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東海道中珍栗毛  作者: なごやかたろう
箱根綱道中 湯けむり越えて
30/46

「霧の中の祈りと、見えぬ背中」

翌朝、旅籠の朝餉は湯豆腐に焼き魚、香の物と、心も体も温まる品々が並んでいた。

「やはり、旅先の朝はこうでなくてはのう」 と、

藤兵衛は湯気の立つ味噌汁をすすりながら、今日の行程に思いを馳せていた。


食後、一行は山頂の神社を目指し、“綱渡り箱”の乗り場へと向かった。

昨日二度も乗ったおかげで、多少の慣れはあったものの——


「やっぱり、空を渡るのは慣れませんな…」

「下が見えない方が、逆に怖いです…」


と、番頭と丁稚は手すりを握りしめていた。

藤兵衛も、内心では同じ気持ちだったが、

「まぁ、これも修行じゃ。心を鎮めて乗るのじゃ」 と、どこか自分に言い聞かせるように言った。


箱が山を登るにつれ、あたりは次第に霧に包まれていった。

白く、濃く、まるで世界が綿で覆われたような静けさ。

景色は何も見えず、ただ、箱の揺れと綱の軋む音だけが耳に残る。

やがて山頂の駅に到着。

そこから神社までは、霧の中を歩いていくこととなった。


「立札を見落とさぬように。道を誤れば、どこへ行くか分からぬぞ」 と、藤兵衛が声をかけ、

一行は慎重に足を進めた。

霧の中、木々の影もぼんやりとしか見えない。

それでも、立札を頼りに分岐を進み、ようやく神社の鳥居が姿を現した。


「おお…着いたか」


三人はそれぞれ、手を合わせて祈願した。

商売繁盛、家内安全、そして旅の無事を。


祈りを終え、少し霧が薄くなったのを見計らって、展望台へと足を運ぶ。

そこに、またしても聞こえてきたのは——


「おい、喜多さん、神社はこっちだぜ」

「いや、こっちではないかい?」


……あの声。

昨日も、何度も聞いた、あのやり取り。

霧の向こうに、赤ら顔の弥次さんが見えた。

彼が向かおうとしているのは、どう見ても神社とは逆の、下りの道。

一方、喜多さんは正しい方向を指している。


「神社で待っているわ!」 と、弥次さんが大声で叫ぶと、

「分かった、迷子にならないようにね!」 と、喜多さんが返す。


その直後、霧がふわりと濃くなり、三尺先も見えぬほどに。

まるで、舞台の幕がふたたび下ろされたかのようだった。


神社へ向かう道の脇を、喜多さんが軽く会釈して通り過ぎていく。


一方、弥次さんの姿は、霧の向こうに消えたまま。

その足音も、声も、もう聞こえない。


「……う~む、これは……」


藤兵衛はしばし立ち止まり、霧の向こうを見つめた。

気にはなる。だが、今回は番頭と丁稚を連れている身。

軽々しく飛び出すわけにもいかぬ。


「……ま、あの二人のことじゃ。どうにかなるじゃろ」


そう言って、藤兵衛は踵を返した。

霧の中、静かに歩き出す三人。

旅の終わりは、どこか寂しく、そして少しだけ笑える余韻を残していた。


― 終 ―

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