「蛸と出会い、丸ごと味わう」
日間賀島までの船旅は、 波も穏やかで、風も心地よく、
まるで何事も起きないことが約束されたかのようだった。
「……何も起きない、だと……?」 と、藤兵衛は船縁に手をかけながら、
どこか拍子抜けしたように呟いた。
「いえいえ、これが普通の旅ですよ」 と、権兵衛が笑う。
「つまらないの……」 と、定吉は少し残念そうに空を見上げた。
やがて船は日間賀島に到着。
下船した三人を出迎えたのは、一体の蛸だった。
「……これは……木彫りか?」 と、藤兵衛が目を細める。
朱に染まった蛸は、 片手(?)に扇子を持ち、にっこりと笑っていた。
「なんというか……いやはや……」 と、藤兵衛は言葉を選びかねていた。
「面白いですね、これ!」 と、定吉は目を輝かせていた。
相変わらずの大物ぶりである。
「なるほど、蛸が名物というのは本当のようじゃな。であれば、蛸料理も楽しみというものじゃ」
港にいた地元の人に尋ねると、
「港近くの料理屋なら、どこも美味しいですよ」とのこと。
三人は、木造の趣ある料理屋に入った。
空いている席に腰を下ろし、 藤兵衛が店主に声をかける。
「ここの名物は蛸料理と聞いたが、何があるのかのう?」
「はい、刺身、唐揚げ、蛸しゃぶ、酢の物…… そして一番のおすすめは蛸の丸茹ででございます」
「丸茹でとな? 固くなったりはせぬのか?」
「いえいえ、この島の蛸は甘みがあって、茹でても固くならないんですよ。それが日間賀島の自慢でしてな」
「……ふむ、では、全部頼もうかのう」
「出ましたな、若旦那の“全部”」 と、権兵衛が苦笑し、
「やったー!」 と、定吉は拍手していた。
しばらくして、料理が順々に運ばれてきた。
まずは蛸の刺身。
透き通るような薄切りに、わさび醤油を添えて。
「……これは、歯ごたえがありながら、柔らかいのう」 と、藤兵衛が目を細める。
「噛むほどに甘みが出ますな」 と、権兵衛が頷く。
「おかわりしたいくらいです!」 と、定吉はすでに次の皿を見ていた。
続いて、蛸の酢の物。 酢の酸味と蛸の旨味が絶妙に絡み合う。
「さっぱりして、口が整いますな」 と、権兵衛が箸を進める。
「これ、夏に食べたら最高ですねぇ」 と、定吉がにこにこしていた。
次に来たのは蛸の唐揚げ。 衣はカリッと、身はふっくら。
「これは……酒が欲しくなるのう」 と、藤兵衛が思わず呟く。
「若旦那、昼間です」 と、権兵衛がすかさずたしなめた。
「……残念じゃ」
そして、蛸しゃぶ。
湯にくぐらせると、身がくるりと丸まり、ぽん酢にくぐらせて口へ運ぶ。
「……これは、上品な味わいですな」 と、権兵衛が感心する。
「しゃぶしゃぶって、蛸にも合うんですねぇ」 と、定吉は目を丸くしていた。
そして、最後に運ばれてきたのは—— 蛸の丸茹で。
「……おお……」 と、三人は思わず声を漏らした。
皿の上には、艶やかな朱色の蛸が、丸ごと一匹。
足をくるりと巻き、まるで芸術品のように鎮座していた。
「……これは、少し感動するのう」 と、藤兵衛が静かに言った。
「見た目の迫力もすごいですが……」 と、権兵衛が箸を入れる。
「……うまい!」 と、三人がほぼ同時に声を上げた。
甘みがあり、柔らかく、 噛むほどに旨味が広がる。
「……これは、江戸に持ち帰って売りたいのう」 と、藤兵衛が目を細めた。
「“日間賀の蛸、丸ごと一匹”……看板になりますな」 と、権兵衛が頷く。
「お土産にしたいです!」 と、定吉はすでに包みを想像していた。
こうして、三人は蛸尽くしの昼餉に大満足し、 腹も心も、すっかり満たされたのであった。




