「雪と湯気と、寒中水泳の誘惑」
黒部の駅を出ると、目の前に広がるのは、 石の壁で堰き止められた巨大な人工湖。
その水面は、冬の空を映して静かに揺れていた。
「おお…これはまた…」 と、藤兵衛は思わず息を呑んだ。
「人の手で、これほどの湖を作るとは…まこと、現代の築城術も侮れぬのう」
だが、感動も束の間。
「さ、寒い…」 と、藤兵衛はぶるりと身を震わせた。
「これはもう、茶でも飲まねば凍えてしまうわい」
ちょうどよく、湖畔に小さな茶屋を見つけた。
「おうい、番頭、定吉。あそこで一服していこうぞ」
三人は茶屋に入り、すぐさま熱い茶を頼んだ。
湯気の立つ湯呑を手に取ると、 「ふぅ…生き返るのう…」 と、藤兵衛は腹の底から安堵の息をついた。
「やっぱり、こういうときは茶に限りますな」 と、番頭も頷き、
「お腹すいてきました! なんか食べましょうよ!」 と、定吉が目を輝かせた。
「うむ、では…温かい肉饅頭でも頼むか」
やがて運ばれてきた肉饅頭は、湯気を立ててふっくらと膨らんでいた。
「おお、これは…うまい!」
「中の餡がじゅわっとしてます!」
「うむ、寒さも吹き飛ぶ味じゃ」
と、三人がほくほくと頬張っていると——
「か~っ、やっぱり寒いときには酒に限る! なあ、喜多さん!」
「いやいや、熱燗じゃなくて茶にしておきなさいよ、弥次さん…」
隣の茶屋から、またしても聞き覚えのある声が響いてきた。
藤兵衛は、湯呑を持つ手をぴたりと止めた。
(……また、あの二人か)
声の主は、やはり弥次さんと喜多さん。
どうやら弥次さんは、寒さを酒で吹き飛ばそうとしているらしい。
「ここはひとつ、寒中水泳と行くか、喜多さんや!」
「いや、そんなことしたら心臓が止まるから! やめなさいってば!」
「……やはり、やらかす気満々じゃないか」 と、藤兵衛は額を押さえた。
(まったく、あの男は…寒さで頭まで凍ったか)
だが、喜多さんの冷静なツッコミに、少しだけ安心する。
(うむ、あの男がいれば、最悪の事態は避けられよう…たぶん)
気を取り直し、茶屋で温石を新しいものに交換してもらい、 一行は“綱渡り箱”の駅へと向かった。
「さぁ、いよいよ山頂じゃ。気を引き締めていくぞ」
“綱渡り箱”は、箱根で乗ったものと同じく、空を渡る箱。
だが、ここは標高が違う。風も強く、寒さも一段と厳しい。
「うぅ…またこれに乗るのか…」 と、番頭はすでに顔が青い。
藤兵衛も、懐の温石をぎゅっと握りしめながら、
「風が吹けば揺れるしのう…」 と、心の準備を整える。
箱が動き出すと、眼下には一面の雪景色。
山々は白く染まり、まるで冬の絵巻物のように広がっていた。
「うわぁ! 雪だ雪だ! すごい! 秋なのに雪があるなんて!」 と、定吉は窓に張りついて大はしゃぎ。
「こら、あまり動くでない! 揺れるではないか!」 と、番頭が慌てて制する。
藤兵衛は、雪に包まれた山々を見下ろしながら、 「まるで、雲の上を進んでおるようじゃのう…」 と、感嘆の声を漏らした。
寒さに震えながらも、心はどこか温かい。
旅の終わりに近づくにつれ、藤兵衛の胸には、 またひとつ、忘れがたい景色が刻まれていった。




