「蛸と焼き物、そして不在の赤ら顔」
伊良湖の朝は、潮の香とともに始まった。
旅籠の朝餉は、焼き魚に味噌汁、炊きたての白米。
昨夜の大浅利と海苔の余韻を残しつつ、三人は静かに箸を進めていた。
「若旦那、今日はどうなさいますか?」 と、定吉が湯呑を手に尋ねた。
「うむ……せっかくここまで来たのじゃ。 このあたりの名物や特産品も、もう少し見ておきたいのう」 と、藤兵衛は顎に手を当てて考え込む。
そこへ、ちょうど女将が朝の挨拶に現れた。
「おはようございます。昨夜はよくお休みになれましたか?」
「うむ、温泉も飯も見事じゃった。ところで、このあたりで他に名物はあるかのう?」
「ございますとも!」 と、女将の目がきらりと光った。
「ここから船で日間賀島という島へ渡れば、通年で蛸料理が楽しめますよ。それに、知多半島まで船で渡れば、常滑の焼き物もございます。蛸に焼き物、どちらもこのあたりの誇りですわ」
「蛸料理に焼き物か……」 と、藤兵衛は湯呑を置き、ぽつりと呟いた。
「……若旦那の好奇心が、また始まりましたな」 と、権兵衛が肩をすくめる。
「蛸料理ですか! 楽しみです!」 と、定吉はすでに目を輝かせていた。
「今日も盛りだくさんじゃ。準備して向かうかのう」
荷をまとめ、旅籠を出る三人。
「女将、世話になったのう」
「いえいえ、またいつでもお越しくださいませ。今度はぜひ、蛸の踊り食いも召し上がってくださいね!」
「……踊り食い、とな」 と、藤兵衛は少し引きつった笑みを浮かべた。
三人は伊良湖港へと向かい、 日間賀島行きの札を求めた。
「……しかし、昨夜の灯台の光景が脳裏に焼きついておるのう」 と、藤兵衛が辺りを見回す。
「弥次さん、いないだろうな……?」
「はい、今のところは見当たりません」 と、権兵衛がきょろきょろと周囲を確認する。
「姿は見えないです」 と、定吉も首を振った。
「……ふむ、ならばよい」 と、藤兵衛は胸をなでおろした。
だが、どこかで潮風が、 酒と炙り貝の香りを運んできたような気もした。
(……はてさて、この旅はどうなることやら)
じぇっとふぉいるの汽笛が、 次なる騒動の幕開けを告げるように、 港に響いた。




