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東海道中珍栗毛  作者: なごやかたろう
味噌の国、湯の山の空
41/51

「イの一から始まる、またしても」

冬の気配が、じわりと町を包み始めた。

深川の空気もどこか澄み、朝の市場には白い息が立ちのぼる。


海月屋の店先では、番頭の権兵衛が帳簿を片手に、

「この荷は明日、あちらの蔵へ。こっちは年内に納めねば…」 と、丁稚の定吉に指示を飛ばしていた。

「はいっ、承知しました!」 と、定吉は元気よく返事をしながら、荷札を結び直す。


藤兵衛はというと、帳場に座りながら、 次々と届く書状に目を通し、筆を走らせていた。

(尾州の毛織物は、今年も動きが早い。あちらの問屋とも顔を合わせておかねばなるまい)


商いの世界は、季節の移ろいとともに変わる。 冬物の仕入れ、年末の支払い、そして新年の準備。 気を抜けば、すぐに波に飲まれてしまう。


それでも、藤兵衛はこの時期が嫌いではなかった。 忙しさの中に、商いの手応えがある。 そして、旅に出る口実もまた、自然と生まれる。


「若旦那、名古屋行きの札、手配できましたぞ」 と、権兵衛が戻ってきた。


「おお、早かったのう。で、札は?」

「こちらです」


差し出された札には、「イの一」の文字が。


「……イの一、か」


藤兵衛は、ふと遠い目をした。

(そういえば、初めてあの二人に出会ったのも、イの一だったな…)

(箱根へ向かったときも、確か…)


「わーい! またイの一ですか! あれ、乗り心地いいんですよね!」 と、定吉がはしゃぐ。

「名古屋まで、どのくらいかかるんでしょうな…」 と、権兵衛は札の裏を見ながら呟く。


藤兵衛は、二人のやり取りを聞きながら、 心の奥に、期待と不安がないまぜになった感情を抱えていた。

(まさか、また…いや、さすがに今回は…)

だが、旅というものは、何が起こるかわからぬ。

ましてや、あの二人が関わるとなれば——


「まぁ、なるようになるか」 と、藤兵衛は小さく笑い、旅支度を整えるために立ち上がった。

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