事も多々ありましょう。それこそ、強くならねばならぬ事もありましょう」

地蔵店長は、拝みたくなるような笑顔のまま、静かに言葉を紡ぐ。


「そして、どのように強くなっていくかという方法も、どこでどのようなタイミングでレベルアップしていかれるかも、その人によりけりです。それこそ、伝え導く側は、相手を『観じる(かんじる)』事が肝要で御座います」


芳彦は、店長が発したある言葉を頭の中で反芻した。

「……教育、教える。ワシはずっとそう言うてましたけど……地蔵店長は、『伝え導く』と、仰いますな」

その言葉の重みの違いに、芳彦はハッと気付かされた表情を見せた。


すると、その様子をじっと見ていたえらいこっちゃ嬢が、ぴょんと椅子の上に飛び乗った。

「そこに気づいたんは、えらいやっちゃ!」

そう言うなり、彼女は小さな手で芳彦の白髪混じりの頭を、よしよしと優しく撫でた。


「はは……この年で頭撫でられて褒められるとはなあ……。でも、有難うな」

芳彦が照れくさそうに笑うと、えらいこっちゃ嬢はさらに言葉を畳み掛ける。


「じいちゃんは『教えたる』って傲慢! 地蔵店長は『伝えさせて頂く』って謙虚! 導く側の在り方がえらい違いに、えらいこっちゃ!」


「君は若い子やのに、核心を突いてくるなあ……。ほんまや、その通りやな」

芳彦は目を細め、自分の心の底にあった「成功者の驕り」を認めざるを得なかった。


さらに、えらいこっちゃ嬢の追及は止まらない。

「そもそも人生経験少ない若いもんにおんなじレベル求めてる時点で、えらいこっちゃな傲慢さ!」

「……うっ」


「自分の若い頃はこうやった自慢は、みっともなさすぎて、えらいこっちゃ!」

「……面目ない。仰る通りや……」


芳彦は、自分が芳人に対して「ワシの若い頃はもっと苦労した」と突き放した瞬間の、孫の絶望した顔を思い出していた。

えらいこっちゃ嬢は、そんな芳彦の様子を見て、もう一度優しく頭を撫でた。

「反省したなら、えらいやっちゃ」


地蔵店長は、二人のやり取りを微笑ましく見守りながら、最後に静かに締めくくった。

「例え肉親であっても、個体は全く違います。まずは一人一人を丁寧に『観じる』ことから始められては、如何でありましょうかねえ」


「……ええ、そうします。有難う御座います、地蔵店長、猫子さん、えらいこっちゃん」

芳彦は、深く、深く一礼した。


「もうこんな老人やけど、人生ずっと勉強やなって、改めて思いましたで」


顔を上げた芳彦の表情からは、先ほどまでの経営者としての険しさが消え去っていた。

そこにあるのは、どこか憑き物が落ちたような、慈愛に満ちた「優しいおじいちゃん」の笑顔だった。


---


芳彦は、手元に残ったつややかなゆで卵を、慈しむように一口ずつ丁寧に味わった。

ただのゆで卵のはずなのに、そこには「啐啄同時」の教えが、そして他者の心に寄り添うことの難しさと尊さが凝縮されているように感じられた。

最後の一口を飲み込み、芳彦は静かに両手を合わせた。


「御馳走様でした」

深く、清々しいほどのお辞儀。


芳彦は財布から 1万円札を取り出し、隣に立つえらいこっちゃ嬢にそっと手渡した。

