「曲がり道と斜めの箱と、赤ら顔の行方」
小田原城の見事な天守を後にした一行は、駅馬車に揺られて強羅を目指すこととなった。
乗合馬車には十人ほどが乗り合わせており、藤兵衛たちは三人並んで腰を下ろした。
「ふぅ、ここからは山道じゃ。揺れが増すぞ、しっかりつかまっておれよ」 と、藤兵衛が声をかけると、定吉は「はいっ!」と元気よく返事をした。
馬車が動き出すと、案の定、道はくねくねと曲がりくねり、左右に大きく揺れる。
「うぅ…これはなかなか…」 と、藤兵衛は額に汗をにじませ、内心の動揺を隠すのに必死だった。
そんな中、定吉はというと、窓の外を眺めながら、
「おや、後ろでお酒を呑んでる人がいますね。大丈夫かなぁ」 と、のんきな声を上げた。
「なに…?」
藤兵衛がふらつく頭をなんとか持ち上げて後ろを振り返ると、 そこには、顔をほんのり赤く染めた男が一人。
「……弥次さん……」
その姿を見た瞬間、藤兵衛の中で警鐘が鳴った。
(これは…何かやらかすぞ。いや、やらかさぬはずがない)
だが、今はそれどころではない。
馬車の揺れは容赦なく、藤兵衛の胃袋を翻弄し続ける。
「うぅ…このままでは、わしが厠に駆け込む羽目になるやもしれぬ…」
ようやく強羅に到着すると、藤兵衛はふらふらと馬車を降り、深く深呼吸をした。
「ふぅ…地に足がつくとは、かくもありがたいものか…」
そのとき、後ろから一人の男が足早に駆け出し、近くの厠へと飛び込んでいった。
「……あれは……弥次さん?」
どうやら、酒を呑んで余裕そうに見えた弥次さん、 実は馬車の揺れにやられていたらしく、今まさに“戻し”の最中であった。
「まったく…毎度毎度、よう飽きぬものよのう」 と、藤兵衛は呆れ半分、安堵半分で首を振った。
気を取り直し、一行は“綱引き箱車”の駅へと向かった。
切符を買い、乗車場へ進むと、そこに現れたのは見慣れぬ形の箱。
「おお、これはまた…斜めじゃ」
箱は斜面に沿って傾いた形をしており、前方には太い綱がしっかりと結ばれている。
「なるほど、これで引っ張られて登るのか。まるで山の中の駕籠じゃな」
発車時刻になると、係の者が「扉を閉めます」と声をかけ、箱の扉が閉じられた。
ごとん、と音を立てて動き出す箱。
ゆっくりと、しかし力強く、急坂を登っていく。
藤兵衛は車内を見渡した。
「……あの二人は…おらぬな」
どうやら、弥次さんは厠から戻れず、乗り遅れたらしい。
「ふふ、今回は静かに登れそうじゃ」
窓の外には、緑の山肌と、遠くに霞む町並み。
綱に引かれて登るこの不思議な箱の中で、藤兵衛はようやく心を落ち着けた。
(さて、大涌谷ではどんな景色が待っておるかのう…)
だが、旅とは油断したときにこそ、何かが起こるもの。 それを、藤兵衛はまだ知らぬ。




