「鴨嘴に揺られて、味噌の香りと湯の誘い」
「さぁ、出発じゃ」
藤兵衛、権兵衛、定吉の三人は、札を手に鴨嘴の乗り場へと向かった。
鴨嘴とは、近年登場した新型の高速馬車。 鉄の綱の上を滑るように走るその姿は、まるで水鳥の嘴のように流麗で、 その名もそこから来ているという。
「名古屋までは二刻もかからぬそうですぞ」 と、権兵衛が言えば、
「えっ、そんなに早いんですか!?」 と、定吉が目を輝かせる。
乗り込んだ車内は、木の香りがほのかに漂い、 座席は柔らかく、窓も大きく取られていた。
「これは…なかなか快適じゃのう」 と、藤兵衛は感心しながら腰を下ろした。
やがて、鴨嘴は軽やかな音を立てて動き出す。
ぐんぐんと加速し、町並みがすうっと後ろへ流れていく。
「おお…これは、まるで風に乗っておるようじゃ」 と、藤兵衛が窓の外を眺めていると、 売り子が通路をゆっくりと進んできた。
「お茶と団子、いかがですか~」
「おお、それはありがたい」
三人はそれぞれ、熱い茶と串団子を所望した。
「旅の途中で食べる団子は、また格別ですな」 と、権兵衛が頬を緩める。
「うんまいです!」 と、定吉は口の端に餡をつけながら、もぐもぐと頷いていた。
団子を食べ、茶をすすり、 心地よい揺れに身を任せていると——
「……ふむ……」
藤兵衛は、いつの間にかまどろみに落ちていた。
「若旦那! 右側に富士山です!」 定吉の声に、藤兵衛と権兵衛ははっと目を覚ました。
「な、なんじゃと!?」
「どれどれ…」
右手の窓の外には、雪をいただいた富士の姿が、 くっきりと浮かび上がっていた。
「おお……これは見事じゃ…」
「まさか、こんな近くに見えるとは…」
だが、鴨嘴の速さは容赦ない。 富士の姿は、あっという間に遠ざかっていった。
「いやはや、凄いものですな」 と、権兵衛がしみじみと呟けば、
「速い速い! もっと見ていたかったなぁ」 と、定吉は名残惜しそうに窓に張り付いていた。
やがて、鴨嘴は名古屋の駅に滑り込んだ。
三人は荷物をまとめ、下車の準備を始める。
「忘れ物はないかのう?」
「はいっ!」 と、定吉は元気よく返事をし、
「帳面、印判、見積もり書…よし、すべて確認済みです」 と、権兵衛も抜かりない。
一行は、尾州の毛織物問屋へと向かった。
問屋では、まずは丁寧な挨拶から始まる。
「これはこれは、海月屋の若旦那。ようこそお越しくださいました」
「こちらこそ、変わらぬご厚情、ありがたく存じます」
商談は、互いの信頼を土台に、粛々と進められた。
今年の織りの出来、出荷の時期、価格の調整、そして来年の展望。
藤兵衛は、相手の言葉に耳を傾けながら、 必要なところではしっかりと意見を述べ、 商いの芯を見せていく。
「では、今年も例年通りの数量で。 ただ、来年は少し新しい柄も加えてみようかと」
「それは楽しみですな。うちの職人も張り切ることでしょう」
無事に商談をまとめ終えた藤兵衛は、 ほっと一息つきながら、茶を一口。
「ところで、若旦那。お昼はもう召し上がりましたか?」
「いえ、まだでございます」
「では、ぜひご一緒に。名古屋名物の味噌煮込みうどんがございます」
案内された店では、土鍋から湯気が立ちのぼり、 味噌の香りが食欲をそそった。
「これは…うまそうじゃのう」
あつあつのうどんをすすり、合間に漬物をつまみ、 最後は熱い茶で締めくくる。
「うむ、うまい」 と、藤兵衛が素直に感想を述べると、 問屋の主も、店の店主も、顔を綻ばせた。
「そういえば、先日、日ノ本一高い温泉に行ってまいりましてな」 と、藤兵衛が話すと、問屋の主が目を輝かせた。
「それはまた…では、湯の山温泉はご存じですか?」
「湯の山?」
「ええ、ここから少し足を延ばせば、良い湯がございます。 山の中腹に湧く、静かな温泉地でしてな」
「ほう…それは興味深い」
詳しく話を聞くうちに、藤兵衛の心はすっかり湯の山へと傾いていた。
「では、せっかくの機会。少し足を延ばしてみるかのう」 と、藤兵衛は笑った。
——あの二人に遭遇するとも知らずに。