「おつりは要りません。料理も美味しかったけど、大切なことを教わりました……いえ、伝え導いて貰いましたで」

彼は改めて、地蔵店長、猫子、そしてえらいこっちゃ嬢に対し、心からの敬意を込めて深々と頭を下げた。


「毎度あり! 大金や、えらいこっちゃ!」

えらいこっちゃ嬢は、小さな両手で 1万円札を丁寧に受け取ると、その重みを確かめるようにしてからレジへと向かった。


地蔵店長はカウンター越しに優しく合掌し、微笑みを絶やさずにお辞儀を返す。

「こちらこそ、ご丁寧に有難う御座います」


芳彦の表情は、店に入ってきた時の険しさが嘘のように消え去り、穏やかな光を宿していた。

「ちゃんと、妻と孫と話します。自分の正論をぶつけるんやなく、きちんと二人を『観じて』、話す事にしますわ」

自らの非を認め、新たな一歩を踏み出そうとする芳彦の姿に、厨房の猫子もにこやかに目を細めていた。


「そうして、いつか……家族全員でここに来たいと思います」

芳彦は希望に満ちた言葉を残し、再び深くお辞儀をしてから、温かな光の漏れる店を後にした。


背後では、地蔵店長の穏やかな声が夜の静寂しじまに溶けていった。

「本日はお越しくださいまして、誠に有難う御座います。またのご来店をお待ちしております」


外へ出ると、夜風が火照った頬に心地よい。

芳彦は、明日、入院中の妻・芳子にどんな言葉をかけようか、そして愛する孫の芳人にどう歩み寄ろうかと考えながら、しっかりとした足取りで帰り道を歩き始めた。


夜空に輝く月は、まるで彼の新しい決意を祝福するように、優しく足元を照らしていた。


---


翌日の午後、柔らかい日差しが注ぐ中、芳子は予定通り退院の運びとなった。

芳彦は自ら車を出し、病院の玄関で待つ妻を迎えに行った。


昨夜、摩訶不思議食堂で「啐啄同時」の教えを受けた芳彦にとって、助手席に座る妻の横顔は、昨日までとはどこか違って見えた。

彼女の静かな沈黙の中に、自分への深い失望と、それでも消えない慈しみがあること。

今の芳彦は、それを懸命に「観じ」ようとしていた。


家に帰り着くと、住み慣れたはずの家の中は、芳子が一日いなかっただけでどこか冷え冷えとして感じられた。

芳彦は妻をリビングのソファに座らせると、自分もその向かいに腰を下ろした。


いつもならすぐに新聞を広げるか仕事の話を始めるところだが、今日の芳彦は膝の上に置いた手を強く握りしめ、慎重に言葉を選んでいた。

「芳子……。話があるんや。それとな、芳人にも」


芳彦の声は、いつもの威圧感を失い、どこか震えていた。

芳子は怪我をした手首を庇いながら、驚いたように夫を見つめた。


「ワシから連絡しても、あいつは電話に出てくれへんやろう。……無理もない。ワシはあいつの心を、土足で踏みにじるような真似をしたんやからな」

芳彦は、己の傲慢さを噛み締めるように続けた。


「そやから……芳子から呼んでくれへんか? ワシ、きちんと芳人に頭を下げたいんよ」


「……芳彦さんが、頭を、下げるのですか?」


芳子は目を見開いた。

あの、自尊心の塊のような夫が、自分の過ちを認めて孫に謝りたいと言う。

