「霧の中の祈りと、見えぬ背中」
翌朝、旅籠の朝餉は湯豆腐に焼き魚、香の物と、心も体も温まる品々が並んでいた。
「やはり、旅先の朝はこうでなくてはのう」 と、
藤兵衛は湯気の立つ味噌汁をすすりながら、今日の行程に思いを馳せていた。
食後、一行は山頂の神社を目指し、“綱渡り箱”の乗り場へと向かった。
昨日二度も乗ったおかげで、多少の慣れはあったものの——
「やっぱり、空を渡るのは慣れませんな…」
「下が見えない方が、逆に怖いです…」
と、番頭と丁稚は手すりを握りしめていた。
藤兵衛も、内心では同じ気持ちだったが、
「まぁ、これも修行じゃ。心を鎮めて乗るのじゃ」 と、どこか自分に言い聞かせるように言った。
箱が山を登るにつれ、あたりは次第に霧に包まれていった。
白く、濃く、まるで世界が綿で覆われたような静けさ。
景色は何も見えず、ただ、箱の揺れと綱の軋む音だけが耳に残る。
やがて山頂の駅に到着。
そこから神社までは、霧の中を歩いていくこととなった。
「立札を見落とさぬように。道を誤れば、どこへ行くか分からぬぞ」 と、藤兵衛が声をかけ、
一行は慎重に足を進めた。
霧の中、木々の影もぼんやりとしか見えない。
それでも、立札を頼りに分岐を進み、ようやく神社の鳥居が姿を現した。
「おお…着いたか」
三人はそれぞれ、手を合わせて祈願した。
商売繁盛、家内安全、そして旅の無事を。
祈りを終え、少し霧が薄くなったのを見計らって、展望台へと足を運ぶ。
そこに、またしても聞こえてきたのは——
「おい、喜多さん、神社はこっちだぜ」
「いや、こっちではないかい?」
……あの声。
昨日も、何度も聞いた、あのやり取り。
霧の向こうに、赤ら顔の弥次さんが見えた。
彼が向かおうとしているのは、どう見ても神社とは逆の、下りの道。
一方、喜多さんは正しい方向を指している。
「神社で待っているわ!」 と、弥次さんが大声で叫ぶと、
「分かった、迷子にならないようにね!」 と、喜多さんが返す。
その直後、霧がふわりと濃くなり、三尺先も見えぬほどに。
まるで、舞台の幕がふたたび下ろされたかのようだった。
神社へ向かう道の脇を、喜多さんが軽く会釈して通り過ぎていく。
一方、弥次さんの姿は、霧の向こうに消えたまま。
その足音も、声も、もう聞こえない。
「……う~む、これは……」
藤兵衛はしばし立ち止まり、霧の向こうを見つめた。
気にはなる。だが、今回は番頭と丁稚を連れている身。
軽々しく飛び出すわけにもいかぬ。
「……ま、あの二人のことじゃ。どうにかなるじゃろ」
そう言って、藤兵衛は踵を返した。
霧の中、静かに歩き出す三人。
旅の終わりは、どこか寂しく、そして少しだけ笑える余韻を残していた。
― 終 ―
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