「イの一から始まる、またしても」
冬の気配が、じわりと町を包み始めた。
深川の空気もどこか澄み、朝の市場には白い息が立ちのぼる。
海月屋の店先では、番頭の権兵衛が帳簿を片手に、
「この荷は明日、あちらの蔵へ。こっちは年内に納めねば…」 と、丁稚の定吉に指示を飛ばしていた。
「はいっ、承知しました!」 と、定吉は元気よく返事をしながら、荷札を結び直す。
藤兵衛はというと、帳場に座りながら、 次々と届く書状に目を通し、筆を走らせていた。
(尾州の毛織物は、今年も動きが早い。あちらの問屋とも顔を合わせておかねばなるまい)
商いの世界は、季節の移ろいとともに変わる。 冬物の仕入れ、年末の支払い、そして新年の準備。 気を抜けば、すぐに波に飲まれてしまう。
それでも、藤兵衛はこの時期が嫌いではなかった。 忙しさの中に、商いの手応えがある。 そして、旅に出る口実もまた、自然と生まれる。
「若旦那、名古屋行きの札、手配できましたぞ」 と、権兵衛が戻ってきた。
「おお、早かったのう。で、札は?」
「こちらです」
差し出された札には、「イの一」の文字が。
「……イの一、か」
藤兵衛は、ふと遠い目をした。
(そういえば、初めてあの二人に出会ったのも、イの一だったな…)
(箱根へ向かったときも、確か…)
「わーい! またイの一ですか! あれ、乗り心地いいんですよね!」 と、定吉がはしゃぐ。
「名古屋まで、どのくらいかかるんでしょうな…」 と、権兵衛は札の裏を見ながら呟く。
藤兵衛は、二人のやり取りを聞きながら、 心の奥に、期待と不安がないまぜになった感情を抱えていた。
(まさか、また…いや、さすがに今回は…)
だが、旅というものは、何が起こるかわからぬ。
ましてや、あの二人が関わるとなれば——
「まぁ、なるようになるか」 と、藤兵衛は小さく笑い、旅支度を整えるために立ち上がった。