その瞳には、昨夜までの頑固な「成功者」の影はなく、一人の祖父としての切実な後悔が宿っていた。


「……わかりました」

芳子は小さく頷くと、傍らにあったスマートフォンを手に取った。


「おじいちゃんが、あなたと話したいと言っています。一度、家に来てくれませんか」

慣れない手つきで、芳人へとメッセージを打ち込む。


メッセージを送信してから、リビングを支配したのは時計の針が刻む規則正しい音だけだった。

芳彦は落ち着かない様子で何度も茶を啜り、窓の外を眺めた。

拒絶されるのではないか。もう二度と会ってくれないのではないか。

そんな不安が、かつての経営者の胸を締め付ける。


やがて、芳子のスマートフォンが短く震えた。

「これから、ここに来るそうですよ」


芳子が画面を見つめながら、柔らかく微笑んだ。

その言葉を聞いた瞬間、芳彦は大きな溜息を漏らし、背負っていた重荷が少しだけ軽くなったような心地がした。


「そっか……。有難うな、芳子」

芳彦はそう言うと、背筋を伸ばし、玄関の方をじっと見つめた。


孫が卵の殻を内側から突っつく音を聞き逃さないように。

そして今度は、決して早すぎることのないように、適切な「たく」を届けるために。

彼は静かに、愛する孫の到着を待った。


---

玄関の開く音がして、芳人がリビングに姿を現した。

どこか気まずそうに視線を落としながらも、彼は手に提げていた包みをそっとテーブルに置いた。


「……来たで。それとこれ、退院祝い」

芳人はそう言うと、笹の香りが微かに漂う麩饅頭を三つ取り出した。

慣れた手つきで戸棚から皿を出し、三人分の饅頭を丁寧に並べていく。


「いらっしゃい、有難うねえ。ふふ、おばあちゃんもおじいちゃんも、これ大好きなん、よう覚えててくれたね」

芳子は、孫の変わらぬ優しさに触れ、目尻を下げて柔らかく微笑んだ。


芳彦は、椅子から立ち上がると静かに言った。

「有難うな。今、おじいちゃんが御茶入れるさかい」

そう言って、彼はキッチンへと向かった。

「あなた、御茶入れられるんですか?」

芳子が驚きと可笑しさが混じったような声で尋ねると、芳彦は照れくさそうに頭を掻いた。


「芳子に全部まかせっきりやったと、今回の入院で思い知ってな。そんで、退院までの短い間に、急須と茶葉と湯呑の場所を覚えて、何回か自分で練習してたんや」

芳彦は笑いながらも、真剣な手つきで急須に湯を注ぎ、三人分の御茶を慎重に淹れて回った。


 三人が席につき、揃って一口、その茶を啜った。


「ふふ、渋い御茶」

芳子は少し顔をしかめながらも、愛おしそうに微笑んだ。

芳彦が淹れた茶は、湯の温度が高すぎたのか、少しばかり苦みが強く出ていた。

「これから上手なっていくから。堪忍な」

芳彦は自嘲気味に笑い、それから姿勢を正した。


「……二人共、改めて、申し訳ない事をしてしもた」

芳彦はそう言うと、テーブルに両手を突き、深く頭を下げた。


「芳子には、家の事任せきりにして、その苦労に気づきもせんかったこと。そして……芳人には、ワシの凝り固まった価値観を無理やり押し付けてしもた。ほんまに、申し訳なかった」

