「雪原の舞と、湯けむりの帰還」
湯にたっぷりと浸かり、冷えた体も心もすっかり温まった藤兵衛一行。
「さて、腹も減ったのう」 と、湯上がりの火照った頬を扇ぎながら、
温泉に併設された食堂へと足を運んだ。
「熱いうどんがあるそうですぞ」
「おお、それはありがたい」
三人は席に着き、湯気の立つうどんをすすりながら、
「いやぁ、雷鳥に温泉、まさに極楽でしたな」
「この旅、今のところ何も起きてないのが不思議なくらいですね」 と、和やかに語らっていた。
そのとき——
ふと隣の机に目をやった藤兵衛の目に飛び込んできたのは、 顔を真っ赤に染め、湯呑に見せかけた徳利を傾ける男の姿。
「……弥次さん……」
「呑みすぎだって、そろそろやめなよ、弥次さん」 と、隣で心底心配そうに声をかける喜多さん。
だが、弥次さんは鼻を鳴らして立ち上がると、
「なにおう、よし、酔ってないことを証明してやる!」 と、叫び、突如として外へ駆け出した。
「ちょ、ちょっと待ってよ、弥次さん!」 と、慌てて追いかける喜多さん。
「な、なんじゃ、また始まったか…」 と、藤兵衛は湯呑を置き、窓際へと歩み寄った。
窓の外には、雪の上を全力疾走する弥次さんの姿。
足を高く上げ、まるで駿馬のごとく駆け抜けている。
「おお…意外と速いではないか…」 と、藤兵衛が感心していると——
「弥次さん、止まってぇぇぇ!」 という喜多さんの叫び声が響いた。
弥次さんが振り返った、その瞬間——
ズルッ! ツルンッ! ドボーンッ!!
「ぎゃああああああああああああああああああっ!!!」
雪を割って池に落ちた弥次さんの叫びが、山頂の空にこだました。
バシャバシャと水しぶきが上がり、池の水面が大きく揺れる。
「弥次さん! あんた何やってんのさ!」 と、喜多さんが駆け寄り、
「し、しぬぅぅ…」
池の中でバシャバシャと暴れる弥次さん。
その様子は、まるで水面に浮かぶ巨大な赤ら顔の魚のようであった。
「だから言ったじゃないか、寒中水泳なんてやめとけって!」
と、喜多さんが叫びながら、池の縁に身を乗り出し、
「ほら、手を出して! 引っ張るよ!」
「うぅ…手が…手が…しびれて動かん…」
「動かさないと本当にしぬよ!」
なんとか片腕を掴み、ぐいっと引き上げると、
弥次さんはずぶ濡れのまま、雪の上に転がり出た。
「さ、寒い~~~~っ!!」
その叫びとともに、弥次さんは起き上がるや否や、
「もう無理! 無理無理! 無理無理無理無理無理無理無理無理!!」
叫びながら、弥次さんはびしょ濡れのまま温泉宿へと駆け戻ってきた。
その姿は、まるで湯けむりの中に飛び込む雪男。
入口の戸を勢いよく開け放ち、湯殿へと一直線。
「おい、弥次さん!? 服のまま入る気かい!?」
「もう脱いでる暇なんてない! 命が先だ命が!!」
ザッパーン!!
豪快な水音とともに、弥次さんはそのまま湯船にダイブ。
湯が跳ね、周囲の客が「うわっ」と声を上げる。 湯殿は一瞬、騒然となった。
だが、藤兵衛はというと—— 湯気の向こうからその様子を見届けながら、
「……やはり、こうなったか」 と、ため息まじりに呟いた。
番頭は眉をひそめ、 「まったく、あの方は…」
定吉は目を丸くして、 「すごい…あんな入り方、初めて見ました…」
藤兵衛は、湯呑を手にしながら静かに言った。
「まぁ、あの二人の旅に“平穏無事”などという言葉は似合わぬものよ」
喜多さんが湯殿の外から頭を抱えているのが見えた。
「すみません、すみません、すぐに出しますんで…!」 と、宿の者に平謝りしている。
だが、弥次さんは湯の中で 「はぁ~~~、極楽極楽……」 と、すっかり満足げな顔で浮かんでいた。
(……ま、元気ならよいか)
藤兵衛は、そんな弥次さんの姿に苦笑しながら、 番頭と定吉を促して、富山行きの馬車乗り場へと向かった。
雪を踏みしめながら歩く道すがら、 定吉がぽつりとつぶやいた。
「なんだかんだで、あの人たちがいると旅が面白くなりますね」
「うむ。まこと、珍道中とは、あの二人のためにある言葉かもしれぬのう」 と、藤兵衛は空を見上げた。
雲の切れ間から、陽が差し込む。
その光は、雪を照らし、まるで旅の終わりを祝福するかのようだった。
― 終 ―
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