絶望をハートのエースに書き換える方法
冷たい夜風が吹き抜ける、地方都市のさびれた歩道橋。 街灯は不規則に瞬き、まるでこの街の寿命を告げているようでした。
ハルオミは、欄干にかけた手に力を込めました。 経営していた小さな印刷所は畳み、家にはもう帰る理由もありません。 空っぽのポケットには、一枚のクシャクシャになったレシートと、誰にも届かない言葉だけが詰まっていました。
「死ぬ前に、トランプのシャッフルって見たことありますか?」
低く、澄んだ声が響きました。 ハルオミが顔を上げると、そこには漆黒のロングコートを纏った女、ミユキが立っていました。 腰まである真っ直ぐな黒髪が、夜の闇に溶け込んでいます。彼女は鋭い眼差しでハルオミを射抜くと、手元のトランプを流れるような手捌きで操り始めました。
パタパタと、乾いた音が夜の静寂を刻みます。
「何だ、あんた。手品師か?」 「いえ。ただの、忘れ物を取り扱っている者です」
ミユキは無表情のまま、トランプの束を扇状に広げました。 堤防の影のような、どこか近寄りがたいクールな美しさ。けれど、彼女がカードを繰る指先だけは、驚くほど繊細で、温かみを感じさせました。
「この中から、あなたが捨ててしまったものを思い浮かべて、一枚引いてください」
ハルオミは鼻で笑い、投げやりな手つきでカードを一枚抜きました。 それはスペードの3でした。 「ほらな。欠けた数字だ。僕の人生そのものだよ」
ミユキは薄い唇をわずかに動かし、ふっと息を吹きかけました。 その瞬間、カードの表面が揺らぎ、鮮やかな赤が滲み出しました。 スペードの3は、見る間にハートのエースへと姿を変えたのです。
「え……?」 ハルオミが驚いて束を奪い取り、次々とカードをめくります。 ダイヤのジャックも、クラブの8も、ジョーカーでさえも。 ハルオミがめくるそばから、全てのカードが、光を放つようなハートのエースに書き換わっていきます。
「何だよこれ、全部同じじゃないか」 「そうですよ。全部同じです」
ミユキは一歩歩み寄り、欄干に背を預けました。 彼女の黒いコートのボタンが、街灯を反射して宝石のように光ります。
「あなたの人生には、ろくなことがなかったかもしれない。でもね、ハルオミさん。あなたが誰かのために淹れたコーヒーとか、雨の日に見知らぬ人に貸した傘とか、そういう、本人さえ忘れてしまった小さな愛が、実は行列を作ってあなたの後ろに並んでいるんです」
ミユキは空中に向かって指を鳴らしました。 すると、52枚のトランプが意思を持ったように空へ舞い上がりました。 カードは夜空の光を吸い込み、キラキラとした無数の光の粒に弾けました。 それは雪のようでもあり、地上の星のようでもありました。
「手品っていうのは、嘘をつく仕事じゃありません。誰かが自分についた『自分なんてダメだ』っていう嘘を、解いてあげる仕事なんです」
ハルオミの目から、熱いものがこぼれました。 頬を伝う涙が、宙を舞うカードの残光を反射して、小さく輝きます。 彼はいつの間にか、欄干を握っていた手を離し、その温かな光を掴もうと空へ伸ばしていました。
「……種明かしは?」 「企業秘密です。でも、あなたが明日またお腹を空かせることくらいは、予言しておきますね」
ハルオミが再び顔を上げたとき、ミユキの姿は消えていました。 ただ、彼の足元には一枚だけ、古びたトランプが落ちていました。 裏面はハルオミが昔使っていた印刷所の、懐かしいロゴが入った特注品。 表面には、幼い子供の筆跡で、真っ赤なハートが描かれていました。
ハルオミはそれをそっとポケットにしまい、歩き出しました。 さっきまで死ぬほど寒かったはずの夜風が、今は少しだけ、春の訪れを予感させる匂いがしました。




