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東海道中珍栗毛  作者: なごやかたろう
蕎麦と薬と、雲の上の湯
32/46

「とろり~馬車、山の腹にて声がする」

信州での商談を終えた藤兵衛一行は、 “とろり~馬車”の発着所があるという扇沢へ向かうべく、

扇沢行きの馬車発着場の近くの旅籠に一泊することにした。


「明日は山越えじゃ。しっかり休んで備えるのじゃぞ」 と、

藤兵衛が声をかけると、旅籠の女将が心配そうに口を挟んだ。


「お客人、あちらへ向かわれるなら、真冬の装いがよろしゅうございますよ。 あの辺りは、秋でも雪がちらつくことがございますゆえ」


「なに、雪とな…」


一行は慌てて近くの店で半纏を買い求め、 夜のうちに温石おんじゃくを用意して、懐に忍ばせた。

翌朝。 まだ陽も昇りきらぬうちに、旅籠を出た三人。

吐く息は白く、空気はぴんと張りつめていた。


「さ、寒い…」 と、番頭の権兵衛は肩をすぼめ、口数も少ない。

一方、定吉はというと、 「うわぁ、息が白い! 雪、降るかなぁ!」 と、

元気いっぱいに跳ね回っていた。

藤兵衛も、懐の温石に手を当てながら、 「まったく、若さとはありがたいものよのう…」 と、苦笑い。


やがて、扇沢行きの馬車がやってきた。

冷え切った車内に乗り込むと、藤兵衛と番頭は身を縮こまらせ、

「うぅ…この寒さ、骨に染みるわい…」 と、ぶるぶる震える。

半刻ほど揺られ、ようやく扇沢に到着。

馬車を降りると、さらに冷気が肌を刺すように吹きつけた。

「こ、これは…まさに冬じゃ…」 と、藤兵衛は温石を握りしめながら、“とろり~馬車”の切符売り場へ向かった。


朝一番の到着だったこともあり、手にした切符には—— 「イの一」 の文字。


「……むむ、これは……」


藤兵衛は、思わず周囲を見渡した。

(まさか、またあの二人が…)


だが、見えるのは山の景色と、ちらほらと並ぶ旅人たち。

あの赤ら顔も、のんびりした声も、今のところは見当たらない。


「ふぅ…いや、今回はおらぬか。よきことじゃ…いや、少し寂しいような……」


複雑な思いを胸に、乗車場へと向かう。 そこに待っていたのは、鴨嘴とは異なる、

ずんぐりとした一両編成の箱。


「おお、これはまた…まるで山の中の駕籠じゃな」 と、藤兵衛が呟くと、定吉がはしゃいで言った。 「“とろり~馬車”って名前、なんかかわいいですね!」

「名前に似合わず、寒さはとろけぬがのう…」 と、番頭が震えながら返す。


やがて、箱が静かに動き出す。

“とろり~馬車”は、山の腹をくり抜いた洞窟の中を、ゆっくりと進んでいく。

ところどころ、松明が灯されており、 その揺れる光が岩肌を照らし、まるで異世界を旅しているかのよう。


「これは…不思議な乗り心地じゃ。音も静かで、まるで夢の中を進んでおるようじゃのう」

「ほんとだ…なんか、探検してるみたいです!」

三人は、寒さも忘れてしばし盛り上がった。

やがて、黒部ダムの駅に到着し、箱を降りる。

「おお…ここが黒部か。見事な石の壁じゃ」 と、藤兵衛が感心していると——


「おい、喜多さん、見てみろよ! この岩、顔に見えねぇか?」

「弥次さん、それはどう見てもただの岩だよ…」


……どこかで聞いたことのある、騒がしい声。


藤兵衛は、ゆっくりと振り返った。

後続の“とろり~馬車”が到着し、扉が開いたその先に


—— 見覚えのある二人組の姿が、霧のように現れた。


「……やはり、イの一は逃れられぬ運命かのう……」


藤兵衛は、温石を握りしめたまま、静かにため息をついた。

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