「鴨嘴は風のごとく、小田原にて声がする」
慰安旅行の朝。 江戸の駅に集まった海月屋一行は、揃いの羽織をひらめかせながら、鴨嘴の乗り場へと向かった。
「おお、これが鴨嘴か…まるで鉄の龍ですね」 と、丁稚の定吉は目を輝かせ、
「こいつが馬車の代わりになるとは、時代も変わったもんですな」 と、番頭の権兵衛も感心しきり。
藤兵衛は、手にした切符を見てふと眉をひそめた。
「十六両目、イの一からイの三…むむ、イの一とは…」
過去の旅路が脳裏をよぎる。
“イの一”が付くとなぜか現れるあの二人。
だが、今回は番頭と丁稚が両脇に座っている。
「さすがに、今回は遭わぬじゃろう…たぶん…いや、きっと…」 と、心の中で自らに言い聞かせる。
やがて鴨嘴が動き出すと、車窓の景色が風のように流れ始めた。
「うわぁ! 速い! 馬車の十倍はありますよ!」 と、定吉は窓に張りついて大はしゃぎ。
「こりゃあ、商いも早くなるわけですな…」 と、権兵衛も思わず笑みをこぼす。
藤兵衛は、そんな二人の様子を微笑ましく見守りながら、
「こうして皆で旅に出るのも、なかなか良いものじゃのう」 と、心の中でつぶやいた。
半刻も経たぬうちに、鴨嘴は小田原に到着。
「えっ、もう着いたんですか!?」 と、定吉は名残惜しそうに座席を撫でていた。
「帰りにも乗るのじゃ。楽しみは取っておくものよ」 と、藤兵衛が宥めると、
定吉は「はいっ」と元気よく頷いた。
一行は小田原城へと向かい、その堂々たる姿に見入った。
「これが天下の堅城か…石垣の曲線がまた見事じゃ」 と、
藤兵衛は天守を見上げながら、心の奥がくすぐられるのを感じていた。
そのとき——
「おい、喜多さん、小田原といえば蒲鉾だろ、早速買いに行くべ」
「弥次さん、待ってくれよ、そんなに走るとまた転ぶってば」
……どこかで聞いたことのある、いや、聞き慣れた声。
藤兵衛は、ゆっくりと顔をそちらに向けた。
(まさか…いや、まさか…)
定吉は蒲鉾の屋台に目を輝かせ、権兵衛は城の石垣に見入っている。
その横で、藤兵衛は静かにため息をついた。
(旅というものは、やはり一筋縄ではいかぬものよのう…)




