「神の鏡、影の兆し」
神路山と島路山の麓、 五十鈴川のほとりに鎮座する皇大神宮。 天照大御神をお祀りし、 三種の神器のひとつ、八咫鏡を御神体として祀る、 まさに神々の中心とも言うべき場所である。
「さて、内宮では……右側通行、じゃったな」と、藤兵衛が呟くと、三人は五十鈴川に沿って右手に寄りながら歩き出した。
川面には朝の光がちらちらと揺れ、反対側には美しい松の並木が広がっていた。
「……なんとも、清い松よのう」と、藤兵衛が立ち止まり、しばし見上げる。
「枝ぶりが見事ですな。まるで神様の庭のようです」と、権兵衛が感嘆し、
「風が通る音まで、なんか違って聞こえますね」と、定吉も目を細めた。
松の間を縫うように、白砂の参道が続いている。足音が、さらさらと砂利を踏む音だけを響かせ、 言葉少なに、三人はその道を進んだ。
やがて、御手洗場が見えてきた。
五十鈴川の清流が、静かに流れている。その水面に手を差し入れると、 冬の冷たさが指先を刺した。
「……冷たいのう」 と、藤兵衛が眉をひそめながらも、両手を清め、口をすすぐ。
「でも、なんだか……しゃんとしますね」と、定吉が手を拭きながら言った。
「身も心も、洗い流されるようですな」と、権兵衛も深く頷いた。
そして、いよいよ正宮・皇大神宮へと至る。
参道の先、玉砂利の奥に、檜皮葺の御正殿が、静かに佇んでいた。
その姿は、華美ではない。だが、圧倒的な静けさと威厳を湛えていた。
「……ここが、天照大御神の御座所か」と、藤兵衛は自然と背筋を伸ばした。
三人は、玉砂利を踏みしめながら、ゆっくりと前へ進み出る。
そのときだった。
藤兵衛の視界の端に、奥の左手、御垣の向こうに人影が見えた。
(……はて?)
思わず目を凝らす。その人影は、こちらに背を向けて立っていた。
(……あの背中……どこかで……)
ゆっくりと振り返ったその顔は、どこかで見た、赤ら顔。
(ま、まさか……)
その瞬間——
八咫鏡に朝の陽が差し込んだ。
鏡面に反射した光が、まるで一条の光となって、その赤ら顔の人影の背に、後光のように差した。
「……っ!」
まばゆさに、思わず目を閉じる藤兵衛。
一拍ののち、そっと目を開けると—— そこには、もう誰の姿もなかった。
「若旦那、どうされました?」と、権兵衛が小声で尋ねる。
「……いや、今、あの奥に…… 弥次さんのような影が見えた気がしてのう」 と、藤兵衛はひそひそと返す。
「えっ、どこですか?」 と、定吉がきょろきょろと辺りを見回す。
「……わたしには、何も見えませんでしたが」 と、権兵衛も首をかしげる。
「若旦那、やっぱりお疲れなのでは?」
「弥次さんのこと、気にしすぎですよ」 と、二人が口を揃える。
「……そうかのう。そうかもしれんのう」 と、藤兵衛は小さく笑ったが、 胸の奥には、拭いきれぬざわめきが残っていた。
(……まさか、こんな神域にまで……)
だが、今はそれを振り払うように、
「さて、ここからは別宮巡りじゃ」と、藤兵衛は歩を進めた。
神の光と、影の気配。 静けさの中に、何かが潜んでいるような朝だった。