部屋を支配していた重苦しい緊張が、芳彦の誠実な謝罪によって、静かに解けていく。


芳人は麩饅頭を見つめたまま、ぽつりと呟いた。

「……俺も、最後まで話聞かんと飛び出してしもた。それに……おじいちゃんの言うてる事は正しい事ではあるって、わかってるから」


芳彦は、顔を上げて孫の目を真っ直ぐに見つめた。

「それでもな、芳人。例え正論でも、間違って無い事であっても……伝えるべきタイミングで、伝わる伝え方を、おじいちゃんは全く考えてへんかった」

彼は昨夜学んだ「煮え渋り」と「啐啄同時」の教えを胸に、一言一言を噛み締めるように伝えた。


「完全に押し付ける形にしてしもたんは、おじいちゃんの未熟さや。ほんまに、ごめんなあ」

その声には、かつての威圧感は微塵もなかった。

あるのは、ただ一人の孫を大切に想う、老いた祖父の純粋な悔恨だけだった。


「……芳人」

芳子は、夫の劇的な変化と孫の戸惑いを感じ取りながら、じっと芳人の横顔を見つめた。

二人の間に流れる時間が、ようやく正しい速さで動き出そうとしていた。


---


静まり返ったリビングに、芳人の低く、抑えた声が響いた。


「……半分」


「え?」

芳彦は湯呑みを持ち上げたまま、聞き返した。


「俺の事は……俺がああ言われたんは、俺が未熟もんで、甘ったれてたのは事実やから、それは納得してる。……遠回りしたけど、今はそう思える」

芳人は、真っ直ぐに祖父を見つめた。その瞳には、かつての逃げ腰な甘さはなく、一人の大人として自律しようとする強い意志が宿っていた。


「でもな、後の半分は……やっぱり、許せん事がある」


「……おじいちゃんの、何が許せへんか、教えてくれるか?」

芳彦は、孫の気迫に押されるように、湯呑みをテーブルに置いた。


---


「……俺、この前飛び出した後、人生の先輩って思える人達に出会ってん」

芳人は、「摩訶不思議食堂」で出会った人々を思い描きながら話し出した。


「そこで……おじいちゃんが、少なくとも二人の命を奪いかけてたって知って。しかもそのうちの一人は、俺が、大人になりたいなって思える、尊敬出来る大人やった」


「命を……? 何を言うておるんや」

芳彦の顔から血の気が引いていく。経営者として厳しく接してきた自覚はあるが、命を奪いかけるなどという物騒な話には心当たりがなかった。


「……なあ、『此岸優哉しがん ゆうさい』さんって、覚えてるか?」


芳人は、祈るような、あるいは裁くような眼差しで祖父の名前を呼んだ。


---


「……いや、知らん名前や」


芳彦は記憶の糸を必死に手繰り寄せたが、その名前はどこにも引っかからなかった。何千、何万という学生や社員と接してきた彼にとって、それは単なる文字列に過ぎなかった。


「つまり……おじいちゃんにとっては、その他大勢の就活生の一人でしかなくて、誰に何を言うたか、発言者の責任を持ってへんかったって事なんやね」


芳人の言葉が、冷たく、鋭い刃となって芳彦の胸に突き刺さる。


「俺、『目が死んでる』とか『卑怯もん』って言われたって言ったやん? おじいちゃんは、優哉さんにおんなじことして……死を考える程追い詰めたんや。おじいちゃんがとっくの昔に忘れ去った、俺が『こうなりたい』って思う大人である優哉さんを」


その瞬間、芳彦は愕然とした。


目の前が真っ暗になり、心臓が大きく脈打つのを感じた。

自分が「正しい教育」だと言い聞かせ、良かれと思って放ってきた言葉。

それは、相手の人生を、その魂を、文字通り終わらせようとしていた凶器だったのだ。


自分が忘れ去った過去の「正論」が、時を超え、最も愛する孫の口から自分を裁く言葉として返ってきた。

芳彦は震える唇を噛み締め、ただただ、圧倒的な罪悪感に打ちのめされるしかなかった。


---


リビングの空気は、まるで氷点下まで冷え切ったかのように凍りついていた。

芳人は、膝の上に置いた拳を白くなるほど握りしめ、言葉を一つ一つ、絞り出すように紡ぎ出した。


「……優哉さんはな、恨みとか復讐とか、そんなもんは微塵も感じさせへん人やった。俺が美馬川芳彦の孫やって知っても、自らその過去を話すことは一度も無かったんや」

芳人の声は、静かだが部屋の隅々まで鋭く響き渡る。

「ひょんなことから因縁に気づいて、俺から『教えてほしい』って頭を下げて……やっと、重い口を開いてくれはったんや」


芳彦は、持っていた湯呑みを震える手でテーブルに置いた。

カチャリ……という乾いた音が、静寂の中で不気味に響く。


「俺に恨み言の一つでもぶつけてくれたら、俺は黙って受け入れるつもりやった。けど……一切、そんなもんは無かった。ほんまに、慈悲の人やったで。お坊さんやないって言ってはったけど、そこらのお坊さんよりずっとお坊さんらしかった……」

芳人は一度言葉を切り、悔しさに唇を噛んだ。


「おじいちゃんが、そんな人の命を言葉の刃で奪いかけたって知った時……俺、泣きながら頭下げたんや。俺のおじいちゃんが、本当にすみませんでしたって。そしたら優哉さんは、『芳人さんが頭下げることやありませんよ』って、優しく笑ってくれはったんやぞ……!」


芳彦の肩が、ガクリと大きく揺れた。


「おじいちゃんは、そんな器の大きな人を傷つけて不採用にしただけやない。危うくこの世から消しかけたんや。正直に言うわ。……今の俺にとってのおじいちゃんは、『見る目のない老害』や。それが、今の俺の偽らざる『観じ方』や」


