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東海道中珍栗毛  作者: なごやかたろう
蕎麦と薬と、雲の上の湯
35/43

「雪原の舞と、湯けむりの帰還」

湯にたっぷりと浸かり、冷えた体も心もすっかり温まった藤兵衛一行。

「さて、腹も減ったのう」 と、湯上がりの火照った頬を扇ぎながら、

温泉に併設された食堂へと足を運んだ。


「熱いうどんがあるそうですぞ」

「おお、それはありがたい」


三人は席に着き、湯気の立つうどんをすすりながら、

「いやぁ、雷鳥に温泉、まさに極楽でしたな」

「この旅、今のところ何も起きてないのが不思議なくらいですね」 と、和やかに語らっていた。


そのとき——


ふと隣の机に目をやった藤兵衛の目に飛び込んできたのは、 顔を真っ赤に染め、湯呑に見せかけた徳利を傾ける男の姿。


「……弥次さん……」


「呑みすぎだって、そろそろやめなよ、弥次さん」 と、隣で心底心配そうに声をかける喜多さん。

だが、弥次さんは鼻を鳴らして立ち上がると、


「なにおう、よし、酔ってないことを証明してやる!」 と、叫び、突如として外へ駆け出した。

「ちょ、ちょっと待ってよ、弥次さん!」 と、慌てて追いかける喜多さん。


「な、なんじゃ、また始まったか…」 と、藤兵衛は湯呑を置き、窓際へと歩み寄った。

窓の外には、雪の上を全力疾走する弥次さんの姿。

足を高く上げ、まるで駿馬のごとく駆け抜けている。


「おお…意外と速いではないか…」 と、藤兵衛が感心していると——


「弥次さん、止まってぇぇぇ!」 という喜多さんの叫び声が響いた。


弥次さんが振り返った、その瞬間——


ズルッ! ツルンッ! ドボーンッ!!

「ぎゃああああああああああああああああああっ!!!」

雪を割って池に落ちた弥次さんの叫びが、山頂の空にこだました。


バシャバシャと水しぶきが上がり、池の水面が大きく揺れる。

「弥次さん! あんた何やってんのさ!」 と、喜多さんが駆け寄り、

「し、しぬぅぅ…」


池の中でバシャバシャと暴れる弥次さん。

その様子は、まるで水面に浮かぶ巨大な赤ら顔の魚のようであった。


「だから言ったじゃないか、寒中水泳なんてやめとけって!」

と、喜多さんが叫びながら、池の縁に身を乗り出し、

「ほら、手を出して! 引っ張るよ!」


「うぅ…手が…手が…しびれて動かん…」

「動かさないと本当にしぬよ!」


なんとか片腕を掴み、ぐいっと引き上げると、

弥次さんはずぶ濡れのまま、雪の上に転がり出た。


「さ、寒い~~~~っ!!」


その叫びとともに、弥次さんは起き上がるや否や、


「もう無理! 無理無理! 無理無理無理無理無理無理無理無理!!」


叫びながら、弥次さんはびしょ濡れのまま温泉宿へと駆け戻ってきた。

その姿は、まるで湯けむりの中に飛び込む雪男。

入口の戸を勢いよく開け放ち、湯殿へと一直線。


「おい、弥次さん!? 服のまま入る気かい!?」

「もう脱いでる暇なんてない! 命が先だ命が!!」


ザッパーン!!


豪快な水音とともに、弥次さんはそのまま湯船にダイブ。

湯が跳ね、周囲の客が「うわっ」と声を上げる。 湯殿は一瞬、騒然となった。


だが、藤兵衛はというと—— 湯気の向こうからその様子を見届けながら、

「……やはり、こうなったか」 と、ため息まじりに呟いた。


番頭は眉をひそめ、 「まったく、あの方は…」

定吉は目を丸くして、 「すごい…あんな入り方、初めて見ました…」


藤兵衛は、湯呑を手にしながら静かに言った。

「まぁ、あの二人の旅に“平穏無事”などという言葉は似合わぬものよ」


喜多さんが湯殿の外から頭を抱えているのが見えた。

「すみません、すみません、すぐに出しますんで…!」 と、宿の者に平謝りしている。

だが、弥次さんは湯の中で 「はぁ~~~、極楽極楽……」 と、すっかり満足げな顔で浮かんでいた。

(……ま、元気ならよいか)

藤兵衛は、そんな弥次さんの姿に苦笑しながら、 番頭と定吉を促して、富山行きの馬車乗り場へと向かった。


雪を踏みしめながら歩く道すがら、 定吉がぽつりとつぶやいた。

「なんだかんだで、あの人たちがいると旅が面白くなりますね」

「うむ。まこと、珍道中とは、あの二人のためにある言葉かもしれぬのう」 と、藤兵衛は空を見上げた。

雲の切れ間から、陽が差し込む。

その光は、雪を照らし、まるで旅の終わりを祝福するかのようだった。


― 終 ―

書き溜めた分が尽きたので、毎日投稿はここで終了します。

連休の際にまた書くのに励みになりますので、

よろしければ、評価やブックマーク、感想をお待ちしております。



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