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死神の隠し子  作者: 沖延龍弥


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第1話 ごめん……

「どうぞ」と中から現れた看護師の女性に促され、稲司祝いなもりほおりは『ICU(救急治療室)』と記された曇りガラスの扉をくぐった。

 ホームルームが終わった直後、スマホの留守番電話に入っていた病院からのメッセージを聞いて、急いで駆けつけたばかりだった。   

 一カ月前に初めて袖を通したばかりで、まだ着慣れない高等学校の制服が、今は汗でぴったりと張りついている。


 右側に奥まった一つ目の部屋は、医師たちや看護師たちの控え室兼観察室のようだった。どこにでもある事務所のような内装ではあったが、向こう側にあるもう一つの部屋とを隔てた壁は、隅々まで見通すことができるように、上半分が透明のガラス張りになっていた。  


 看護師のあとに続いて、祝は二つ目の扉をくぐった。今度は、透明なガラスの扉だった。


 やはり右側に奥まった部屋には、八つのベッドが、四つずつ二列に並んでいた。

 そのうちの七つのベッドは、間仕切りカーテンが開け放たれ、寝ている患者もいなかった。起動していない医療機器やモニターが、整然と配置されているだけである。


 たった一つ――手前の列の一番の奥のベッドだけが、間仕切りカーテンに閉め切られ、律動を刻む心電図の電子音が中から聞こえた。

 看護師がそのベッドへと歩み寄ると、励ますような目でこちら見をながら、間仕切りカーテンを開いてくれた。


 祝は、恐るおそる中へと入り、ベッドの上で眠る患者に目を落とした。

 母親である、稲司此葉いなもりこのはだ。

 口の中に、人工呼吸器の管が通されている。顔色は紙のように真っ白で、こけた頬には蒼ずんたかげが落ちていた。透けるように薄い瞼は、固く閉じられたままピクリともしない。


 祝は思わず息を呑み、足許から這い上がってくるような寒気を覚えた。

「大丈夫ですか?」

 隣に立った看護師の女性が、気遣わしげに問いかける。

 祝は、なんとかうなずいて、

「いつから、眠ってるんですか?」 

 と問い返した。


「昏睡状態に入られたのは、今日の13時過ぎでした」

「治るんですよね?」

 祝の視線とかち合った看護師の目が、落ち着きを失って宙を泳いだ。

「すぐに、担当の瀬城先生が来られます。詳しい話は、先生がしてくださいますので……」

 祝の総身が、目頭だけを除いて凍てついた。言えよ、どうせアンタだって知ってるんだろ。


 しばし、カーテンの中に沈黙が満ちた。

 涙は流れない。けれど、ある日を境にして破れてしまった心から、滴滴(てきてき)と何か大事なモノが流れていくのを確かに感じた。


「お母さん、君が急いで駆けつてくれて、きっと喜んでいると思います」

 看護師が、先ほどよりも声を明るくさせて口を開いた。

「今は返事を返すことはできませんが、君の声はちゃんと届いているはずです。だから、声をかけてあげてください。お母さんも、きっと聞きたがってるはずですから」


 言われて、祝は戸惑った。ホントに聞こえてるもんなのかと――いう疑念もある。

 看護師が、掌でコノハの左手を指し示した。

「手も握ってあげてください」

 

 そう言われて握らないわけにはいかず、まずは此葉の手の甲にそっと触れた。

 途端に、またしても息を呑んだ。寒気を感じている自分の手よりもずっと冷たくて、枯葉に似た感触の痩せさらばえた手の甲だった。幼いころに繋いでくれた手の感触とはほど遠く、祝は今さらながらに愕然とした。

 そして、気つけば崩れるようにして膝を折り、両手で此葉の手をそっと握りしめていた。


「母さん、ごめん…… 怒鳴ったりして、ホントにごめん」

 そう呟くや、津波のように押し寄せる後悔に、溺れていくような気分を覚えた。

 こんなにも弱り切ってた人に、俺はなんで怒鳴ったりしたんだよ――


 五日前のことだった。日曜日の昼下がり、祝は此葉の見舞いに、いつもの病室を訪れていた。そこで、にわかに親子喧嘩が勃発したのだ。というより、祝が此葉に一方的に怒鳴って帰っていったのだった。何でだっけ? ああ、そうだ、母さんがとつぜん変なこと言い出すから。


 祝はスツールに腰をかけ、此葉は背上げされたリクライニングベッドにもたれて、二人はたわいない会話を交わしていた。そんな最中、此葉がふと顔を曇らせ、深刻な声音でひとり息子に語りかけた。

 祝……お母さんね、もうすぐお迎えが来るの。だから、あなたも覚悟しておいてね――と。


 なに言ってんだよ、と祝は笑い飛ばした。

「何かあっても、すぐに良くなるって。今までだってそうだったろ?」


 実際、此葉は幾度となく重篤状態に陥りながらも、いつも辛うじて命を取り留めてきた。深刻な合併症を引き起こそうが、多臓器不全を発症させようが、必ず命脈だけは保ってきた。

 そうして小康状態に戻るたび、いつも医者は奇跡だ――と零していた。驚愕を超えて、〈なぜ生きていられるんだ〉と言わんばかりの、隠しきれない困惑の目色で此葉を見ながら。


 とはいえ、病気は回復に向かっているわけでは決してなかった。着実に衰弱へと向かっていることは、祝の目から見ても明らかだった。

 それでも、此葉は祝を不安にさせたりはしなかった。日に日に儚くなっていくくせに、なぜか口振りだけは強気だった。

 

 ――大丈夫よ、母さんが死ぬのはまだまだ先のことだから。


 余命宣告を受けたのも、もう二十年も前のことらしい。そのことを彼女はころころと笑いながら言ったものだ。

 

 ――そういのって、まったく当てにならないものなのよ。


 なのにあの日、此葉は初めて弱気な言葉を口にした。

 祝は、努めて軽い口調で受け流した。母さんは絶対に死んだりしない。良くなる日だっていつか来ると、信じ続けていたかった。


 しかし、此葉は静かにかぶりを振った。

「お母さんね、ずっと前に約束したのよ。もちろん、あなたを遺して逝くのは、とても辛いし、悲しいわ」 

 でもね、と伏せられた瞳には、悲痛なかげが差していた。

「本当は、ずっと申し訳ないって思っていたの。ごめんなさいって思ってたの。毎日毎日、心の中で謝りつづけて生きてきたの。だから、もう迷惑はかけられない」

 これ以上は、生きてちゃいけないの――と言う声は、ひどく苦しげにかすれていた。










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