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東海道中珍栗毛  作者: なごやかたろう
味噌の国、湯の山の空
42/52

「鴨嘴に揺られて、味噌の香りと湯の誘い」

「さぁ、出発じゃ」

藤兵衛、権兵衛、定吉の三人は、札を手に鴨嘴の乗り場へと向かった。


鴨嘴とは、近年登場した新型の高速馬車。 鉄の綱の上を滑るように走るその姿は、まるで水鳥の嘴のように流麗で、 その名もそこから来ているという。


「名古屋までは二刻もかからぬそうですぞ」 と、権兵衛が言えば、

「えっ、そんなに早いんですか!?」 と、定吉が目を輝かせる。


乗り込んだ車内は、木の香りがほのかに漂い、 座席は柔らかく、窓も大きく取られていた。


「これは…なかなか快適じゃのう」 と、藤兵衛は感心しながら腰を下ろした。


やがて、鴨嘴は軽やかな音を立てて動き出す。

ぐんぐんと加速し、町並みがすうっと後ろへ流れていく。


「おお…これは、まるで風に乗っておるようじゃ」 と、藤兵衛が窓の外を眺めていると、 売り子が通路をゆっくりと進んできた。


「お茶と団子、いかがですか~」


「おお、それはありがたい」


三人はそれぞれ、熱い茶と串団子を所望した。


「旅の途中で食べる団子は、また格別ですな」 と、権兵衛が頬を緩める。

「うんまいです!」 と、定吉は口の端に餡をつけながら、もぐもぐと頷いていた。


団子を食べ、茶をすすり、 心地よい揺れに身を任せていると——


「……ふむ……」


藤兵衛は、いつの間にかまどろみに落ちていた。


「若旦那! 右側に富士山です!」 定吉の声に、藤兵衛と権兵衛ははっと目を覚ました。


「な、なんじゃと!?」

「どれどれ…」


右手の窓の外には、雪をいただいた富士の姿が、 くっきりと浮かび上がっていた。


「おお……これは見事じゃ…」

「まさか、こんな近くに見えるとは…」


だが、鴨嘴の速さは容赦ない。 富士の姿は、あっという間に遠ざかっていった。


「いやはや、凄いものですな」 と、権兵衛がしみじみと呟けば、

「速い速い! もっと見ていたかったなぁ」 と、定吉は名残惜しそうに窓に張り付いていた。


やがて、鴨嘴は名古屋の駅に滑り込んだ。

三人は荷物をまとめ、下車の準備を始める。


「忘れ物はないかのう?」

「はいっ!」 と、定吉は元気よく返事をし、

「帳面、印判、見積もり書…よし、すべて確認済みです」 と、権兵衛も抜かりない。


一行は、尾州の毛織物問屋へと向かった。


問屋では、まずは丁寧な挨拶から始まる。


「これはこれは、海月屋の若旦那。ようこそお越しくださいました」

「こちらこそ、変わらぬご厚情、ありがたく存じます」


商談は、互いの信頼を土台に、粛々と進められた。

今年の織りの出来、出荷の時期、価格の調整、そして来年の展望。

藤兵衛は、相手の言葉に耳を傾けながら、 必要なところではしっかりと意見を述べ、 商いの芯を見せていく。


「では、今年も例年通りの数量で。  ただ、来年は少し新しい柄も加えてみようかと」

「それは楽しみですな。うちの職人も張り切ることでしょう」


無事に商談をまとめ終えた藤兵衛は、 ほっと一息つきながら、茶を一口。


「ところで、若旦那。お昼はもう召し上がりましたか?」

「いえ、まだでございます」

「では、ぜひご一緒に。名古屋名物の味噌煮込みうどんがございます」


案内された店では、土鍋から湯気が立ちのぼり、 味噌の香りが食欲をそそった。


「これは…うまそうじゃのう」


あつあつのうどんをすすり、合間に漬物をつまみ、 最後は熱い茶で締めくくる。


「うむ、うまい」 と、藤兵衛が素直に感想を述べると、 問屋の主も、店の店主も、顔を綻ばせた。


「そういえば、先日、日ノ本一高い温泉に行ってまいりましてな」 と、藤兵衛が話すと、問屋の主が目を輝かせた。

「それはまた…では、湯の山温泉はご存じですか?」

「湯の山?」

「ええ、ここから少し足を延ばせば、良い湯がございます。 山の中腹に湧く、静かな温泉地でしてな」

「ほう…それは興味深い」


詳しく話を聞くうちに、藤兵衛の心はすっかり湯の山へと傾いていた。


「では、せっかくの機会。少し足を延ばしてみるかのう」 と、藤兵衛は笑った。


——あの二人に遭遇するとも知らずに。

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