「とろり~馬車、山の腹にて声がする」
信州での商談を終えた藤兵衛一行は、 “とろり~馬車”の発着所があるという扇沢へ向かうべく、
扇沢行きの馬車発着場の近くの旅籠に一泊することにした。
「明日は山越えじゃ。しっかり休んで備えるのじゃぞ」 と、
藤兵衛が声をかけると、旅籠の女将が心配そうに口を挟んだ。
「お客人、あちらへ向かわれるなら、真冬の装いがよろしゅうございますよ。 あの辺りは、秋でも雪がちらつくことがございますゆえ」
「なに、雪とな…」
一行は慌てて近くの店で半纏を買い求め、 夜のうちに温石を用意して、懐に忍ばせた。
翌朝。 まだ陽も昇りきらぬうちに、旅籠を出た三人。
吐く息は白く、空気はぴんと張りつめていた。
「さ、寒い…」 と、番頭の権兵衛は肩をすぼめ、口数も少ない。
一方、定吉はというと、 「うわぁ、息が白い! 雪、降るかなぁ!」 と、
元気いっぱいに跳ね回っていた。
藤兵衛も、懐の温石に手を当てながら、 「まったく、若さとはありがたいものよのう…」 と、苦笑い。
やがて、扇沢行きの馬車がやってきた。
冷え切った車内に乗り込むと、藤兵衛と番頭は身を縮こまらせ、
「うぅ…この寒さ、骨に染みるわい…」 と、ぶるぶる震える。
半刻ほど揺られ、ようやく扇沢に到着。
馬車を降りると、さらに冷気が肌を刺すように吹きつけた。
「こ、これは…まさに冬じゃ…」 と、藤兵衛は温石を握りしめながら、“とろり~馬車”の切符売り場へ向かった。
朝一番の到着だったこともあり、手にした切符には—— 「イの一」 の文字。
「……むむ、これは……」
藤兵衛は、思わず周囲を見渡した。
(まさか、またあの二人が…)
だが、見えるのは山の景色と、ちらほらと並ぶ旅人たち。
あの赤ら顔も、のんびりした声も、今のところは見当たらない。
「ふぅ…いや、今回はおらぬか。よきことじゃ…いや、少し寂しいような……」
複雑な思いを胸に、乗車場へと向かう。 そこに待っていたのは、鴨嘴とは異なる、
ずんぐりとした一両編成の箱。
「おお、これはまた…まるで山の中の駕籠じゃな」 と、藤兵衛が呟くと、定吉がはしゃいで言った。 「“とろり~馬車”って名前、なんかかわいいですね!」
「名前に似合わず、寒さはとろけぬがのう…」 と、番頭が震えながら返す。
やがて、箱が静かに動き出す。
“とろり~馬車”は、山の腹をくり抜いた洞窟の中を、ゆっくりと進んでいく。
ところどころ、松明が灯されており、 その揺れる光が岩肌を照らし、まるで異世界を旅しているかのよう。
「これは…不思議な乗り心地じゃ。音も静かで、まるで夢の中を進んでおるようじゃのう」
「ほんとだ…なんか、探検してるみたいです!」
三人は、寒さも忘れてしばし盛り上がった。
やがて、黒部ダムの駅に到着し、箱を降りる。
「おお…ここが黒部か。見事な石の壁じゃ」 と、藤兵衛が感心していると——
「おい、喜多さん、見てみろよ! この岩、顔に見えねぇか?」
「弥次さん、それはどう見てもただの岩だよ…」
……どこかで聞いたことのある、騒がしい声。
藤兵衛は、ゆっくりと振り返った。
後続の“とろり~馬車”が到着し、扉が開いたその先に
—— 見覚えのある二人組の姿が、霧のように現れた。
「……やはり、イの一は逃れられぬ運命かのう……」
藤兵衛は、温石を握りしめたまま、静かにため息をついた。




