表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
東海道中珍栗毛  作者: なごやかたろう
味噌の国、湯の山の空
45/59

「猪、空を駆け、鍋に入る」

「……ふぅ」 “綱渡り椅子”の終着点に到着した藤兵衛は、 ようやく地に足がついたことに、心からの安堵を覚えていた。

「やっぱり、椅子は地面に置くもんじゃのう…」 と、ぼそりと呟くと、

「若旦那、顔色が…」 と、権兵衛が心配そうにのぞき込む。

「わー、楽しかったですねー!」 と、定吉はまだ空の余韻に浸っていた。


そのとき、喜多さんが一目散に駆け出していく。

「弥次さーん! 無事かい!? 生きてるかい!?」


藤兵衛はその背中を見送りながら、

「……あの男のことじゃ、大丈夫じゃろう」 と、静かに藩境の方へと歩き出した。


藩境には、風雨に晒された石碑が一つ、 ぽつんと立っていた。


「ここから先は、別の藩か…」


石碑には、左右に異なる藩名が刻まれている。

だが、藤兵衛の目には、その境がどこか薄く、儚く映った。

(人も物も、もう藩の枠だけでは収まらぬ時代か…  

 鴨嘴に綱渡り箱、そして綱渡り椅子まで。

 商いも、旅も、どこまでも広がっていくのう)


風が吹き、木々がざわめく。

藤兵衛はしばし物思いにふけったが、 やがて陽の傾きを見て、ふと我に返った。


「さて、そろそろ戻るとしようか」 と、定吉と権兵衛に声をかけ、三人は来た道を引き返した。


“綱渡り椅子”の乗り場に戻ると、 猟師たちが談笑しているのが見えた。


「さっきの猪、見事なもんだったなぁ」

「おう、あんな暴れ方、久々に見たわ」

「落ちてた酔っ払いも無事だったしな」


「……やはり、止めを刺されたか」 と、藤兵衛は小さく頷いた。

「弥次さんも無事だったみたいですね」 と、定吉がほっとした顔で言う。

「まぁ、あの御仁は、なぜか運だけは強いからのう」 と、権兵衛も苦笑い。


帰りの“綱渡り椅子”は、霧が立ち込めていた。 眼下は白く霞み、何も見えない。

「これはこれで…不思議な感じですね」 と、定吉がぽつり。

「見えぬ方が、かえって怖いというのもあるのう…」 と、藤兵衛は棒を握る手に力を込めた。

「どうか、無事に帰れますように…」 と、権兵衛は目を閉じて祈っていた。


霧の中でも“綱渡り箱”と“綱渡り椅子”は一行を無事麓まで届けてくれた。

旅籠に戻ると、三人はすぐに温泉へ直行した。


「ふぅぅぅぅ……」 湯に浸かると、全身の力が抜けていく。

「今日も、まさかあの二人に遭遇するとはのう…」 と、藤兵衛がぽつり。

「しかも、空から猪に飛び乗るとは…」

「まさか、あれが伏線だったとは…」 と、権兵衛と定吉も、湯の中で今日の出来事を振り返っていた。


風呂上がり、夕餉の席に着くと、 女将が笑顔で鍋を運んできた。

「今夜は、僧兵鍋でございます。猪肉に、人参、大根、里芋、茸などを味噌で煮込んだものでして、このあたりでは昔から、力がつくと評判なんですよ」


「おお、これはうまそうじゃのう!」 と、藤兵衛は湯気の立つ鍋を見て、思わず顔をほころばせた。

三人で箸を伸ばし、

「うまい!」

「これは…滋味深い…」

「味噌がしみてますねぇ!」 と、口々に感想を述べていると——


「これって、もしかして…さっきの猪ですかね?」 と、定吉がぽつり。


女将はにっこりと笑って答えた。

「ええ、今日“綱渡り椅子”の下で捕獲された猪を使っておりますのよ」


三人の箸が、一瞬止まった。


脳裏に浮かぶ、赤ら顔で猪にまたがる男の姿。

「……あの御仁、今回は鍋になって役に立ったということで…」 と、権兵衛がぽつりと呟いた。

「初めて、実利をもたらした気がしますな」

それを聞いた藤兵衛も苦笑い。


だが、心の奥では、こうも思っていた。

(……これで、本当に終わりなのか?)

だが、その夜は、何事もなく更けていった。



翌朝。 三人が旅籠を出発しようとしたそのとき——


「きゃあああああああああああああああ!!」


女将の悲鳴が響いた。


「な、なんじゃ!?」 と、周囲の者たちとともに駆けつけると——


そこには、猪の被り物をかぶった男が、 両手を広げて仁王立ちしていた。


「わっはっは! これが俺様が仕留めた猪だ〜〜〜!!」 と、弥次さん。

「す、すみませんすみません! 朝からほんとすみません!」 と、喜多さんは女将に土下座寸前の勢いで平謝り。


「わ、若旦那…またですか…」 と、権兵衛が頭を抱え、

「朝から元気ですねぇ…」 と、定吉は感心していた。


藤兵衛はというと、 どこか遠い目をしながら、静かに回れ右をした。


「……では、行こうか」


こうして、騒がしい朝を背に、 三人は駅馬車乗り場へと向かっていった。


― 終 ―

書く際の励みになりますので、

よろしければ、評価やブックマーク、感想をお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