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東海道中珍栗毛  作者: なごやかたろう
味噌の国、湯の山の空
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「空の椅子と猪の背中」

旅籠でひと息ついた三人は、 女将の話を頼りに、“綱渡り箱”の駅を目指して歩き出した。

「この先、少し登ったところにございますよ」 と、女将が指さした先には、 山の斜面に沿って伸びる綱と、 その綱にぶら下がる箱の姿が見えた。


「おお、あれか…」 と、藤兵衛は思わず足を止めた。

「また空を渡るんですね!」 と、定吉は目を輝かせている。

「……若旦那、今からでも馬で行くという手も…」 と、権兵衛が小声で提案するが、

「いや、ここまで来たら乗らねばなるまい」 と、藤兵衛は覚悟を決めた。


“綱渡り箱”は、木製の頑丈な造りで、 中には腰掛けが三つ、窓が大きく取られていた。


「では、出発いたします」 と、係の者が声をかけると、 箱はぐぐぐ…と音を立てて動き出した。


最初はゆっくりだったが、 すぐにぐんぐんと高度を上げていく。


「うおっ……」 藤兵衛は、思わず座席の端を握りしめた。


そっと下をのぞくと、 木々の梢がどんどん小さくなり、 やがて人の姿も見えなくなった。


「……これは、なかなかの高さじゃのう……」 足がすくみ、背筋がひやりとする。

「わー! 見てください若旦那! 鳥の目線ですよ!」 と、定吉は窓に張りついて、きゃっきゃとはしゃいでいる。

「……揺れが……揺れが……」 と、権兵衛は眉間にしわを寄せ、 座席に深く腰を沈めていた。


眼下には、紅葉に染まる山々と、 遠くに霞む町並みが広がっていた。


(……これが地上から見えぬ景色か) と、藤兵衛は恐怖と感動の狭間で、 静かに息を呑んだ。


物凄く長く感じられた空の旅だったが、 実際には四半刻もかかっていなかった。


「……ふぅ、ようやく着いたか」 と、藤兵衛は地面に足をつけて、ほっと息をついた。

「いやぁ、あっという間でしたね!」 と、定吉はまだ名残惜しそうに空を見上げている。

「……わたしには、半刻どころか半日にも感じられましたぞ…」 と、権兵衛は肩を落としていた。


「さて、いよいよ“綱渡り椅子”じゃな」 と、藤兵衛が札売り場へ向かうと、 そこには見覚えのある赤ら顔の男と、 それをたしなめる苦労人の男の姿があった。


「弥次さん、そんなに酔っぱらっては危ないって、 乗ってる間に落ちちゃうよ?」

「なにおう? だ~い丈夫! 椅子に座るだけだろ? わしはな、座るのは得意なんだよぉ~」


「……また、おったか」 と、藤兵衛は額に手を当てた。


「大丈夫なんですかね…」 と、権兵衛が眉をひそめ、

「落ちたらどうするんでしょう…」 と、定吉も心配そうに呟く。


札を買い求めると、どうやら弥次さん喜多さんのすぐあとに乗ることになるらしい。


「……これは、何かが起きる予感しかしないのう」 と、藤兵衛は深くため息をついた。


やがて、綱渡り椅子が一脚ずつ、空から滑るようにやってきた。


「おお…これが…」


椅子は、上空の綱に吊られた一本の棒にぶら下がっており、 背もたれも手すりもない、ただの椅子である。


「……これ、ほんとうに座るだけなのか?」

「はい! 風が気持ちいいらしいですよ!」 と、定吉は目を輝かせている。

「若旦那、手を離したら…」

「落ちるな」

「……ですよね」


まずは弥次さんが、ふらふらと乗り込む。

「おお~、高い高い! 見ろ、わしは鳥になったぞぉ~!」

「弥次さん、ちゃんと棒、握っててよ!」 と、喜多さんが後ろから叫ぶ。

続いて喜多さん、藤兵衛、定吉、権兵衛の順に乗り込み、 空の旅が始まった。

風が頬を撫で、眼下には木々の海が広がる。

遠くには山の稜線、近くには渓流のきらめき。

まるで空中散歩のような光景に、藤兵衛は思わず見入った。

(……これは、確かに風情があるのう)


だが、椅子には壁も囲いもなく、 上の棒にしがみついていなければ、即、落下である。


「……風情と命の綱渡りは、紙一重じゃな」


そんな中、後ろからは定吉の声が響く。

「わー! すごいすごい! 鳥になった気分ですー!」


「……この子は、どこまで無邪気なのじゃ」 と、藤兵衛は苦笑した。


そのとき、前方から声が聞こえた。


「弥次さ~ん、大丈夫?」

「だ~い丈夫! わしはな、こう見えても高いところは得意なんだよ!」

「いや、見えてる通りだと思うけど…」 と、喜多さんの声が風に乗って届く。


ふと下を見ると、一頭の猪が、 山道をフゴフゴと駆けているのが見えた。

「おうおうおう、な~にフゴフゴ言ってるんだ! わしにケンカ売ってんのかぁ!?」

「え、弥次さん!? やめて、まさか…」

その“まさか”が、現実になった。

「いっけぇぇ!」

その声とともに、弥次さんは綱渡り椅子の棒から手を離し、 ふわりと宙に舞った。

「弥次さぁぁぁん!?」 喜多さんの絶叫が、山間にこだまする。

藤兵衛は思わず目を見開いた。

「ま、またか……!」


空中でくるりと一回転した弥次さんは、 まるで酔いどれの天狗のように、ふわふわと落下し——


ズドンッ!


見事、猪の背中にまたがって着地した。


「フゴォォォォォ!!」 猪は驚愕の咆哮を上げ、 そのまま暴走を始めた。

「おおおおお!?走るな走るな!いや、走れ!でも真っ直ぐ行けぇぇぇ!!」 と、弥次さんは猪の背中で必死に手綱のない手綱を握る。


「なんで乗れるんですかあの人!?」 と、定吉が目を丸くする。

「いや、むしろなぜ乗ったのかを問いたい…」 と、権兵衛が頭を抱える。


猪は山道を駆け抜け、 そのまま大岩に向かって一直線!


「やめろぉぉぉ! そっちはダメだってばぁぁぁ!!」 弥次さんの叫びもむなしく、 猪はドガァン!と岩に激突。


その衝撃で、弥次さんはふわりと宙を舞い、 くるくると回転しながら、ふかふかの落ち葉の上にドサリと落ちた。


「ぐお〜〜〜〜〜〜……」


鼾をかきながら、気絶とも熟睡ともつかぬ状態で転がる弥次さん。

猪はというと、岩に頭をぶつけてその場でぐったりしていた。


「……なんというか、あの御仁は、落ちるよりも、落ち着きがないのう」 と、藤兵衛は遠い目をして呟いた。

「若旦那、あれ…助けに行かなくてよろしいのですか?」 と、権兵衛が心配そうに言う。

「いや、あれは…放っておいても、大丈夫だろう」 と、藤兵衛は静かに言った。

「わぁ〜、あんな風に乗り物から飛び降りるなんて、すごいなぁ!」 と、定吉は純粋に感動していた。

「……真似しちゃダメだぞ」 と、藤兵衛は念のため釘を刺した。


空の旅は、再び静けさを取り戻し、 綱渡り椅子はゆっくりと藩境の駅へと滑り込んでいった。


だが、藤兵衛の胸には、 「次は何が起きるのか」という静かな覚悟が芽生えていた。

(旅とは、かくも予測不能なものか…  いや、あの二人がいる限り、予測など無意味かもしれぬのう)

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