「信州の香り、富山の知恵」
「いやはや、信州の秋風は、やはり格別じゃのう」
藤兵衛は、信州の町並みを歩きながら、鼻をくすぐる蕎麦の香りに思わず足を止めた。
今回の旅は、信州の新たな商家との初めての商談。
海月屋としても、これからの取引の要となる大事な場面である。
「海月屋の品は、江戸でも評判と聞いております」
「ありがたきお言葉。こちらの蕎麦粉も、香り高く、品がある。ぜひとも扱わせていただきたい」
商談は終始和やかに進み、双方の信頼が芽吹くような、実りあるひとときとなった。
「これでまた、ひとつ縁がつながったのう」
と、藤兵衛は満足げに蕎麦をすすりながら、次の目的地・富山へと思いを馳せた。
「さて、富山の薬問屋へ向かうとするか。毎年この時期に顔を出すのが恒例となっておる」
すると、信州の商人がふと口にした。
「そういえば、若旦那。立山連峰を越える新道が開通したそうですぞ」
「ほう、新道とな?」
「“とろり~馬車”という新しい乗り物ができましてな。
それに乗れば、立山の中腹まで楽に行けるとか。
そこからは、箱根で乗られたという“綱渡り箱”で山頂近くまで。
さらに進めば、富山方面へ抜ける馬車も通っております」
「なんと…! 立山を越えて富山へ…それはまるで、空と山と地をつなぐ旅ではないか!」
藤兵衛の胸に、久しく感じていなかった高揚感が湧き上がる。
「しかも、山頂付近には“日ノ本一高い温泉”があると聞きましたぞ」
「なにぃ!? それは…行かぬ手はあるまい!」
その夜、藤兵衛は宿の囲炉裏端で、番頭と丁稚に旅程を語った。
「信州から富山へ、立山を越えて行く。途中には空を渡る箱、そして雲の上の湯。
これはもう、商談と旅の妙味、両方味わえる道中じゃ」
「若旦那、まるで童のような目をしておられますな」
と、番頭が笑えば、
「温泉! 温泉! 山のてっぺんって、どんな景色なんでしょう!」
と、定吉もはしゃいでいた。
「ふふ、よいか、旅とはな、道中にこそ宝があるのじゃ。
それを見つける目と、楽しむ心を忘れるでないぞ」
こうして、藤兵衛一行は、信州の蕎麦の香りを背に、
立山連峰を越え、富山の薬の知恵へと向かう旅路へと足を踏み出した。