ドクン、ドクンと、芳彦の耳元で自分の鼓動がうるさく鳴り響く。

孫から放たれた「老害」という言葉が、胸の奥底に鋭く突き刺さった。


「それとな……俺に『目が死んでる卑怯者』って言い放ったあの女性社長も……おじいちゃんがかつて傷つけた人やったんや」

「な、なんやて……?」


「『社員を路頭に迷わせるのが落ちやから、企業経営なんかすんな』。……そんな酷いこと、誰に言ったかも覚えてへんのやろ? 今では 100人 もの社員を抱える立派な経営者になってはる人や」

芳人は、冷徹なまでの眼差しで祖父を射抜いた。


「俺が尊敬する人たちを傷つけたまま、のうのうと生きてるのが、やっぱり納得いかん。許したらあかんことやって思うのが、今の俺の結論……。これが、俺の『半分の許せへん部分』や」


芳人は、テーブルを叩くようにして問いを突きつけた。


「なあ、おじいちゃん。ホワイト企業に認定されて、『技術より人間性』なんて立派な理念を掲げてるけど……。まだ人生経験の少ない学生相手に説教して、導いたつもりになってる人の『人間性』って、一体なんなん?」

「……」

「もし、優哉さんがほんまにあの時、この世からいなくなってたら……おじいちゃんの中では『優哉さんが弱い悪人やった』ってことで片付けられてたんか?」


芳彦は、何も言えなかった。

口を金魚のようにパクパクと動かすが、喉の奥が引きれ、音にならない。

30年以上、企業のトップとして何百人もの人間を導いてきたという自負が、音を立てて崩れ去っていく。


カチ、カチ、カチ……。

古びた柱時計の音だけが、芳彦の罪を数え上げるように無慈悲に響き続けていた。


---


張り詰めていた空気が、芳人のふとした一言でわずかに揺らいだ。

芳人は深く息を吐き出し、少しだけ肩の力を抜いた。


「……一気にまくしたててしもたな」

その声には、祖父を追い詰めたいという悪意ではなく、伝えなければならないという使命を果たした後の、切ない響きがあった。


「……かまへん。返す言葉もない。ワシがやってきたことは、そういうことやったんや」

芳彦は弱々しく、けれど逃げることなく答えた。


そんな彼の震える手に、隣に座る芳子がそっと自分の手を重ねた。

言葉はなくとも、その温もりが「共にその罪を背負う」という静かな誓いのように、芳彦の冷え切った心に染み渡っていく。


---


「おじいちゃんにとっては、その他大勢との、ほんの数10分の面接やったんやろうけど……」

芳人は、自らの手のひらを見つめながら言葉を継いだ。


「やられた方は、一生涯の苦しみになる傷になったってこと、怖いなって思った。俺も、いつか誰かに対して、そういうことをしでかしてしまわんようにせなあかんなって……。今は、仏様の教えを大事にしようって、心から思えてん」


