「猪、空を駆け、鍋に入る」
「……ふぅ」 “綱渡り椅子”の終着点に到着した藤兵衛は、 ようやく地に足がついたことに、心からの安堵を覚えていた。
「やっぱり、椅子は地面に置くもんじゃのう…」 と、ぼそりと呟くと、
「若旦那、顔色が…」 と、権兵衛が心配そうにのぞき込む。
「わー、楽しかったですねー!」 と、定吉はまだ空の余韻に浸っていた。
そのとき、喜多さんが一目散に駆け出していく。
「弥次さーん! 無事かい!? 生きてるかい!?」
藤兵衛はその背中を見送りながら、
「……あの男のことじゃ、大丈夫じゃろう」 と、静かに藩境の方へと歩き出した。
藩境には、風雨に晒された石碑が一つ、 ぽつんと立っていた。
「ここから先は、別の藩か…」
石碑には、左右に異なる藩名が刻まれている。
だが、藤兵衛の目には、その境がどこか薄く、儚く映った。
(人も物も、もう藩の枠だけでは収まらぬ時代か…
鴨嘴に綱渡り箱、そして綱渡り椅子まで。
商いも、旅も、どこまでも広がっていくのう)
風が吹き、木々がざわめく。
藤兵衛はしばし物思いにふけったが、 やがて陽の傾きを見て、ふと我に返った。
「さて、そろそろ戻るとしようか」 と、定吉と権兵衛に声をかけ、三人は来た道を引き返した。
“綱渡り椅子”の乗り場に戻ると、 猟師たちが談笑しているのが見えた。
「さっきの猪、見事なもんだったなぁ」
「おう、あんな暴れ方、久々に見たわ」
「落ちてた酔っ払いも無事だったしな」
「……やはり、止めを刺されたか」 と、藤兵衛は小さく頷いた。
「弥次さんも無事だったみたいですね」 と、定吉がほっとした顔で言う。
「まぁ、あの御仁は、なぜか運だけは強いからのう」 と、権兵衛も苦笑い。
帰りの“綱渡り椅子”は、霧が立ち込めていた。 眼下は白く霞み、何も見えない。
「これはこれで…不思議な感じですね」 と、定吉がぽつり。
「見えぬ方が、かえって怖いというのもあるのう…」 と、藤兵衛は棒を握る手に力を込めた。
「どうか、無事に帰れますように…」 と、権兵衛は目を閉じて祈っていた。
霧の中でも“綱渡り箱”と“綱渡り椅子”は一行を無事麓まで届けてくれた。
旅籠に戻ると、三人はすぐに温泉へ直行した。
「ふぅぅぅぅ……」 湯に浸かると、全身の力が抜けていく。
「今日も、まさかあの二人に遭遇するとはのう…」 と、藤兵衛がぽつり。
「しかも、空から猪に飛び乗るとは…」
「まさか、あれが伏線だったとは…」 と、権兵衛と定吉も、湯の中で今日の出来事を振り返っていた。
風呂上がり、夕餉の席に着くと、 女将が笑顔で鍋を運んできた。
「今夜は、僧兵鍋でございます。猪肉に、人参、大根、里芋、茸などを味噌で煮込んだものでして、このあたりでは昔から、力がつくと評判なんですよ」
「おお、これはうまそうじゃのう!」 と、藤兵衛は湯気の立つ鍋を見て、思わず顔をほころばせた。
三人で箸を伸ばし、
「うまい!」
「これは…滋味深い…」
「味噌がしみてますねぇ!」 と、口々に感想を述べていると——
「これって、もしかして…さっきの猪ですかね?」 と、定吉がぽつり。
女将はにっこりと笑って答えた。
「ええ、今日“綱渡り椅子”の下で捕獲された猪を使っておりますのよ」
三人の箸が、一瞬止まった。
脳裏に浮かぶ、赤ら顔で猪にまたがる男の姿。
「……あの御仁、今回は鍋になって役に立ったということで…」 と、権兵衛がぽつりと呟いた。
「初めて、実利をもたらした気がしますな」
それを聞いた藤兵衛も苦笑い。
だが、心の奥では、こうも思っていた。
(……これで、本当に終わりなのか?)
だが、その夜は、何事もなく更けていった。
翌朝。 三人が旅籠を出発しようとしたそのとき——
「きゃあああああああああああああああ!!」
女将の悲鳴が響いた。
「な、なんじゃ!?」 と、周囲の者たちとともに駆けつけると——
そこには、猪の被り物をかぶった男が、 両手を広げて仁王立ちしていた。
「わっはっは! これが俺様が仕留めた猪だ〜〜〜!!」 と、弥次さん。
「す、すみませんすみません! 朝からほんとすみません!」 と、喜多さんは女将に土下座寸前の勢いで平謝り。
「わ、若旦那…またですか…」 と、権兵衛が頭を抱え、
「朝から元気ですねぇ…」 と、定吉は感心していた。
藤兵衛はというと、 どこか遠い目をしながら、静かに回れ右をした。
「……では、行こうか」
こうして、騒がしい朝を背に、 三人は駅馬車乗り場へと向かっていった。
― 終 ―
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