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東海道中珍栗毛  作者: なごやかたろう
伊勢の光と、餅の音
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「神の朝、影の兆し」

まだ夜の気配が色濃く残る頃、 藤兵衛たちは温石おんじゃくを懐に忍ばせ、 旅籠をそっと後にした。


「さすがにこの時間なら、道も空いておるじゃろう」 と、藤兵衛が呟いたが——

「……あれ?」

「けっこう人がいますねぇ」 と、定吉が驚いたように言った。

「皆、同じことを考えておるのじゃな」 と、権兵衛が苦笑する。


旅籠の宿泊客の多くが、すでに支度を整え、 ぞろぞろと伊勢街道を歩いていた。

空はまだ深い藍色。

だが、歩く人々の足取りは軽く、 まるで神様に呼ばれているかのようだった。


やがて、左手に猿田彦神社の鳥居が見えてきた。

「道開きの神様、ですな」 と、権兵衛が静かに手を合わせる。

右手には、まだ薄闇に沈む鎮守の森が広がっていた。 木々の間からは、かすかに鳥のさえずりが聞こえる。

「……夜が明ける前の森というのは、なんとも言えぬ気配があるのう」 と、藤兵衛が呟いた。


しばらく歩くと、目の前に宇治橋が現れた。


「ここが……」

「おお、立派な橋ですな」

「この橋の向こうが、神様の御座所……」


橋のたもとには、すでに多くの人が集まり、 皆、大鳥居の方角を見つめていた。


「この鳥居の向こうから、朝日が昇るのだとか」 と、藤兵衛が言いながら、 懐の温石を手に握りしめる。

「冷えますねぇ……でも、なんか、空気が違います」 と、定吉が鼻をすんと鳴らす。

「神様の息吹、というやつかもしれんのう」 と、藤兵衛は空を見上げた。


やがて、空がほんのりと明るくなり始めた。

鳥居の向こう、森の向こう、 その奥から、金色の光がじわりと滲み出す。


「……来るぞ」 と、誰かが小さく呟いた。


そして——


太陽が、ゆっくりと顔を出した。


その光は、まるで神の手が夜を払い、 新たな一日を差し出すかのようだった。


「……これは……」

「……言葉が出ませんな」

「……すごい……」


三人は、ただただその光景に見入った。


だが——



そのとき、藤兵衛の目に、 太陽の中に、ぼんやりと浮かぶ人影が映った。


(……あれは……)

どこかで見たような、 赤ら顔の男の輪郭。


「……あっ」 思わず声が出そうになったが、 周囲の静けさに気づき、藤兵衛はぐっと堪えた。

「若旦那、どうされました?」 と、権兵衛が小声で尋ねる。

「……いや、なんでもない。ただ、弥次さんのような影が見えた気がしてのう」 と、藤兵衛もひそひそと返す。

「えっ、どこですか?」 と、定吉がきょろきょろと辺りを見回すが、 それらしき姿はどこにも見えなかった。

「……気のせい、ですかな」 と、権兵衛が言う。

「……そうであってくれれば、よいのじゃが」 と、藤兵衛は胸の奥に、小さなざわめきを抱えたまま、 再び顔を上げた。

「さて、ここからが本番じゃ」 と、藤兵衛は気を取り直し、内宮の正宮・皇大神宮へと歩を進めた。


神々の朝が、静かに始まろうとしていた。

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