「仏、様?」

芳彦は、孫の口から出た意外な言葉に顔を上げた。


「うん。優哉さんと出会った店で、店長さんと優哉さんに仏の教えを、色々教えてもろてな。それが、今の俺の支えになってるんや」


「仏様の、教え……」

芳彦の脳裏に、昨夜迷い込んだあの温かな光が、鮮烈に蘇る。

地蔵のような笑顔の店長。猫耳の給仕。そして、自分を「えらいこっちゃ」と導いた少女。


「……摩訶不思議食堂」

芳彦がポツリとその名を口にすると、芳人は飛び上がるほど驚いた顔をした。


「え!? なんでその名前知ってるん……!? 俺が、えらいこっちゃんに連れて行ってもろた、店の名前……」


「……そうか、芳人も、摩訶不思議食堂に行ったんか……」

芳彦は目を細め、運命の不思議さに打たれた。


「うん。あの日、二人の前から飛び出した日に、えらいこっちゃんに連れて行ってもろてん。あそこで、優哉さんに出会ったんや」


「そうか……。孫ともども、迷い人やったんやなあ……」

芳彦は深く、深く目を伏せた。


自分は成功者として頂点に立っているつもりだったが、その実、孫と同じように魂の行き先を見失った「迷い人」に過ぎなかったのだ。


「今は、もう迷ってへんよ、俺は」

芳人が晴れやかな顔で、小さく微笑んだ。


「そうか、それは何よりや……。ワシも、ようやく目が覚めた気がするわ」


---


「……優哉さんに、会わせてもらえるやろか。ワシの口から、直接詫びを言いたい」

芳彦の切実な願いに、芳人は優しく答えた。


「また摩訶不思議食堂に行くことがあれば、もしかしたら、会えるかもしれへんね。あそこは、そういう場所やから」


「……そうやな。だが、その前に……まずは、あの女性社長から、会いに行くでな。けじめ、ちゃんとつけんと。ワシが壊したものは、ワシが自分で修復しに行かなあかん」

「……うん」


芳人は、力強く頷いた。

目の前にいるのは、かつての傲慢な経営者ではない。

自分の過ちを見つめ、泥を這ってでも償おうとする、真に尊敬できる「おじいちゃん」の姿だった。


そんな二人の様子を、芳子が温かく、慈しむような微笑みで見守っていた。

窓から差し込む午後の光が、かつてバラバラになりかけていた家族を、優しく包み込んでいた。


---


それから数日が経過した。

季節を運ぶ風は、どこか新しい始まりを予感させる清々しさを帯びていた。


孫の芳人は、あの日から見違えるような精気を取り戻していた。

自らの足で一歩を踏み出し、筆記試験を見事に突破。

この日は、京都市内にある企業の面接へと向かっていた。


かつての「死んだ魚のような目」はもうどこにもない。

今の彼の瞳には、自らの人生を「観じる」ための、静かな、けれど確かな光が宿っていた。


---


 同じ頃、芳彦もまた、自らの過去と向き合うための準備を整えていた。

鏡の前でネクタイを締め直し、長年使い込んだ上着を羽織る。

会長職としての威厳はそのままに、しかしその内側には、かつてなかった謙虚さと決意が満ちていた。


 芳人と和解したあの夜、芳彦は阿川社長の会社について詳しく聞き出した。

そして翌日には、自らの秘書を通して「正式な謝罪」を目的とした面会のアポを取り付けていたのだ。

成功者として君臨してきた自分にとって、それは20数年という長い空白を埋めに行く、魂の巡礼でもあった。


 芳彦は早めに自社を出ると、手元の地図を頼りに京都の街を歩いた。

目的地は、芳人が話していた通り、今や 100人もの社員を抱える立派な自社ビルを構える企業だった。


エントランスを抜けると、清潔感のあるモダンな空間が広がっている。

かつて自分が「企業経営なんてやってはいけない」と切り捨てた女性が、これほどまでの城を築き上げた事実に、芳彦は改めて自らの人を見る目の無さを恥じた。


 彼は迷いのない足取りで、受付へと真っ直ぐに歩み寄った。


「いらっしゃいませ。ご用件を伺います」

 若く快活な受付の女性が、丁寧な会釈で迎える。

芳彦は、自らの立場も肩書きも脇に置き、一人の「過去に罪を犯した男」として、丁寧に、そして重みのある動作で自らの名刺を差し出した。


「本日、阿川社長へ謝罪する機会を頂きまして、面会をして頂く事になっております。美馬川芳彦と申します」


 その声には、一切の傲慢さはなかった。

自分の言葉が誰かの人生を「煮え渋らせ」てきたこと。

その重責を一生背負い、正論という名の刃を捨てて生きていくという誓い。


 芳彦の言葉を受け取った女性が、内線へと手を伸ばす。

その背中を見つめながら、芳彦は静かに、かつて自分が傷つけた「雛」が羽ばたいた先の扉が開くのを待っていた。


 美馬川芳彦の、本当の意味での「再始動」が、今ここから始まろうとしていた。


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