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東海道中珍栗毛  作者: なごやかたろう
箱根綱道中 湯けむり越えて
29/49

「湯けむりの谷と、黒き卵と、熱き叫び」

“綱引き箱車”が急坂を登りきると、そこは乗り換えの駅。

次なる乗り物は“綱渡り箱”と呼ばれる空の箱である。


「さて、次は空を渡る番じゃな」 と、藤兵衛は切符を手に、番頭と丁稚を引き連れて乗車場へ向かった。


そこに待っていたのは、見慣れた形の小振りな箱。

「おお、これはいつもの箱と変わらぬな。安心安心…」 と、思ったのも束の間、

ふと見上げると、箱の上には太い綱がぴんと張られている。


「……まさか、あの綱で吊って渡るのか?」

「まるで、空中の綱渡りじゃないですか…」

「わしら、軽いから風に飛ばされませんかね…」


三人の不安をよそに、箱は静かに動き出した。

ごとん、と音を立てて空へと滑り出す。

眼下には、深く切れ込んだ谷。

そして、もくもくと立ち上る白い湯気。


「おお…これは…まるで地獄の一丁目…」 と、藤兵衛は思わず息を呑んだ。

「でも、景色はすごいですね!」 と、定吉が目を輝かせる。

「わしは景色より、この揺れの方が気になるがのう…」 と、番頭は手すりを握りしめていた。


やがて、箱は無事に大涌谷駅へ到着。 三人は安堵の息をつきながら地に足をつけた。

「さて、ここでは火口を見物し、くろたまごを食すぞ」 と、藤兵衛が声をかけると、

「はいっ!」と定吉、

「楽しみにしておりました」と番頭も笑顔で応じた。


湯けむりの中を進むと、そこにはまさに“地の底”のような光景が広がっていた。

岩肌からは蒸気が噴き出し、硫黄の匂いが鼻をつく。

「これが…火山の火口か。まことに、自然とは恐ろしくも美しいものよのう」


三人は茶屋に入り、くろたまごと茶を頼んだ。

やがて運ばれてきたのは、まっくろくろの卵。


「おお…これはまた…墨を塗ったようじゃ」

「ほんとに食べられるんですかね…?」

「おいしいですよ。中は普通のゆで卵ですから」 と、店員がにっこり笑う。


三人が恐る恐る殻をむき、口に運ぶと——

「おお…これは…うまい!」

「香ばしさがあって、普通の卵よりも濃い味がしますな」

「これで寿命が延びるなら、あと三つは食べたいです!」

と、和やかに茶をすするそのとき——


「あっちぃぃぃぃっ!!!」


突如、店の外から響く大声。

「それ、まだ熱いって言ったじゃないか、弥次さん!」

「だって、湯気がうまそうだったんだもん!」


見ると、湯気の立ちのぼる湯釜のそばで、 手を振り回しながら飛び跳ねているのは、やはり弥次さん。 その横で、呆れ顔の喜多さんが手ぬぐいを差し出していた。


「お客様、あれは展示用ですので、手を出さないでください!」 と、店員にたしなめられ、

「いやぁ、ちょっと香ばしい匂いがしてたもんで…」 と、弥次さんは頭をかきながら、指先をふーふーと冷ましていた。


「まったく、あんたは卵より先に茹で上がる気かい」

「いや、わしの指もくろたまごになりそうでな…」

「ならんわ!」

そのやりとりを、茶屋の窓から見ていた藤兵衛は、

「……やはり、どこにでも現れるのう」 と、苦笑しながら、最後の一口を口に運んだ。


くろたまごと茶を堪能した三人は、再び“綱渡り箱”に乗り込み、 今度は桃源台へと抜けた。

そこに待っていたのは、静かな湖と、温泉付きの旅籠。


湯けむりに包まれた湯船に浸かりながら、藤兵衛はぽつりとつぶやいた。

「やれやれ、旅とは…やはり一筋縄ではいかぬものよのう」

番頭は肩まで湯に沈み、 「ですが、良い旅でございました」 と、目を細めた。

定吉は湯の中で手足をばたばたさせながら、 「明日は山の上の神社ですね! 楽しみです!」

藤兵衛は、湯の表面に映る灯りを見つめながら、

「さて、明日はどんな珍事が待っておるか…」 と、心の中でそっと笑った。

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